共通点はいろいろあるが、何と言っても愛知のトヨタ、広島のマツダであろうか。神奈川の日産、静岡のホンダとは誰もいわない。もっともホンダは東京に本社を移している。鍛冶屋の息子だった本田宗一郎は、1946年に本田技術研究所(後の本田技研工業)を浜松に設立した。ホンダの発祥地が浜松というだけで、工場のある三重県・鈴鹿のイメージが強い。
豊田も松田も松下も苗字を社名にしたが、井深大と盛田昭夫の東京通信工業株式会社(後のソニー)の社名に憧れもあった本田宗一郎は、苗字を社名にしたことが最大の後悔であったという。また、会社は個人のものではないという考えの宗一郎は、身内を入社させなかったことでも知られていた。愛知・山口も保守的だが、広島というところも案外保守的である。
愛知も広島も自動車産業が盛んだが、そうした傾向は経済にしろ、プロ野球やサッカーJリーグなどのスポーツにしろ、独自でやって行こうという土地柄に現れている。もっとも、昔からの教育自体が保守的であったのは、どこの県においても変わらない。愛知と広島といえば昨日記した、尾張から福島正則が広島藩、三河から水野勝成が福山藩入封という関連もある。
名古屋と広島の共通点なら100m道路。どちらも戦災復興の都市計画に基づいて建設されたもので、名古屋市には2本と、広島市には1本となっている。戦後復興計画案の際には全国で24本の、「100m道路」が計画されていたが、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)による、「敗戦国に立派な道路は必要ない」との反対から名古屋市と、広島市のみが実現した。
名古屋市は若宮大通、久屋大通、広島は平和大通りと名付けられている。100m道路の主目的は、火災による延焼防止、災害時における避難場所を造るという名目であった。100mもの道路となると立ち退きなど、様々な障害もあったが、若宮通の場合、名古屋刑務所が三好町(現・みよし市)に移転先用地確保が出来、東西約4kmを貫く100m道路が完成することとなった。
「久屋大通」の久屋は、尾張徳川藩初代藩主の徳川義直が、末長く繁盛することを願って久屋町と命名、そのまま通りの名に使われた。久屋大通は、通りに面して専門店や飲食店や緑地公園があるなどの共通点が多いことから、パリのシャンゼリゼ通りと友好提携を結んでいる。また、1986年に制定された、「道の日」による、「日本の道100選」の中に選定されている。
広島の100m道路は、1965年に開通し、「平和大通り」の名は、1951年公募によって決定した。こちらも、「日本の道100選」の一つである。一時は、「GHQが戦後焼け野原となった広島の地図上に一本の線を引きそこに100m道路が出来た」、などの言われ方もしたが、1946年10月立案の、「広島復興都市計画」によるキチンとした行政計画のものできたものであった。
市民が用いる生活道であるが、平和公園へ訪れる観光客が用いる道として、多くの人々が通行する。毎年5月3日から5日に催される平和の祭典、「ひろしまフラワーフェスティバル」のメイン会場にもなっている。愛知と広島の主な共通点は大体そんなものだが、以前、「探偵ナイトスクープ」という番組で、三河弁と広島弁が似てると指摘されていた。品が悪いからか?
例えば、「えらい」という言葉がある。標準語では、「えらい人」、「賢い」が常用だが、広島や三河地方では、「しんどい」、「つらい」の意で使われる。言葉を学究的に言えば、政治の中心であった京都が、かつての言語や流行語の発信地であったため、京都から等距離の土地に、似通った表現や方言があるということらしく、これを学者は、「蝸牛論」と呼んでいる。
学問的にはそうであったとしても…、名古屋~京都は約105km、広島~京都は約311kmである。3倍を等距離とは言わんだろう、普通は。60センチの身長と、180センチが同身長と言ってるようなもんだぜ。そのことはともかくとして、ある名古屋人はいう。「私は名古屋弁ですが、友達(島根県)と話していると、互いが自分の方言で話しているように感じるときがあります。
たとえば、「早くやらんといかん」(早くやらなきゃいけない)とか、「〇〇が言っとったから」(〇〇が言ってたから)などとお互いが使います。名古屋弁と中国地方の人の言葉は似ているところがたくさんあると思います」。島根ではなくとも、上の言葉は広島人の常套句じゃ。と思えば、以下の反対意見もあり、人はいろいろだ。「うーん、私は似てるとは思いません。
ただ、似ているところがあるとすれば、語尾を強めに上げるところでしょうか。強気に聞こえる点が共通しているかと思います。辛いことを、「えらい」というのは、「えらいこっちゃ」など、関西地方でも見られます。私には鹿児島弁と東北弁が似たように聞こえます」。歩行距離で京都~鹿児島は約756km、京都~仙台は約718km。東北と言ってるので大体同距離。
どっちも分かりにくい点では共通するかも。ただし、昨今はテレビなども影響もあって、ネイティブな方言はあまり若者が使わなくなった。かつて大学や就職で上京した東北人は、方言の訛りで肩身の狭い思いをしたという。鹿児島から東京に憧れた人もいようが、東京はあまりに遠く、第二の首都大阪辺りが多かったようだ。参勤交代の島津藩は大変だったろう。
戦国時代桶狭間で今川義元を破った信長は、上洛の本拠地を岐阜に移した。確かに岐阜は京都に近い。「天下布武」を掲げた信長は、備前(岡山)で宇喜多秀家を下し、残るは広島の毛利との対決のみであった。秀吉を前衛に毛利攻めを企てた矢先、信長は本能寺に斃る。薩摩の島津も九州制圧から京を狙ったが、岐阜の信長に比べると、都はあまりに遠すぎた。
毛利は信長の脅威であったが、彼がほとほと手を焼いた最大の敵は、本願寺門徒衆による一向一揆と言われている。「安芸門徒」は、鎌倉時代末期から南北朝期に成立し、現在まで続く安芸国の浄土真宗門徒の総称である。関ケ原以降、江戸時代を通じて安芸国内での信仰の中心となった浄土真宗本願寺派は、文明開化後の明治に入っても衰えを見せなかった。
明治16年(1883年)2月の調査によると、本願寺派寺院は旧安芸国内399ヶ寺、備後国内259ヶ寺、門徒は安芸132,296戸、備後45,788戸を数えた。昭和に入っても、安芸門徒は広島の宗教人口の大半を占め、学仏場から昭和23年(1948年)、新制崇徳高等学校開学となり、同年には進徳女子高等学校も開校した。昭和51年(1976年)調査では、広島県民の57%が真宗門徒で占められていた。
信長の一向宗門徒に対する狂気は、叡山攻めの際にも現れた。猛火を逃げまどう高僧貴僧や、婦女子に至るまでことどとく首を刎ねた。「数千の屍算を乱し云々」と『信長公記』に記述されている。また、長島の一向一揆制圧のさいも、同じような地獄絵図場面が展開され、降伏した老若男女2万余人に対し、柵内に閉じ込めた上、四方から火をかけられて焼き殺された。
さらに、越前一向宗攻めでは3~4万人が皆殺しにされた。信長が魔王と呼ばれたのは、「性格学」的に精神病質人格、異常性格とされたこともあるが、天下平定は戦乱のない世を目指した点に於いては評価される。家康がそれを成し遂げたのも、信長、秀吉の心配や問題点を把握し、「鳴くまで待とう」の精神を構築したからと言われる。が、家康の人気の無さは何か?
豊臣を潰したやり口が何とも陰険ということもある。信長死後、家康は、大名一同前で秀吉に頭を下げ、臣下の礼を取ることをした。このことで今まで信長の下で同格との思いがある者も、同盟者家康が秀吉に頭を下げることにより、完全に天下人は織田家から羽柴家に変わったことと、自分達がもう秀吉と同格では無いということを決定し、強く印象付けたのだった。
家康は自分がした同じことを豊臣の跡継ぎ秀頼に対し、父秀吉が家康にしたように、あの手この手でさせようとした。が、秀頼・淀連合は、家康も自分達の支配化の人間であるという態度崩さなかった。「いいかげんにせーよ、おまえら」と切れた家康の気持ちも分からなくもない。人は、「待つ」ことを忍耐、「辛抱強さ」というが、我慢の糸が切れた場合は人が変わる。
こんにちの教育学、躾の定義で、無理な我慢を強いるのは暴発の恐れありと言われている。「親殺し」、「子殺し」は、突発的には起こらない。我慢に我慢をしたことによる、まさに、「窮鼠も猫を噛む」としたものだろう。「親殺し」などと、とんでもないと儒教は説くが、赤の他人を物取りなどの単純な動機で殺すより、余程の止むに止まぬ事情があったと推察する。
かつて尊属殺人は一般殺人に比べて重い量刑が科せられていたが、親殺しの真実とは、「親を親とも思わぬ行為」ではなく、親から受ける、「子を子とも思わぬ無慈悲な仕打ち」に対する返報であろう。幾度も親を殺そうとした人間にはよくわかるが、やはり一時の感情で親を殺さなくてよかったと思う。「ならぬ堪忍、するが堪忍」というが、その時には分からない。
「あの時我慢してよかった」は、後年における回想だ。尊属殺人は、情状的に言っても哀しい殺人であるが、そのことで少年院や獄舎に繋がれた子どもたちへの周囲の理解はない。確かに、「行為」は愚かであるが、その前に、愚かな親にならぬよう、親は遠くから子どもを見つめて欲しい。あまりに近くから見過ぎると、ついつまらぬことで子どもと争ってしまう。
人と人との適宜な、適切な距離感は、親子といえども人間関係である以上存在する。何事も、「境界線」を超えると、混乱のあまり人間は、自身の本当の気持ちが分からなくなる。混乱を避ける⇒無理を避ける。自分は、「無理」というキーワードを大事にするが、「無理が通れば道理引っ込む」に起因している。無理をして通す道理は、もはや道理とは言えない。
愛知県の①東海高校、②旭丘高校、③一宮高校、④岡崎高校、⑤刈谷高校。 広島県の①広大付属福山高校、②広大付属高校、③広島学院高校、④ノートルダム清心高校、⑤修道高校。 秀でた高校、大学の類はどこにもあるが、今のその人に興味が沸くなら、どこを出たかなど関係ない。誰もが自らに豊さを許し、豊さを実感できるなら、豊かに生きている人であろう。