尾張と三河といえばかつての律令国の中でもっとも有名であろう。信長、秀吉、家康を配したことからも、日本一有名ではなかろうか?日本人で尾張、三河を知らぬ者は、おそらく相当のバカではないかと考える。それに比べて安芸・備後と言っても、「それってどこ?」が一般的で、知る人が稀有といえる。「安芸の宮島」といえば多少は頭に浮かぶはずだ。
その宮島が何県にあるかを知らない日本人は、多少バカ(相当バカは気がひける)であろう。が、「日本三景はどこだ?」と言われて答えられない日本人は、自分のおおよその予想だが、7割~8割くらいはいるのではないか?生活に必要もない日本三景や、日本三大名城、三大名川、世界三大美女など所詮はクイズの問題である。そういえば日本三大美人というのがある。
秋田美人、京美人、博多美人をいうが、これらは何を準拠にいうかといえば、秋田美人の肌の色の白さ以外、京美人、博多美人には何の根拠もない。色の白さを美人と定義するのは日本に限らず世界の傾向であった。ファンデーションは、顔全体に塗り、シミ、そばかす、小皺、毛穴、を覆い隠して肌の表面を均等に整える役目を持つが、あくまで下地化粧品に分類されている。
この油性化粧が一般化する前は、おしろい(白粉)がベースメイクだった。種類に応じて、粉おしろい、水おしろい、練りおしろいなどに分類されていた。白色顔料をベースメイクにした最古の例として、メソポタミアの遺跡から白紛が発掘されているが、自然な肉体美が賛美された古代ギリシアにおいては、ヘタイラと呼ばれる娼婦が専ら白粉を使っていたという。
古代ローマの時代では多くの女性が白紛を利用し、ローマ帝国以後は化粧の文化は一旦衰退した。中世後期からルネサンス期にかけてイタリアを中心に、顔に白紛を塗り、その上に頬紅を加えるメイクが流行した。このメイク法は18世紀にかけてヨーロッパ全域の王侯貴族に男女問わず広がったが、白紛成分に含まれる亜鉛華(酸化亜鉛)の毒性が健康上の問題となる。
日本では、7世紀ごろに中国から、「はらや」(塩化第一水銀)、「はふに」(塩基性炭酸鉛)という白紛がもたらされて国産化された。白粉に鉛白が使用されていた時代、鉛中毒により、胃腸病、脳病、神経麻痺を引き起こし、死に至る事例も少なくなかった。また、日常的に多量の鉛白粉を使用する役者(五代目中村歌右衛門など)は、特にその症状が顕著であった。
こうしたことから1934年(昭和9年)には、鉛を使用した白粉の製造が禁止されたが、鉛白入りのものの方が美しく見えるとされ、禁止された以降においても、かなりの需要があったという。なんとなんと…、女性の美に対する執着とは、"おとろしい"ものでがんす。美白といえば、鈴木その子(1932年(昭和7年)1月20日 - 2000年(平成12年)12月5日)が思い起こされる。
どうにも化け物にしか見えなかったが、本人は美女のつもりであり、マスコミも、「美白の女王」と敬称した。美白もさながら彼女は、『やせたい人は食べなさい』なる著書がミリオンセラーとなったが、その本を生み出すことになった裏には、拒食症で世を去った最愛の息子の影があったという。息子の死は母親のその子の目前であったというからドラマチックである。
ある日、母のその子が出かけるのを、2階のベランダから手を振って見送った息子だったが、その時に拒食症から貧血を起こし、その子の目の前でベランダから落ちて亡くなったという。その子の実母は、美食による肥満から生活習慣病(動脈硬化)を起こして没していた。誤った食事が原因で最愛の人を失ってしまった。自分が勇気をふるい起こしていれば…。
激しい後悔がその子を突き動かし、「鈴木式(現SONOKO式)食事療法」を完成させたという。さまざまなダイエット本が刊行されているが、どのように考えようと、取ったカロリーを運動などで吐き出す以外に痩せる方法はない。まして人間の食欲は意識や気分でなく、生きるための本能の成せる業であり、それを我慢してはいけない、無理に抑えてはいけない。
そうしたストレスが別の病気を起こしては何のためのダイエットであろう。人間は子育てなどを動物から学ぶことが多いが、食べることにおいても彼らは生きるために食すのみで、決して過食はしない。セルフコントロールができているわけだが、人間がペットを飼育するとデブ猫、デブ犬にする。バカな主人をもったペットも憐れなり。動きずらいばかりか、死期を早める。
「安芸と備後」というタイトルで脱線してしまった。ならば、戻せばいいことで、書いたことは別に悪害ではない。「安芸の宮島」というが、子どもの頃には宮島がもみじで有名であり、紅葉も美しいことから、「秋の宮島」と思っていた。まだ、安芸や備後の意味も分からぬ頃だ。「安芸の宮島」に対して備後には有名な何があるのか?正直いって何もない。
何もないとは備後に失礼だが、これといってない。関ヶ原合戦以降、後に福山藩となる備後国は、安芸国と共に福島正則によって領有(49万8千石)されていた。その正則は広島城無断修築の咎を受け、元和5年(1619年)に改易となり、領地は分割された。安芸及び備後北部・西部は浅野長晟(42万石)、備後南部には水野勝成が、大和国郡山藩(6万石)から4万石加増の10万石で入封した。
勝成は徳川家康の従兄弟にあたり、徳川家康の生母・於大の方の実家である水野氏が刈谷の地を支配していた。大坂の陣をはじめ卓越した戦歴を持つ元三河・刈谷藩主であった勝成は、その後大和国郡山藩に移り、福島改易後に初代福山藩主として着任。福山藩では、放浪時代の人脈を生かして積極的な人材登用を行い、上水道の整備や新田開発、治水工事などに尽力、名君となる。
0歳 1564年9月30日、三河国で家康家臣水野忠重の長男として誕生
16歳 高天神城攻めで15の首級をあげ、主君信長から戦巧者として永楽銭の旗印をもらう。
19歳 甲州黒駒合戦で北条軍(一万人)とひとりで対峙し、300の首級をあげる。
21歳 父親の家来を殺してしまい、勘当されるが、偽名を使って、佐々成政、黒田長政、小西行長、加藤清正など、名だたる武将のもとへ仕官する。
36歳 父親が味方に暗殺され、16年ぶりに実家に帰って家督を継ぐ。関ヶ原の戦いで徳川家康に呼ばれて参戦。親の仇を取り、敵の家宝を奪う活躍。
51歳 大坂夏の陣で軍の責任者なのに自ら先陣に立って戦い一番乗りを果たす。
75歳 島原の乱鎮圧のため息子、孫と共に出陣。
史上初の藩札を発行するなど、数多くの善政によって理想的な藩政を行っている。数々の合戦で大活躍し、「戦国最強」との呼び声もある勇将ながら、荒過ぎる気性が災いして軍令違反もしばしば犯した水野勝成は、そんな典型的な荒武者タイプだったが、豪傑さとは裏腹に福山藩では名君となる。若き時代にヤンチャである方が、人間に深みを与えるかも知れない。
JR福山駅のすぐ後方にそびえ立つ福山城は、勝成がわずか3年で築いたといわれ、国の重要文化財に指定されている。行ったことはないが、広島城との城対決では引き分けといったところか。広島藩は、安芸国一国と備後国の半分を領有した大藩で、現在の広島県の概ね半分にあたる。藩庁は広島城(現在の広島市)に置かれた。芸州藩(または安芸藩)と呼ばれることもある。
広島城は天正19年(1591年)に築城され、毛利氏の居城となるが、関ヶ原の戦いで西軍の総大将として参戦し敗戦した毛利輝元は、戦後防長2国(長州藩・現在の山口県)に減封された。代わって安芸・備後2ヶ国の49万8000石の太守として、尾張国清洲より福島正則が入封した。豊臣氏恩顧の有力大名であった福島は、城改築の嫌疑をかけられ、安芸・備後50万石は没収された。
映画『切腹』の冒頭、「申の刻に至り、元芸州広島藩、福島家の浪人と称する者、表玄関に訪ね来たる」と、徳川四天王「井伊家覚書」朗読で始まるが、広島藩浪人こと津雲半四郎から拝借したhanshirouのハンドルである。映画の後半、半四郎が井伊家家老を前に、「所詮、武士の面目などと申すものは、単にその上辺だけを飾るもの」と、カッチョいい言葉を吐く。
半四郎の本音をhanshirouが現代語に置き換えれば、「何が徳川四天王?何が井伊家の赤備えじゃ?そんなしょーもないことで粋がって笑わせるんじゃないよ」というところだろう。広島藩改易の恨み、格下げ転勤させられた元藩主福島正則の怨念が言葉に現れている。ここまで言われたら井伊の家老も、そりゃ、怒るだろうよ。「乱心者、斬れ、斬れ~!」と、怒りましたがね。
時代劇にちゃんばらはつきもの。ちゃんばらとは、刀で斬り合う音、およびその様子を表す擬音に由来する副詞的語句の、ちゃんちゃんばらばらの略だ。映画で使う刀は、竹の刀身にアルミホイールのような銀紙を貼ったものだから、ちゃりーんなどの音はなかった。それが近年は、ちゃりーんの擬音を後で挿入したり、CGで血しぶきまで入れるリアルさが迫力を生んでいる。
子どもの頃に男の子は、棒きれを持つとちゃんばらを始めたものだ。「箸にも棒にもかからぬ子」という諺がある。「 どうしようもない」、「救いようがない」との意味だが、若き頃の水野勝成はまさにそうであったが、後に名君となる。幼馴染の友人が有名大企業の社長になったとき、小学校時に手のつけられない奴ゆえに、統率力に長けていたのだと納得した。