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尾張と三河

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愛知県の特に三河地域の公立小中学校には、優秀な工員になるための通過儀礼が数多あるといい、それほどトヨタ依存の地域である。部外者には分かりかねるが、中でも最大の特色と言われるのが集団登校で、「協調」や「和」の重視といった、チームワークや団体責任を重んじる点では有意義でも、各々がバラバラに登校するのと比べてロスタイム生じるはずだ。

トヨタイズムはなにより組織のためのものだから、組織として機能しなければ個人として孤立する可能性もある。河村名古屋市長が再選されたばかりだが、彼の地元人気は他県の人間には分からない。市議の報酬を半額にするといって当選したのは立派と思ったが、結局市議会が議員報酬増額の条例案を出し、元に戻ったところを見ても、「ポーズの人」のイメージが強い。

尾張人と三河人の性格・気質差が言われるが、自分などにはリスペクトする人物(信長&家康)くらいしか分からない。短命の尾張政権は、徳川270年の三河に負けたことになるのだろうから、それも尾張の三河への対抗意識となっている。また、尾張と三河の産業の違いとしては、尾張はセラミック関連、繊維、重工業の尾張に対し、、三河はなんと言ってもトヨタ。

そして八丁味噌、抹茶の産地、一色うなぎ、蒲郡のアサリなど。そういえば、たった一人で丸刈り拒否で頑張った常滑市立鬼崎中の杉江匡くん。孤立を厭わぬ精神力は立派であり、気にもなって彼のその後の動向を追ってみた。そもそも常滑市は古くから陶器の町であり、杉江くんは三代続くヤマセ製陶所の四代目で、「すり鉢屋日記」をブログに公開している。

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知多半島を三河というなら常滑も三河と思いきや尾張らしい。全国に地域間のつばぜり合いは少なくないが、広島にも安芸と備後に微妙な対立がある。安芸の代表は広島、備後は福山となり、特に備後・福山は西の外れもあってか、広島県からの疎外感が大きい。言語体系や文化的にも隣県岡山の影響が大きく、安芸・広島人の意識からすれば福山は半分岡山である。

安芸と備後の境界はどうなっているのか?広島県と山口県(安芸国と周防国)の境界線は小瀬川である。大体において境界に川が多い。どうやら安芸と備後の境界は沼田川のようだ。沼田川の河口は三原市にあり、ゆえに境界は三原市となる。それでも三原人は、「備後じゃない」などと言いたいようだ。昔のことなのに、こんにちこれほど拘りがあるのがオモシロイ。

広島人が福山人を見下すように、尾張人も三河人を見下す傾向にある。トヨタでさえもちょい前まで名古屋財界では二流扱いされていた。とはいえ、名古屋財界自体がしょぼい。ほとんどの工業出荷額をトヨタに頼っている現状だ。トヨタは豊田に籍を置くべきで、東京に行けば三河は尾張にけちょんけちょんの目にあうだろう。ところで尾張と三河の境界は境川である。

それなら境川に面する刈谷住民は、「だぎゃー」とか、「なも」を使えば笑われるのか?東郷町とみよし市は川に挟まれているが、言葉も人の雰囲気も明らかに変わるという。実を言えば地元の人には境界など分かっていない人多し。三河といえど、新城・豊橋の東三河では浜松弁の影響が大きいという。家康の生誕地である岡崎市民は名古屋への対抗意識が特に強い。

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「名古屋と一緒にされたらこまるで~」というが、何が困るのかよく分からない。が、想像するに愛知を支えているのは三河経済なので、尾張と一緒にしてくれるなというこったろう。さらには、「八丁味噌って名古屋名産だよね」などというと、「八丁味噌ってのは、岡崎で作られてる味噌だけが名乗れるんだからねっ!名古屋と一緒にしんといてーや!」と岡崎人。

また、奥三河と呼ばれる地域は、旧三河国北東部の加茂郡や設楽郡と呼ばれた地域で、長野県と隣接していることもあってスキー場もある。尾張と三河にはこういう地形の差もある。将棋界に瀬戸市からとんでもない天才が現れた。瀬戸市は尾張である。昨日はあの羽生三冠に完勝してしまった。完勝とは、「完璧な勝利」で、負ける要素がないという勝ち方である。

四段としてプロ棋士としてデビュー間もない14歳の中学生藤井聡太くんは、デビュー以後負けのない破竹の13連勝中で、それとは別の特別棋戦として組まれた、「炎の七番勝負」における最終局である羽生三冠を圧倒した。他の棋士がハブ睨みにあえば一たまりもないのに、昨日の感想を述べるなら、「藤井の前ではあの羽生さえも、これほど弱いのか!」である。

「これほど弱いのか!」と思わせるほどに藤井くんが強かった。深浦、佐藤康、羽生という強豪A級棋士を完膚無き勝利したのは本物の天才であろう。昨日はプロボクサー井岡一翔が、世界戦14連勝という具志堅に並ぶタイ記録を作ったが、61連勝中であった挑戦者ノクノイ・シットプラサートは、「井岡は一流だけど、超一流じゃない」負け惜しみをいう。

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「超一流でないというなら、勝ってみろよ!」と言いたくもなる。羽生三冠は藤井少年に対し、「非常に攻守バランスよく指されて、攻める時には攻めて、守る時には守ってと、非常にしっかりしている将棋」と振り返った。解説を受け持った佐藤天名人も、「しっかりした将棋」と称えていた。中学生棋士としてデビューした羽生だが、自身と比べてこのようにいう。

「今の時点でも非常に強いと思うが、ここからどのぐらい伸びていくか。すごい人が現れたなと思いました。今の藤井さんはかなり完成されているというか、しっかりしているので、私がプロに成り立ての時と全く違うところだと思います」。尾張の天才といえば、戦国時代の信長・秀吉は別にして、近現代にあっては木下恵介という映画監督がそうであろう。

「僕って天才だなぁ」とつぶやきながら、撮影したラッシュフィルムを見るような木下だが、そんな彼が大嫌いなのが漬物。理由は実家が、「尾張屋」という漬物屋であったからだが、漬物のあの臭いがダメだったらしい。尾張の天才木下恵介としたが、彼は浜松生まれで尾張の人間ではなく、「尾張屋」の出自という落ち。浜松ながらなぜに、「尾張屋」としたのかは謎。

想像するのは、先祖が尾張出身だからか、遠江の今川を破った尾張の信長に憧れたのか、詳細は不明だ。「三河屋」は全国にある商号名で、八百屋、酒屋などに多かった。商号の由来は、江戸時代の十組問屋に起因する。味噌、醤油等を江戸市中で扱っていた組合で、醸造業の盛んな三河出身者が多かった為、各々が三河の入った看板を掲げ、これが庶民の代名詞となった。

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呉服関係には、「越後屋」が多く、現三越の創業時の商号も、「越後屋」であった。広島には、「コメダ珈琲」ならぬ、「三河屋珈琲」という有名珈琲店がある。これは創業者三川賢一から取ったもののようだ。商号と屋号は区別されており、知りたい方は検索されたし。江戸時代の屋号には国名を元にした、加賀屋、越後屋、上州屋、紀伊国屋、伊勢屋、備前屋などがある。

創業者などの名をとった、鈴乃屋、西松屋、明屋、大森屋、岡田屋(現イオン) 、家紋・社章をシンボルにした、松屋、旭屋、井筒屋、鶴屋、地名からとった、松坂屋、高島屋、長崎屋、その他神仏などからとった大黒屋、朝日屋、白木屋、福砂屋福屋などもある。今でも残る天満屋、神戸屋、千疋屋など。名古屋の地名の由来は、かつては那古野荘という地名だった。

江戸時代には名古屋と名護屋が併用されたが、明治2年、尾張藩が正式に名古屋藩に改称した。「尾張名古屋は城で持つ」と歌われるように、名古屋城も金の鯱は有名だが、「日本一だよ名古屋のお城、城がなければただの町」などと揶揄されるところもある。名古屋の友人の口癖が、「とろいで~」。「そんなとこでとろい事やっとったらあかんがね~」などだった。

あまり使わない言葉だが、「どんくさい」、「動きがにぶい」、「のろい」などの意味らしい。関西弁の、「アホちゃうか」と同様に、相手卑下するとか、悪い意味で使うのではないらしい。方言というより一応は標準語になっている。子どもの頃に印象的な言葉としてよく真似ていたのが、「オリエンタルスナックカレー」の南利明のCMで、「ハヤシもあるでよ」。


昭和20年、名古屋市中村区において星野益一郎が、「オリエンタル即席カレー」を個人創業し、南利明のCMで初めて知ったが、「オリエンタルカレー」は今でもあるのだろうか?まるで見なくなったが、大塚の、「ボンカレー」におされてしまったようだ。後にこのCMをパロった赤城乳業の、「カレーアイス」のCNにも出演した。締めは、「ハヤシはありゃせんぞ」。

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