吉田秋生の、『海街diary』も映画化されたが、『櫻の園』も、『海街diary』も、映画を見終わった後で原作を読む。漫画好きは映画はダメといい、映画好きは、原作漫画をまともに読めないほど映画のインパクトが強い。『櫻の園』は今でも時々見たくなるほどに秀作で、色あせない作品だが、30年近くも経てば登場人物のおばちゃん化は仕方のないところ。
芝居を感じないドキュメント風セリフ回し、男にとって禁断の女子高の日常が興味深い。共学だった自分には、男子校さえどういう住み家で、いかなる実態か知る由もない。映画で印象的な場面のセリフをブログに抜き書きしたが、主人公の、「一生許さない」という毅然とした言葉と態度に惹かれた。それに対し、「許さなくってイイ。」と呼応する友人である。
主人公を理解したのか、共感なのか…、共感と理解はまるで違うもの。共感はすれど理解にまで至らない事例は多いが、共感を得ることは理解を得ることと勘違いする人も少なくない。こういう例があった。二人の菜食主義者(ベジタリアン)がいる。一人は外国人の有名指揮者で、来日の際に日本そば屋に案内された。指揮者は、「このつゆの中身は何か」と聴いた。
「それはカツオの出汁です」。それを聞いた指揮者は、大豆が原料の醤油でそばを食べたという。これを聞いた別のベジタリアンは、「共感はするが自分には理解できない」と言った。自分はそこまではないということだが、善悪の問題というより信念であろう。菜食主義者は、健康、道徳、宗教等の理由から、植物性食品による食生活を行うことだが、許容範囲は広い。
「共感すれど理解できない」は沢山ある。『櫻の園』の上記のシーンは、女子同士の共感と理解が怒りと言う形で再現された。「喜怒哀楽」の共感は、相手の体験への配慮という磨り替えでなく、無意識かつ自然にそうなることが素晴らしい。自分はこの場面でそれをつかみ取った。中島ひろ子とつみきみほの自然な演技とやり取りに惹き込まれたのを忘れない。
全編を観れば分かるが、映画の主人公で演劇部の部長役の志水由布子(中島ひろ子)の人間愛が美しく描かれている。学校と言うなかの演劇部という小さな集団の中で、一人の女子生徒の不祥事から、演劇部恒例卒業記念演目、『櫻の園』中止事件問題に絡む、部長志水の大らかな人間観と指導性、説得力があまりに他の生徒と比べて抜きんでているのだ。
こういう人を才媛と称するのだろう。あらすじの詳細はこうだ。女子高の何気ない日常のそんな中、ふとした事件が起こりそうになる。演劇部の女子生徒がタバコを吸って補導されたことで、毎年恒例の卒業記念演劇チエホフの、『櫻の園』が、女子生徒一人の不祥事で上演禁止の憂き目なら、部員にとって大事件である。それに対し部長の志水の行為が目を引いた。
部員の杉山紀子(つみきみほ)の補導を知った志水は、その日の夜に学校で禁止されているパーマ(ソバージュ)をかけ、何食わぬ顔で翌日学校に現れるが、部員たちは大騒ぎ。顧問の教師里見は、優等生で信頼の厚い志水の校則違反に、「その髪どういうこと?」と驚きを隠せなかった。志水は部員の杉山に非難が集中するのを交わすための行動である。
これまでまじめで良い子で通してきた志水にとって、不良と名指しを受けていた杉山を内心羨んでいたことを杉山に告白する。杉山の補導を契機に、良い子を止める一大決心をするそれがソバージュであった。校内でタバコを吸う杉山にも、「一本ちょうだい」などと変質を見せるが、優等生志水にとってかなりの冒険、勇気ある行動でも、芯のある志水ゆえにできる事か。
「わたしはもう偽善を止めたいのよ」という志水に、「志水さん、それはダメです。志水さんは志水さんでいて欲しい」よと庇うが、「もうそういうのが嫌なのよね。いい子の志水を卒業したいの」と。杉山は、「はぁ…」と言うしかない。志水は志水で沢山の傷を背負っていた。胸が大きい事を祖母がとがめ、「この子は注意しておいた方がいい」と母に告げられたり…
それでもいい子になろうとした志水だが、自らに正直に生きる杉山に憧れを抱いていた。杉山は優等生の志水に密かな想いを寄せていた。が、杉山は胸の内を隠していた。志水は志水で、長身で男勝りの倉田知世子に恋をしていた。杉山はそのことで志水に嫉妬を抱いていたが、志水はそれさえも隠そうとする。『櫻の園』は、思春期の少女の世界を彩る内容でもある。
男子不在の中で、このようなドラマがあること自体、男の目には新鮮である。女の子同士が手をつないで街を歩くなど、訳の分からぬ心理も理解に及ぶ。世は男と女の世界ばかりではない。同性に対して恋情経験もない自分だが、疑似体験からみる新たな世界である。己の不祥事を部員に謝罪する杉山に、「謝らなくていいのよ」と言った志水、彼女の人間の大きさに惹かれた。
人は文学から学べば、漫画から学ぶ人もいる。映画からも学び、人によっては道端の石ころからも学ぶ者もいる。して、「学ぶとは自分が変わる事」というのは、普遍的名言であろう。学ぶ人には学ぼうとする意欲と感受性がある。「あなたから学んでます」などと言われることもあるが、「何を偉そうに書いてるんだ、まったく!」などと、むしろ批判者の方が多かろう。
であるなら、学ぶ人は彼らの感受性である。そういう人は、それこそ道端の石ころから学ぶ人であり、彼らに学ぼうの力がある。時たま公園で遊ぶ幼児たちをぼんやり眺めていると、飽きないほどに惹き込まれたりする。中国人が公園の鳩を眺めながら、鳩の習性を把握するというように、どうして子どもはあんなに純粋に遊べるのだろう。どうしてあれほど素直なのだろう?
子どもは無垢であることが子どもであるが、子どもたちを朱に染めていく大人がいるのも事実である。確かに子どもは大人になろうとするが、大人になり切れない大人は非難されるべきである。大人になり切れない大人は問題であるけれど、子ども心を失わないことも大事である。例えば、いわさきちひろの描く子どもの姿は、彼女がその心を宿しているからに他ならない。
「どんな大人になろうが彼を許さない」といった志水に自分はエールを贈った。「可哀そう」と、同情から人を許す人がいるが、それは間違っている。セネカはこのように言う。「恩恵は相手を軽蔑して与えてはならぬ。心の仕組みとして、侮辱は親切よりも深く心の底に沈み、しかも後者は急速に消え失せるのに、前者は長いあいだしつこく記憶に残されるものである。」
相手を卑下のもとに与える恩恵に優しさはない。『愛を乞うひと』の母は、娘からの恩恵(許し)を受けなかったが、彼女にはもとに戻れない心の歪みがあった。相手に与えた苦痛の大きさを知れば知るほど、相手からの謝罪を受けられない場合があるが、安易な謝罪に身を委ね、精神的苦痛を解放するより、謝罪を拒否することでその罪の重さを全うする人間もいる。
自分は後者の性格ゆえに、安易な謝罪はしない。安易な許しを乞うことすら望まない。怒りに対する等量の謝罪が存在するのか?これらについてよく考えた。真剣に怒る相手に真剣に謝罪するのが等量である。喜怒哀楽と人は簡単に言うが、喜びや哀しみは自然に誘われるが、真剣に怒る相手に対する真剣な謝罪とは、「許してもらえない」と思い続けること。
人と人の関係は惰性で甘美でもいいが、被害者と加害者という図式は真剣そのもだ。ゆえに生半可な謝罪は許されない。喜怒哀楽の情動は理論でなく、自らが生の証として紡ぐもの。病や不慮の事故で子をなくした親の心情も憚るが、子の命を他人に奪われた親の心情は、想像に絶するものであろう。他人に子を奪われた親は、それでも生きなければならないのかと…。
賢者・思想家について思い出すことがある。不動産会社に勤務する将棋仲間のKは30歳そこそこで独身男。「賢者テラを知ってます?」と彼が問うてきた。「知ってるよ。名前くらい…」、「どう思います?」、「どう思うって?スピに興味はないからよくは知らん」と返す。「自分のことを賢者といいます?普通…」、「ああ、そういうことね」。彼の言わんとする意味が分かった。
「肩書詐称はダメだが、賢者は肩書じゃない。いいんじゃないか?」、「そうですか?」、「それが許せないなら愚者テラは?」、「その方が謙虚だと思いません?」、「なるほどね~。それより、なぜ『賢者』に腹が立つかを考えた方が君自身のためになるな」。彼がそのことをどう考え、どういう答えをだすかは分からないが、彼にとってそれを考えるべきと感じた。
結局これも、「妬み」の類である。気に障るという原因は相手にはなく、自分の中にある。そこを考えるべきで、相手の問題ではないのよ。男の妬みは情けない。男はあまり周囲を気にしないが、気にする男もいる。昔、あるピアノ教師がこんな風にいった。「男のと女の子の生徒はまるで違うんです。女の子は人の進み具合を気にするけど、男の子は気にしません。
マイペースなんです」。その違いを自分は分かるから聞かなかった。女と一緒に外出すれば、誰がどんなバッグを持っているか、ヘアスタイルはどうか、流行りの靴や洋服がどの程度支持されているかなどをチェックすると聞いた。男は、女のケツを見ているだけだ。女から言われて気づいたことがある。「すれ違う女性を絶対見るでしょ?必ず見てるよね、何で?」。
正直な女である。いわれるまで気づかなかったこともあってか驚いた。確かにそうかもしれない。無意識だから分からないが、女は目ざとく自分の視線を監視していた。そういうものか、女は…。咄嗟に、「見なきゃ、損した気になるしな~」と返した。が、「なに~それ、もう一緒に外にでたくない」とは、可愛いすぎる。以後は気をつけ、すれ違う女を意識して見ないようにした。