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親の事は親に習え、子の事は子に習え ④

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ある日の母と娘の喧嘩である。喧嘩というより言い合いが正しい。どこの家庭にもある日常だ。長女が5年か6年生くらいだった。「お母さん、また机の引き出しをアサッたでしょう。勝手に人の机の中を見ないでくれる?」、「あら、どうして分かったの?分からないように見たのに…」、「ちゃんと目印をつけてるし、すぐに分かるんだから…」、「いいじゃない、別に見たって!」

この後も言い合いは続いたが、二人のやり取りは自分にとっては奇異に映った。妻が長女の引き出しをアサるのも理解できないし、それを知った長女の苦情は当然にしても、「いいじゃない、見たって」と返せる親子関係は理解を超えていた。人は人を理解できないものと、この時はつくづく感じたのだが、理解できない理由は、自分の経験にないからであろう。

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それよりなにより、母親が自分宛ての女性の封書をすべて開封し、挙句捨ててしまうような家庭であり、それを父親が、「今日、〇〇という女から手紙が来ていた」と教えてくれるのである。父の行為は有難い気もするが、ならばどうして母に、「そんなことはするな!」と言わなかったのかは不満だった。なぜかは分からない事で、分からない事は想像するしかない。

母が手紙を受け取り、開封して読みごみ箱に捨てた状況をいつ知ったか?その過程をつぶさに見たわけでもないかもだし、ではゴミ箱に捨ててある封書の差出人を記憶して教えてくれたのか?開封する場面に居合わせたら、「そんなことするもんじゃない」と父は母に言うだろうか?残念ながら答えは「No!」である。理由は、言っても聞かない事を知る父だから。

傲慢な母の性格は、自身の言動を制止されて止めるような人ではない。言うだけ野暮であるのを知る父は、無駄な労力を使わないのだろうか。後年、自分も同じようになった。裸の王様に意見をいうなど無意味と分かる。しかし、こういう悔しさを友人など、誰にいっても所詮は「他人事」で、どれだけ腹が立つかまでは理解できず、「ヒドイおかんだな」だけで終わる。

結局、そういうものかもしれない。人の痛みなどは言葉だけでしか分からない。妻と長女の掛け合いは切羽詰まったものではなく、慣れ合い漫才のようでもあった。長女の怒りもそんな感じであったが、自分は妻に、「机の引き出しを荒らすのは良くないんじゃないか?」と言ったが、「別にいいのよ」と、サラリと返されて驚いた。自分はとてもそんなことはできない。

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引き出しの中にあるものといえば、女の子同士の手紙の類の山で、そんなものに興味はないが、母親は興味があるということなのか?でなければそんなもの見ないだろう。見ることで何を把握したいのかも分からない。仮に自分がそのことに興味を持ったとしても、他人の引き出しをコッソリ開けるという行為自体が興味を打ち消す。これが自己の体験からのものだろう。

特別隠し立てするほどのものでもないのは、食事中に、「〇〇さんが、こんな風とか、こういうことを書いている」とか言ってることから明らかだが、長女は引き出しを開けたかどうかだけを監視し、妻もそれが分かって面白がっているようだった。母と娘の礼の無さや慣れ合いは、父と娘には到底理解できないものがある。分かりやすく言えば母は娘に遠慮がない。

父はどことなく遠慮がある。確かに長男には遠慮はないが、妻は遠慮があるというのと同じことか。異性の子どもに対する不思議な親の感覚である。息子を持った母親というのは、例えば息子が嫁をもらって、尻に敷かれるのを良しとすべきなのか?それとも、それは困ると、息子には亭主関白を望むのか?謎だが、息子の性格から判断するではなく、理想を聞いてみたい。

我が息子は結構威張って亭主関白をやっているようだが、娘は一様に夫より強い。これは自分にとっては不満。今の男はなぜか女に言葉でやり込められる感がある。数十年前にある社会学者が、偏差値世代の男の特質として、勉強重視のコミュニケーション不足が、彼らのボキャブラリーを奪ったといい、同じ偏差値世代であっても女性はコミュニケーション不足にならないとした。

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女性は種々の教室やカルチャーセンターなどに行くが、主たる目的はコミュニケーションで、交流の中でボキャブラ能力を磨くという。引き換え男は、一人何かにこもることが多いと分析する。自分に当て嵌めると同意は出来兼ねるが、男のボキャの貧弱さが女性を一目置く時代になったのは否めない。とにかく女は良くしゃべる。「お前は口から先に生まれてきた」と三女にいってる。

世間や周囲が自分に興味や関心を持ってくれないとつまらないという女に比べ、「和して同ぜず」と自分の意思を重視する男の違いはあろう。これからの、「ひとり社会」を生き抜くために必要なのは主体性である。例えば、「あなたはどうしたい?」と問われ、「みんなと一緒でいい」と答えるような時代もあったが、これからの時代はそういう態度の男はダメとしたもの。

「セルフ・エンプロイド」なる言葉がある。直訳すると、「自己雇用」、「自分で自分を雇用している人」との意味で、一般には個人で働く自営業者や 起業家を指す。つまり、いちいち誰かの指示を仰がずとも、自身で考え、決断できる人間が貴重という時代であり、いわゆる、「指示待ち人間」の反対の人間をいう。いちいちベンチのサインを見なくとも自ら考えられる選手。

といえば分かりやすい。安易に同調することなく、互いが主体性をもって考え、行動する。これが、「和して同ぜず」であるが、自己責任が免れられないゆえに、心の強さが求められる。勉強ばかりではなく、親はこうした現状を見越して、心を強くする教育を考えねばならない。妻に尻に敷かれ、その方が楽でいいなどの男は、自分から見れば組織の上には立てないだろう。

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他人に迎合せず、自分の意志で物事を決める人間が望まれる。姑息に辺りの様子をうかがって、多数派に同調しようとする人間の評価は低いということを肝に銘じることだ。「ダモクレスの剣」という逸話がある。シラクサの王ディオニシオスの廷臣のダモクレスが、王を誉めそやし、王の身分を羨ましがるばかりなので、ある日、王がダモクレスを玉座に座らせた。

玉座の上には髪の毛一本で吊るされた刀剣がぶら下がっていたという。王者の身辺には常に危険があることを悟らせたという故事となっている。他人と比較して、羨ましがったところで、果たしてその人間には覚悟と勇気があるのか?それもないままに、人を妬む人間は有能の証とならぬ者が多い。不満ばかり言う人間にも批判的で、そんな暇があれば身になる行動を起こす。

「背かれる親」には、「背く子」がいる。「背かれるべき親」にあっても、「背かなぬ子」がいる。「背かれるべき親」には、背くことがむしろ大事で、心身の健全が保てる。上の例でいえば、子どもの親書を勝手に開封して読む親に抗わず、仕方ないなと諦める子が危険であろう。なぜなら、そこに怒りを持たないなら、その子が親になって、それをすることになる。

自分が子ども時代にされたことの怒りが大きいほど、自分が親になったときに、それをしないでいれる。つまり、親は子どもの怒りの大きさを自身の過去に照らして知るから、そうした非道な行為をしないでいれる。そんなことをしない親に育てられた子は、自分が親になってそれをしないとは言い切れない。が、反逆し、怒りの大きい子は、そんなことは抑止となる。

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まさに自分がそうである。子どもは逐一親に気にされ、親の好奇の対象になりがちだが、あまりにそれをされた子は、その煩わしさを知るだけに、子どもに無視と言う愛情を決め込む。そのためには、嫌な体験を風化させず、覚えておく必要がある。嫌なことは忘れた方がいいというが、それを生かし、連鎖を止めるためには憎悪心を永らえておくのは大事である。

人間の不自由さを社会通念で抑え込んだ時代もあった。「からゆきさん」や、「女工哀史」の不幸な女性は時代の悲劇である。そうした中で声を上げる女性もいた。それで抹殺された女性もいた。男社会にあって、出しゃばり女と罵倒された女性もいた。社会通念は目には見えない。が、親に反抗する気力のある子は、親だけでなく社会通念にも抗ったことになる。

なぜなら周囲の大人の誰もが大人(親)の味方である。身勝手な規則を強制する親に誰もが共感し、反抗する子どもにレッテルを貼った。男社会の男どもが女を排除するのも同じこと。そうした社会通念上、弱きもの代表が、「女・子ども」であった。強者に向かうものはいつの時代とて少なからずいる。反抗の代弁者たちは孤立し、孤独の戦いを挑んで行った。

一人で戦うものには強さが宿るが、弱きものは徒党を組むなどし、数の力を寄せ集めたりで戦いに挑む。数の論理も強さではあるが、一人身を強くしようと頑張る行為に比べて安易である。「安易に群れを成すなかれ、孤立に耐え得る精神力を身につけよ」という言葉を座右にした。「自らを強くする」ための始め一歩は、「依存を断つ!」。やってみられるか?

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