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親の事は親に習え、子の事は子に習え ③

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女のズルさは普通は隠すものが、「女(自分)はズルい」と平気でいう女は新鮮だった。この女の数々の言葉が頭に残っている。普通は口にしない言葉ゆえに残っている。「印象深い」とはそういうことをいう。女の情緒不安定は、生理に支配されたもので、男はそれを許すべしと渡辺の言葉は理解に及ぶ。彼のいうヒステリー女についての考察も、大いに参考になった。

情緒障害としてのヒステリーとは、その刺戟によって自分がいかにショックを受けたを誇示し、それによって人から注視を浴びたい。注視を浴びた上で相手を困らせたいとなり、それで自分の存在価値を高める。そのために自分が傷つくなど御免被るとなる。つまりヒステリー性格は、強度の自己中心的、偽装的性格がもたらすもので、男にこういう性悪さはない。

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男は自分がショックを受けたかなどは、自制心で隠そうとする。露わにすること自体がみっともなく、それで相手と闘えといえど負けたも同然である。勝負師が感情を表に出さないのは、形勢の悪さを相手に感じ取られないようにする訓練ができているからで、盤上の形勢とは、それくらいに掴みにくいということ。だから、表情やしぐさで判断しようとする。

女のあからさまな自己表現はナルシズムであろう。アノ時の大げさな声しかり…。『解剖学的女性論』は女性考察に薦めたい。医学部受験を塾に薦められたが、解剖実習について行けず医師を諦めた女性。成績だけでは医師にはなれない。人体内部に嫌悪するのも情緒であるが、「臓器が汚いものなら、人間とは何だ?」。解剖学の養老猛司氏の言葉である。

千円札の肖像にまでなっている野口英世だが、彼もごく普通の人間である。普通というより性格破綻者である。毎月の給料のほとんどを高級料亭での飲食や、遊里での豪遊に費消し、アメリカに自費留学するにあたり、あちこちへ懇願してかき集めた渡米のための資金を、出発前にすべて使い果たしてしまうという冗談みたいなエピソードからも理解できるだろう。

彼はまた恐ろしく短気で躁鬱症の嫌いがあり、調子が良いと有頂天になる半面、研究に失敗したり他人に批判されたりすると、極度に落胆したり激昂したりする一面もあったようだ。それらを差し置いても偉大な人物であるのは間違いない。『遠き落日』は、これまで偶像化され、美化されてきた野口英世という人物の一部を破壊する事になったかも知れない。

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「坊主憎けりゃ袈裟まで憎し」という日本人のキャパシティからしてもショックは拭えないかも知れぬが、何にしても人の批判はすればキリがないから、批判好きな人にはこの上なかろう。そもそも人が見知らぬ人の批判を書物や伝聞だけで正しくできようなどはあり得ない。そういう意味で自分は他人の批判はしないが、伝聞や書物ではない親の批判は遠慮しない。

いいところも書きたいが、記憶にあるのはボーリング場で靴を盗まれ、裸足で家に帰ってきたとき、「男がそんなことではダメだろが!人の靴でも履いて帰るくらいの塩の効いた人間でなくてどうするんか!」と怒る母に驚いた。善悪はともかくとして、彼女の気丈な性格が現れている。この言葉は自分の中で数日間めぐっていたが、この部分において母を称賛した。

決して泥棒を推奨する言葉には思えず、男としての精神的気概という点で、母の理想が読み取れた。教育とは何か?なかなか難しく、あるいはいくらでも答えを出せる命題であるが、率直に素朴にいうなら、「教育とは自分が覚えているものであろう。頭の隅にもない、忘れてしまったものは教育と言わない」。母の言葉に唯一感動したものゆえに頭に残っている。

さらに教育とは、「人間が生きているその時々の感動であったり、思い出だったりで、それらが人間を育てて行くのであろう。教育者が能書きを垂れるような理論なんてもんじゃない。理論の一切を否定するわけではないが、所詮理論などは誰でもすぐに忘れてしまいがちだ。その点、経験とは身につきやすい。「習うより慣れろ」という慣用句がふと浮かんでくる。

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「親の事は親に習え」は説明したが、「子の事は子に習え」とは、自分が子どもだった時の事を、子を持った親になった自分が今、我が子から習うということ。子ども時代にされたこと、言われたことの嫌は、我が子も同じように嫌であろう。子ども時代の自分を客観的に見れなかったが、今、こうして我が子の言動から、親は子どもに客観的であるを習うべし。

どんな親にどんな風に教育されようと、その子が親になれば新たな価値観を持った親になる。「勉強しなさい」と一度も言われないで育った子が、「勉強!勉強!」の親になる。ヒドイ親に育った子がいい親に、慈悲深い親に育った子が鬼親になる。親自慢や親批判がどうというより、自分がどういう子の親であるか、どういう子育てをしたか、ではないだろうか。

常々思うことだが、善い人間の善いところを見習い、身につけるのは難しい。聖書の善い言葉も偉人の名言も、字が読めれば理解は可能である。ならば、それらをたくさん知る人間が善い人間になれるのか?そうは思わない。善い人の善いところに感心すれど真似は難しい。「あんな善い人になりたい」より、「あんな風な人には絶対になりたくない」は、信念となる。

良い手本もあるが、悪しき手本を意味する言葉を、「反面教師」という。この言葉はかつて日本になく、1960年代になって中国から日本に入った。語源は毛沢東とされている。自分は宗教的偽善や美辞麗句に与しない。名言や慣用句は沢山知るが、それで善き人間になれるならとっくになっている。が、「批判が自分を作った」ことだけは自信をもっていえる。

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「いかなる親とて反抗するのは間違い」の気持ちを持って生きるのは結構なことで、親に反抗する人間を友達にしないというのも自由であるが、根拠は示されていない。友達にしたくない理由は様々ある。灘高三兄弟の母親にように、他人の人生選択への批判はないが、「生活習慣はいつでも身につく」という無知蒙昧発言は、間違いを信じる公益性の点から批判をする。

同様に、「いかなる親とて反抗するのは間違い」も無知である。なぜなら、自由を供与されない親に反抗して自由を勝ち取る。それをしなければ傲慢な親の奴隷になるではないか。自由と解放を求め、暴君と命懸けで戦った種々の歴史をみても、供与されない自由は、戦って勝ち取る以外に方法はない。そこを考えれば、「反抗するな」は、親の奴隷になれとの発想だ。

自由も供与された反抗の必要ない親というなら、わざに自慢することではない。他にも自由を制限させられた厳格な親に反抗する勇気がない場合もある。これらから推察すれば、「親に反抗するな」などという人間は、①反抗する必要がなかった。②抑えつけられて反抗する意思も勇気がなかった。③いい子でいたいからと、親から受けるいかなることも我慢した。

なそのどれかではないか?でなければ、そんな言葉は出ないだろう。よき親を持ったことを自慢するのはいいが、そういう自慢が反抗者を軽蔑することになる。人より優れたもの、優れた環境を持つのはいいが、人を侮蔑するものにならないようすべきかと。そうした他人の批判を気にする人は、その批判が独尊的であるか否かも含めて思考し、無意味な批判は無視をすべし。

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自分の「生」は他人に関係ないのは道理であり、キッパリ思うのがいい。「他人に惑わされない」を頻繁に奨励するが、そのためには強さがいる。強さはどう養えるかにまで言及するなら出来るだけ、「依存」を排除することかと。水や空気や食料は生命の依存だが、親への依存を含めて、なるたけ人への依存を断ち切ることで、知らず知らずに強くなれる。

そうすることで心を強く持って生きていけるなら、煩わしさの解消から、自ずとストレスの軽減にもなる。万病の要因であるストレスを軽減することを間接的に奨励する。人に、「ああしろ」、「こうしろ」と言うのを好まないが、心の病を防止するのは遠慮なく発言する。しかるに、「孤独」を実践するには、他人から離れるではなく、無理をしないでいれる人間を選ぶこと。

人に無理をいう人間は間違いなく依存体質である。自分に無理をしない人間は、相手にも無理を言わない相乗効果がある。さらに自分が実践するのは、上下関係を意識せず、作らない。習俗習慣に縛られない。面白い話だが、50歳であれ、60歳になってもバースデーや父の日(母の日)やクリスマスなどを気にする人がいるが、これすら習俗習慣であり依存である。

付和雷同の日本人…、どうしてもしたいなら、自分で自分にプレゼントを買うことだってできる。人に貰うから嬉しいというのは自分には分からない。欲しいものは自分の金で、気に入るものを買う自由さが満足度を大きくする。また、世俗的な自己欺瞞とはおさらばすること。クラス会だろうが、飲み会だろうが、行きたくないところに無理して行かない。行かない非難も恐れない。

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どこにでも顔を出したい人はいる。人に、「いい顔」する生き方を好む人だ。そのためにする無理は、無理でなくなるというなら、それは素晴らしい。自分が無理と感じない人は、「無理」と上手く付き合える人で、これも人間の能力である。「孤独」の奨励の前に、孤独を楽しいと感じるのは、「書く」ことにある。最近刊行書籍が増えた中島義道も、「書くこと=孤独を楽しむこと」と述べている。

書く楽しさの源泉はおそらく自己対話にある。自己問答しかりである。あるいは自己啓発である。自己回想の時間すら楽しい。ただし、老人の書き物ゆえ、未来について書くことはない。未来について書けといわれるなら、「死の幻想」となる。命が湯水のようにあった若き日に、死は現実なものではなかった。しかし、芸能人や著名人がどんどん消えていく昨今だ。

同年代諸氏は一様に、「我々はもはや棺桶に片足突っ込んでいる年齢」などというが、同調する反面、「若い、若い」などと油断もある自分である。必然的に死を身近に感じるようになるのは仕方がない。「5年後には〇〇したい」、「あと10年間は〇〇するぞ!」も悪くはないが、期待をすることより、日々を凝縮に生きるのも選択だ。だから未来については書かない。


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