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親の事は親に習え、子の事は子に習え ①

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「竹の事は竹に習へ、松の事は松に習へ」と言うが、これは松尾芭蕉の言葉である。彼の研ぎ澄まされた感性は、実践主義からもたらされている。松のことを知りたいなら、松に触れること。竹も同じ。それをしないで知ることは出来ない。と、戒めている。「机上の空論」という言葉も同様で、実践と思考は違うということ。これが同じなら、実践などいらない。行う必要もない。

「親の事は親に習え」の意味を理解できる人は、一を聞いて十を理解する人かも知れないが、竹とか松と違い、抽象的で分かりにくい言葉で述べているゆえ、説明が必要だ。似た言葉でいえば、「夫婦喧嘩は犬も食わない」かと。つまり、夫婦にしか分からない事を誰が分かろうか?何にでも興味を持ち、何でもパクつく犬でさえ食わないとユーモアを交えている。

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誰も自分の親以外を親にすることはできない。自分の子以外を子にできない。と言えば少し分かりかけたかも知れない。ところが、「自分の親以外を親にできない」というのは、正確ではない。結婚すれば新しい親ができよう。「女三界に家無し」といったものだが、「三界」とは仏教用語で、言葉のいわれは以下のように記されている。昔、蘇陀夷(そだい)という子がいた。

蘇陀夷七才のとき、「おまえの家はどこにあるのか」と、仏陀が尋ねたところ、蘇陀夷は即座に、「三界に家無し」と答えた。利発な蘇陀夷に感心した仏陀は、年端もいかない蘇陀夷を弟子に加えたという。三界とは、欲界・色界・無色界の三つをいう。嚙み砕いていえば、欲界とは淫欲・食欲、色界とは物欲、無色界とは色・物を除いた精神世界空間をいう。

「三界に家なし」とは、この世に安住の地などないことを意味し、後には女性の不安定な地位を表すようになった。これとは別の、「女三従」の言葉は、中国での婦人の生涯に対する箴言で、女性は、「幼にしては父兄に従い、嫁しては夫に従い、夫死して(老いて)は子に従う」とする家庭における女の従属性を示す言葉で、『礼記』や『儀礼』などにもみえる。

夫にとって妻の両親は親族というより姻族でしかないが、妻にとって夫の親はどの程度のしかかるのかも、同居・非同居によっても違うだろう。「三従」の中に、「姑」という文言はない。もし、自分が今のままの性格で嫁いだとして、姑に何やかんや言われたら、「お母さん、『女三従』と言いますが、その中に姑はありませんよ」と言いたくなる。おそらくいうだろう。

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姑に苦労した女性がコメント欄に、「あなたは相当打たれ強い人間に育ったのでは?」とあるが、これは間違い。打たれて耐え忍ぶ、我慢をするような、「打たれ強い」性格というより、打たれて黙っちゃいない、「打ち返す」性格であろう。結婚前に妻の父から、「君は一人っ子だから我が侭に育ったんだろう」と言われ、それは、「木を見て森を見ず」と言い返した。

自分のその毅然とした物言いに、母親が、「ビクン!」とこちらの顔を伺ったのを覚えている。「一人っ子」は我が侭というのはありがちだが、自分にとっては真逆であった。昔は、「一人っ子」と言うだけでかたわ者みたいに言われた。どっぷり甘えた家庭ならまだしも、「冗談じゃない」の反発が沸く。妻の親ならまだしも、姑への上の言葉はただでは済まない?

妻はおっとりの大人しい性格で、「右を向いてろといえば、死ぬまで向いてる」という自分の理想に合致していた。これまで一度の口答えもなく、反抗もなかった。そういう女であるにも関わらず、姑(母)はあれこれ不満を言う。気が利かない、鈍い、おっとりしすぎなどと。自分は速攻で母にいった。「この女で気に入らないというなら、あんたに合う嫁などこの世にいない。

自分がいいと思ってる女を気に要らないと、家庭を壊す魂胆か?そうでないなら、人の選んだ女にケチをつけないでくれるか」。この時点で、息子の親だということで、なぜに嫁に偉そうにするのかを、自分は理解していない。嫁と姑云々…、という世間の風潮や種々の問題は耳にするが、物事の本質を根本から思考する自分には、嫁に偉そうにする親が問題であった。

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実際に母には、「なぜに息子の親が嫁より偉いのか?答えられるなら説明してくれるか?それによっては考えもするといった」が、あまりの根本的な問題に答えは出なかった。すべては情緒の問題であるのは分かっている。分かって聞いているから、答えられないのだ。もし、答えがあるなら、「姑が嫁より偉いのは当たり前」くらいしか、自分には思いつかない。

感情(情緒)の問題を、理性的に、根本から考えことで物事は解決を見る。いつまでも感情で「ああだこうだ」で答えはでないのよ。少しして母は、「理屈言うな!」といつもに怒り口調でヒステリーが芽生えてきた。この女は、自分がパニックになると徐々にヒステリーを起こす。「どちらにしても、夫婦仲に亀裂を起こすようなことはしないで欲しい」という。

姑が嫁憎しとなるのは、息子可愛さである。ならば、息子が憎ければ姑は嫁を味方に引き入れようとする。「自分の前で嫁の愚痴をいうな」と言い渡せば、溜まったストレスのはけ口は嫁しかいない。女は溜まったものを吐き出さなければ病気になる。姑が息子と敵対し、嫁と同盟を結ぶのが最善である。それで上手く行った部分もあったが、それでも不満はでる。

母は嫁の悪口を孫に言うようになる。孫には、「お母さんの悪口をいうのは止めて」と言わせるようにしたが、四人もいればなびくバカも出る。早速、長男が金で買収されるようになった。汚い手だが、これは手名づける常套手段で、これに機敏に反応したのが妻だった。妻は、姑から個別にもらった金銭を、すべて報告させて、4人で均等に分ける案を用いた。

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長男はばあちゃんに贔屓にされているという不満が出始めたからだという。露骨な差別態度で兄弟を分断させる姑は、どこまで家族に悪害であろう。そんなことなどどこ吹く風の人間は困ったものだが、兄弟の不満を解消すべく妻のアイデアは感心した。誰もが自分の「利」とせず、正直に報告することで兄弟関係は歪にならずに済んだのは、悪害に防止策を講じたからだ。

妻は兄と妹の三人兄妹である。ある時、自分は驚くべき光景を見た。妻の妹が遊びに来た時だった。どういう経緯か覚えていないが、妹には余人には理解の及ばないとてつもない不満があったようだ。姉を責めて泣き出し、収拾がつけられない。その光景を姉が黙って見るしかなかったが、兄弟のいない自分は恐ろしいものを見た思いだった。

優秀な兄は現在有名一部上場企業の常務であり、出来が良かったのだろう。妻は無難だが、妹だけは私立高校というだけで、ただのそれだけで劣等感を持って生きていたのが、あの時の号泣でよくわかった。兄弟は比較される運命にあるが、それは親の問題である。良くない事だが、凡人の愚行は人間の常であろう。妻はそのことを我が子に生かしたように思う。

誰にも分け隔てなく留意していた。自分は長女にかかりっきりだったが、その埋め合わせを他の子に弄していた功労者である。親子も夫婦も難しいが、それは当人同士の問題だ。兄弟を仲たがいさせるのは、親に問題があるのを妻は分かっているが、兄弟のいない自分には、兄弟のことは未知である。非常に卒なく上手く対処し、まとめていると感じる。

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自分は結婚する前もした当初も、母についての体験談を妻に語ったが、これだけ身近な人間でも、経験にないことは信じられないのか、額面通り伝わらなかった。自分が母の事を人に話すのは、悪口でも、愚痴でも、被害意識でもなく、あった事実を思い浮かべながら話すのだが、人はいろいろに受け取るもので、親の悪口を言ってるとしか思わぬ者が多かった。

親の悪口をいうだけでまともな人間とみられないこの国では、「親に感謝」というのは、まるで命令や決まりのように蔓延っている。子ども(人間)がそう思えることが幸せなんだという意味であるが、「どんな親でも親である」という定言命法的道徳観が物を言っている。「どんな親でも親」で、yahoo検索してみるといい、しょっぱなにはこういう記述がある。

「どんな親でも文句はいわないこと」と題し、「親の文句を言う人とは付き合わない方が良い」と提言している。さらには、「親の文句を言う人はやはりどこかおかしい人が多い。10代のころはまだ反抗期や思春期なので仕方がない部分はありますが(本来ここでもダメですが…)。20歳を過ぎて親の文句を言う人はやっぱりダメな人が多い、多すぎる…(略)

こういうしたり顔の人間もいるが、所詮は人の生き方であり、異論はない。それより表題の、「親の事は親に習え」を掘り下げよう。妻は初めて耳にする姑の行状を理解できなかったようだ。最初は自分と母の敵対で上手く行った部分もあった。が、20年、30年も経てば自分と同じような思い(体験)をすることになる。涙に明け暮れた日々を孫たちが憐れんでいた。

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「ないことをある」といい、「あることをない」といい、「自分が絶対に正しい」から、「他人を許せない」。こういったことを嫌ほど体験済の自分は、一切が想定内だった。あえて言おうとしないが、目新しいことは何もない。嘘をつかない妻は、ゆえに自身にも正直である。人に嘘をつく人間は、自分を偽ることもできるが、彼女はそういう器用さがまるでない。

母に、「下の世話はできませんので」は、彼女らしい正直な心情である。もし、嫁を尊重し、可愛がる姑であったら、下の世話くらい率先してやれるハズだが、出来ない自分を彼女は責める。「嘘がつけない自分を責めることはない。状況がそうさせたということだ」。姑にいびられながらも嫁の務めを果たした女性は多いが、それが美徳でなくなった時代である。

醜いことを醜いと認めるのは勇気がいる。嫌なことを嫌というのも他人の目が気になる。が、醜いことを美しい、嫌なことを楽しいと思い込もうとするのは欺瞞であろう。ただし、工夫や思い方によって、辛さや苦痛感情の軽減は可能である。それが人間の知恵なら、そうした知恵者は評価すべきであろうが、一切は自己啓発なら、他人には勧めないことだ。

情緒や習俗を重視し、臭いものに蓋をするなど、精神論で片づけていたこの国もやっと先進国並みの福祉国家になっている。親の下の世話をしないことが当たり前になってきた。他者を犠牲にすることで得る美徳など、まるで戦時中の特攻兵士である。こういう事を奨励したがゆえに美談とする国家的策略に虫唾が走る。若者の将来を奪っておいて何が英霊だ。

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