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背き背かれ、振り振られ

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「歩くだけで病気の7割は予防できる」と医師がいうように、ウォーキングの効果は大きい。それ以前に、人間が歩かなくなったことが問題だということに多くの人は気づいていない。当たり前のようにクルマに乗り、当たり前のように、自転車やバイクを使う。バスや電車などの交通機関も、当たり前のように存在するし、遠方には当たり前のように新幹線だ。

新幹線を使わなければいけない距離なのに新幹線を使って批判されることはないが、歩いて行ける距離なのに、自転車やクルマを使おうとする自分を批判するところから、新たな思考は生まれてくる。「新たな」と書くからして、「新しい」の意ではなく、「気を取り直して」、「心機一転」と解したらいい。これまで当たり前にクルマ、当たり前に自転車であった。

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「当たり前」の理由は、「便利」であるに他ならない。「便利」というのは確かに合理性の追求であって、物事を合理化することで人間はだんだん、「横着化」していく。一切の「利便」は、「横着」と考えてみると、新たな考えが生まれてこよう。東京から大阪に行くのに新幹線を使って横着呼ばわりはされないが、身近な横着に気づかず、「当たり前」とする事は多い。

科学者のさまざまな発見は、「当たり前」を、「当たり前」と考えないことで成されるが、当たり前に疑問を抱けば、それだけで哲学することになる。自分は昔から、「当たり前」という言葉が好きでなかった。疑問を持つ要素が多かったが、疑問を持たないことが、「当たり前」と言われていた。それくらいに、「当たり前」という言葉は、人間を汚染していると思っていた。

「あたり前田のクラッカー」というほどに、当たり前に食べるものだと洗脳されていた。「当たり前」や、「常識」という言葉に批判を抱くことになったのは、母親の常套句であったからだ。チェックのシャツをズボンから外に出すことさえ許さなかった。「シャツはズボンの中に入れるのが当たり前」とうるさかったが、今は外に出すのが当たり前になっている。

シャツを外に出すだけで、「自堕落」だの、「近所の笑いもの」などと言われなければならないのか?そういうことにも強い疑問を抱く。ジーンズを軽石でこすりまくってほつれさせたりの洗いざらし感。労力を継いで一生懸命に作り上げたダメージパンツにしつこく、「近所の笑いもの」と言い続けた母は、ついぞキレたのか、ある日そのジーンズは消えてなくなった。


何より頭に来たのは、「どこにやった!」と聞いたときに、「知るか、そんなもん」という母親の言い方である。これには殺意さえ抱いたほどにムカついた。ジーンズが勝手に地べたを這うわけではなかろう、勝手に処分したのは明白だが、「知るか、そんなもん」ととぼけられ、一体どうすればいい?今でもその言葉にどう対処すべきかの答えは分からない。

人間の怒りは、「正しい対処」の発見が成されないから起こるのではなく、それは暴力も含めて、「正当化」されることもある。「いかなる場合においても暴力は正当化されない」とバカはいうが、だったら正当化などされなくても、行為すべく暴力はあろう。「言葉の暴力」なる語句はあるが、あの時の母親の言葉、態度に対する怒り感情は今でも忘れることはない。

自分は親に手をあげたこと、拳を振るったことはなかった。「親に手を挙げるのは絶対許されない」という厳然たる教育が染みついていたからだ。上官、師、親を、「長幼の序」として崇める、そんな時代の申し子である。友達はボコボコにしたことがある。石で大けがをさせ、謝罪に行った父が相手宅で罵倒され、土下座して詫びる姿が何とも辛かった。

母に手を挙げる代わりに、一生この人に背くことを誓った。こんな人間に従ういわれはないと正気であった。「親に手を挙げてはならない」という社会通念が、どれほど自分に不自由であったことか。その代わりに、親の、「馬鹿」さを認めるためには反抗することである。子どもが親に従わない最大の理由は、自分の場合は親を馬鹿だと認識することだった。

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親と言うのは子どもを全面的に信頼させたいと思うものだろうが、「思い」だけでそれは叶わない。人を、「信頼させる」ためには、愛情がいる。徳もいる。さらには相手を信頼するということが何よりである。これなくして、「親だから」信頼すべきだのと、バカも休み休み言えである。「親を敬い、孝行すべし」という儒家思想は、すべての親に当てはまらない。

背く子どもには背かれる親がいる。背かれる親の代表は、子どもを馬鹿だと思っている親である。「親」という権威は、親子の年齢差が縮まらない以上、子が50歳であれ、70歳であれ、生きてる親がいる以上行使できるが、そういう親は死ぬまで直らぬバカであろう。親が子を尊敬できず、信頼もできず、バカだと思っている限り、子どもに背かれる親になり下がる。

ましてそういう親は、子どもに信頼も、尊敬もされていると思う親に違いない。子どもが反抗しても自分の権威や威力は消えるものでもないと思っているのだろう。物事の道理や人間関係の本質が分からないで、親のいうことを何でもかんでも盲信するする子どもこそバカの遺伝であろう。親の馬鹿を認めるなら、反抗すべきである。さらに、親の恩一切は義務である。

そのように思うことが、自分が親になった時、子どもに無用な依存をせず、自由にできる。「自分が親を敬い、尽くしたのだから、子どもも自分にそうするべき」は、結局のところ交換条件のようなものでしかない。「自分は親に尽くしたが、子どもはそんなことをしなくていい」なら、真っ当だ。人間は物事を踏襲するが、それは動物と違って本能の踏襲ではない。

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文化や教育などば社会通念として備わり、人為としての踏襲であろう。人間の潜在意識感覚と人間関係は影響し合うが、一例をあげれば、一度騙された人間は何度も騙される。ドジな人間は永遠にドジである。なぜなら、そういう素質であるからで、これらは余程の啓発をし、直さない限り直らない。親孝行に縛られる人は、自分の子どもを同じように縛る。

自分が親に背きながら、我が子には背いて欲しくないという親もいる。別にいてもいいが、「背かないで欲しい」という思いだけではなく、自分が背いたことで背く原因を知り、それら学習で得た子育てに生かす親でなければならない。親に背かないで育った子の学習より、背いた子どもの学習量は断然多い。したがって、親に背いた子の方が、我が子に背かれない。

「背かれる」最大の理由は、子どもに信頼を抱こうとするからだろう。「背く」が信頼から派生するなら、信頼をしなければ「背かれ感」はない。大体、我が子を信頼するというのは、どういうことであろう?子どもに身勝手な信頼を抱くことが理解できない。「教育者は児童買春をしない」。「警官は盗みをしない」。「賢者は悪事をしない」。「清楚な女は淫乱でない」。

こうした勝手な思い込みは、人間関係において腐るほどある。「人を信じる人ほど騙されやすい」ように、我が子を信じる親ほど背かれる。成人した我が子は無視する愛情が大事、いつまでも依存は子の負担になる。どうしても、「信頼」をしたいのなら、放っておいても大丈夫という、"ポジティブな信頼"を持てばいい。多くの場合、信頼とは一方的なものでしかない。

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「人に裏切られた」などとこぼす奴は、自分が勝手に信頼していたことにやっと気づいたということ。相手にはそれほどのものはなく、気楽にやっていたに過ぎない。なのに、「裏切られた」と大騒ぎする。子どもに関していうなら、「昨日の我が子は今日の我が子でない」と、流動的に考える。3歳児頃の固定的な考えを抱く親ほど、反抗期に失望する。

人を信頼するとはどういうことであろう。「信頼」で引き合いに出されるのが、『走れメロス』のセリヌンティウスとメロスの関係だ。物語である以上、うまい筋書きが用意され、であるからこそ普遍性がある。できた話を批判しても意味はないが、それでも是々非々な見方をすれば、自分はこれを、「信頼」の物語とは思わない。彼らは真の友人関係とは言えない。

この話を現代に置き換えた場合、自分がいかに困っているとはいえ、大切な友人を、「連帯保証人」を頼むであろうか?あり得ない。頼んだ時点で友人を利用することになる。信頼する友はいかなる状況であれ、自分が私的に利用などすべきではない。人は切羽詰まった頼み事をするとき、「こんなこと君以外の誰にも頼めない」などと、これが殺し文句らしい。

「こんなこと君にしか頼めない」と言われて、ほとほといい気分になる人間がいるから、常套句に利用される。が、「勝手に友人面をされても迷惑だけど」と言って何の問題もない。自分はそういう頼み事を自ら拒否する以上、頼まれても同等に拒否する。「友人面」をして寄ってくる人間はいる。例えばこんな風な…。「今から話すことは誰にも言わないで欲しい」。

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「お前を見込んで…」と言いたげであり、そういういやらしさがある。「それは困る。そういう約束はできないし、誰かに何かのはずみでポロっということもあるかもしれない。そういう制約をいうなら聞きたくない」と断ったりした。「誰にもいうな、お前だけにいう」なんて、迷惑である。ようするに前置きの時点で、相手は自分を信頼していない。信頼するなら前置きするなでは?

秘密を共有することで関係が深まるような、「ごっこ」的女同士の人間関係ならともかく、こういう女々しい言い方は、男らしくもないし好きではない。余談になるが、『走れメロス』を検索して、「『走れメロス』の陰に将棋あり-太宰治の苦悩-」という書き込みを見た。太宰と井伏は、"クサイ"師弟関係であるのは知るが、将棋にまつわる話は、読んでもしっくりこなかった。



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