広島「セビロ屋」での一件は、言い分けして、客を罪に陥れて逃れようとするから、商品卸し先の本部から謝罪を言われても、詫びる理由がないではなく、ウソがばれたから示しがつかないのだろう。「過ちては改むるに憚ること勿れ」と故事にある。自分が誤りと悟ったなら、躊躇なく、すぐ改めるべき。体面や思惑から改めるのを恐れてはいけない」の意。
あくまで自分の、「誤り」に気づいた場合の処置だが、悪だくみを意図した確信犯であれ、社長・重役連中揃い踏みでのお決まりの謝罪光景もしらじらしい。それでもあのようにすべきなのだろうが、こちらの方が真の悪人かも知れぬ。意図や思惑がバレたなら、「喧嘩するしかないか」のスタンスが、見方によっては正直かもしれない。物の見方は視点を変えれば面白い。
人は、「悪人」を憎むというが、「善人」を妬む場合も広義の、「憎む」であろう。何も悪いことをしていない、むしろ世のため人のためを思う、「善人」が憎まれたりする。そういう、「善人」と凡人たる自分を比べると、「善人」に歯がゆさを感じる人もいたりする。むしろ、自分より劣る人間の方が、見下したりバカにすることができるゆえに貴重で、彼らは善人より必要な人間だ。
ドストエフスキーの『白痴』は、「善」について語られた本だが、上記の論理でいうなら、人より優れる、「善人」は、周囲にとっていいことにはならず、人より劣ることこそ、「善」であろう。だから白痴にならざるを得ないのだが、「善」の道徳が社会を覆うなら、人はたえず人より劣ること、貶められていることこそ素晴らしい社会となってしまわないだろうか。
優秀さや卓越さが、「善」であるがゆえに抹殺される社会にあっては、進歩や向上をやめてしまうのではないか。これがニーチェの道徳批判となっている。善人ばかりをひとまとめに集団を作ると、善人同士がいがみ合い、妬み合って、憎しみあうことにならないか?善人ばかりの社会は、必然的に悪人を生み出していかないか?高偏差値優秀校にも同じことがある。
雑多な世界(社会)には、人さまざまな価値観が混在するが、全員が東大を目指すというような、つまるところ、全員が同じ目的を持った集団の中では、他人への優しさは芽生えないだろう。他人と凌ぎ合うことで、人の成績の下降を喜ぶことは当然となるし、人を蹴落としてでも這い上りたいという切羽詰まった心理は、人間的に異常と感じるが、どうなのだろう?
そういう気持ちを内在し、本質的に憎しみ合いながらも誰もがそれを隠す。モー娘やAKBなどの集団に必然的な妬み、いがみ合いと同じものとみる。「クラス会に出席する人、しない人」の違いには、ある種の傾向があるというが、すべてとは言わないまでも一理あろうか。また、高偏差値校に妬みはあれどいじめはないというが、青白インテリにいじめのエネルギーはない。
いじめはバカの暇つぶしという側面がある。そんなことより、高偏差値校の基本は、「勉強が一番大切なことで他の事はどうでもいい」という価値観が生徒の中で育つだろう。そのため、イジメなんかしている場合ではなく、勉強に時間を割いた方がいいという発想になる。また、私立の高偏差値校は男子校、女子高が多く、間接的に恋愛を排除している。
「低レベル高校はいじめが多いから避けたい」という保護者の心情は理解できるが、いじめというものを全く目にせず、傍観経験もなしに育つのはどうだろうか?純粋培養の温室で無菌状態で育つ植物の耐性はない。雑多な人間の中で、雑多な価値観が存在することを知る子と、全員が同じ目的でひたすら学業オンリーで明け暮れる子と、親はどちらを望むのか?
「三浦問題」に名を馳せた将棋連盟の一件は、棋士の社会的無知を晒したことで、棋士を天才集団と崇めたファンをガッカリさせてしまった。「奴らはこれほどバカだったのか?」と自分も偽らざる感想を持った。バカというのは、偏りが激しく大きく、物事の全体が見えないこと。棋士は、「大局観」という言葉を使うし、我々も身につまされることが多い。
が、それはあくまでも81マスの盤面の中でのことであって、棋士がどれほど社会人音痴であったことに驚かされた。将棋の強さは尊敬に値すれども…と正直な気持ちである。チェスのボビー・フィッシャー、ピアニストのグレン・グールドの奇行は、彼らが奇人であることを示しているが、一つ事に没頭し、精根尽き果たす人間こそが、天才と言われる資質にいる。
世俗社会から隔たりのある天才の話はひとまず置いておき、実社会のどこにでも起こりそうな問題は種々あるけれども、「セビロ屋」での一件は、自分としても店と客の間で絶対に起こり得ないほどに不思議な事件であった。ネット通販では、「商品を見れない」、「手に取れない不安」が顧客にある。顧客に限らず、販売側にも見えない客という不安もあろう。
商品の瑕疵や不具合を公示せず、見えないのを逆手にとった悪辣な販売はかつてほどなくなったものの、解消できない見えない不安は、メールや通話なりで双方が解消する。先日通販で卓上盤を買った。高齢者ともなると足腰に問題を抱えた人も多く、椅子に腰かけてが好まれる。そこのホームページに以下のクレームがあり、いろいろな客もいるものだと実感する。
「肝心の碁盤の商品説明に偽りがあり、我慢して使ってきましたが、大変不満です。見るたびに気分が悪くなるので、もったいないのですが、貴店の商品は廃棄し、改めて他店から購入します。通販は外れがあることを分かってはいても、貴店の誠実そうなホームページに騙されて残念です。購入した商品のホームページ画像を拡大してみると、「下辺左隅の第1線」が若干太くなっています。
天面は無キズとなっていますが、本漆による、「太刀盛り」に問題があります。指摘した箇所(気になり箇所はあるが、他は概ね良)は、職人が一度目にうまく引けなかったため、「二度引き」したのでしょうね。その部分だけ「線がずれて、太く」なっています。目障りで、気になって仕方がありません。(実物大に拡大して見て下さい)天面は無キズですが…と記載されています。
その通りです。確かに無傷です。しかし、肝心の本漆による、「太刀盛り」の技に難あり。それなら、もう一度鉋をかけて、線を引き直せば良いのではありませんか?たかが5万円の商品に、そこまで批判するかと思われるかもしれませんが、信用し、期待していただけに、日に日に悔しい思いが強くなりました。次の商品を購入してから、うっぷん晴らしに叩き割って捨てるつもりです。
榧一筋40年、もとい、榧「二筋」40年。大変、感情的なコメントで大人げないことは分かっていますが、二度引きはご法度でしょう。被害者を増やさないよう、職人の腕を磨きをかけ(失敗したら、もう一度鉋をかけ)、誠実な商売を心がけて下さい。加えて、ホームページの商品紹介欄に、「一部、二度引き箇所あり、気になる方は他の商品をお勧めします」との表記をしていただきたかったです。
碁盤には申し訳ないが、叩き割って、店主と職人に対するうっ憤をはらさない限り、気持ちが収まりません。最後に、〇〇様、私こと〇〇の会員登録を抹消して下さい。抹消の報告を待っています。詫びは要りません・通販で買った私が馬鹿でした。勉強させて下さり、ありがとうございました。」
感想を言えば、この顧客はクレーマーではなく、真面目でガチガチの人のようだ。客の苦情は、自身が少し無理と解釈に思える。苦情はいいたくないし、自己責任として自らを断罪しているようだ。が、それでも無念さからか、「うっぷん晴らしに叩き割って捨てるつもり」という言葉がそれを示す。些細なクレームか否かはともかく、言ってみるべきだった?
店は以下の返答をしている。「せっかくご購入いただきましたのに、当店の商品確認不足、ご説明不足でご不快な思いをさせてしまい誠に申し訳ございません。心よりお詫び申し上げます別途メールを送らせていただきましたが、当店では不良品等に対し、返品・返金を承っておりますので、ご遠慮なくお申し出ください。また、ご依頼通り会員情報も取り消しいたします。
お店の対応は(事後であるが)誠実そのもので、このような感情露わの大人げない書き込み、「うっ憤晴らし」と自身で書いている下種なクレームの類を、あえて掲載することで今後の些細なクレームにも対応する用意が感じられる。それにしても、こうまで書き込まなければ気持ちが収まらないのなら、一言いえばよかったのでは?あまりに顧客の陰湿さを感じられる。
これは、「自己責任」というより、「自己責任」に名を借りた意趣返しであり、まともなクレームというより、お店の信用を落としてやろうとの魂胆、底意地の悪さが読み手に伝わり、嫌悪感を抱く。こういう人も、「人」であり、こういう客も、「客」である。感情丸出しのブログに醜態コメントを置く人も同様、消えてなくなる言葉と違って、残る文字は恥を晒し続ける。