女子教育の難しさは、森内俊之九段も経験した。彼の唯一の弟子が竹俣紅である。彼女が記録係を避けたり、テレビのバラエティー番組にレギュラー出演するなど芸能人化を森内は注意した。そこに竹俣の母親も絡み、彼女はワタナベプロと芸能契約をし、連盟に一年間の休場届を出す。「道」を究めるなら当たり前のことが女には通じないのを米長も森内も痛感する。
森内の成績不調は弟子の問題かと取りざたされたが、その件について森内は一切口を塞ぐ。将棋で有名になった竹俣が、そのことで芸能人が如くちやほやされては弟子にとった意味すらない。師匠には弟子に対する指導・教育などを行う責任もあろう。結果的に森内は将棋ファンから、「つまらん弟子を取ったものだ」と笑いものになったが、受け止めるしかない。
「怒りゃすねるし、叩けば泣くし、殺してしまえば化けて出る」などの故事にいう女子教育の難しさだが、遠慮も容赦もなかった自分は、難儀と思ったことはなかった。男が女子に甘い(弱い)のが難しさの要因だろう。「こんなではプロ棋士としての自覚がない」などと竹俣を愚痴ったところで意味はない。意識を植えつけられなかった師匠が責任を負うべきことだ。
下ネタエッセイで人気のあった田辺聖子は、1971年から16年間にわたり、「週刊文春」に『女の長風呂』を連載したが、彼女は、「女は決して男が教育するとか、仕込むとか、できるものではない」と言った。「女は」とくくっているが、田辺はそうであったのだろう。自己愛と自己顕示欲のかたまり女を教育できるハズがないということだが、女もいろいろである。
女に教育された男が目立つ時代を見て感じるのは、教育という社会的価値より、女の意のままに操られた男の情けなさは母親に支配される子どものようである。教育は理性的になされるもので、感情支配とは別のものだが、女の教育とは理性を欠いた感情支配そのものである。「教育」は愛情でなされるもの、「支配」はエゴでなされるもの、と区別されている。
価値観の伝授はいいが、強引な押し付けはエゴでしかない。価値観とは、「与えられるだけのもの」ではなく、日常の環境や本人の経験や実体験の中から浮かび上がるその人の個性そのものである。勉強ばかり強いる親なら、上手くいけばそういう子になるが、失敗すれば勉強嫌いになろう。押し付けられた価値観に反抗し、親と疎遠になった子どもが悪いのではない。
親の夢を壊して育つのも子どもである。「人が人に価値観を伝達することはそもそもできない。人は単に環境から学習するだけ」と社会学は規定するが、自分の理想や希望を子どもに押し付ける親は、教育者というより支配者と思っていたが、「自分の子を支配してなにが悪い!」という親には閉口した。常々思い、感じるのは、何が正しいではなく、子の数ほど親がいる。
目先のことに左右されるのを近視眼という。主観も大事だが、事物を遠くから見ることの方が全体像がみえる。いかに綺麗な印刷物であれ、虫眼鏡で見ればただの点の集まりに過ぎない。ネットにこういう告白があった。「おれは小中学校時代は教師や親に褒められる、「いい子」だった。授業は真面目に受け、宿題はきちんとやり、掃除もサボらず、決まりを守った。
PTAで問題視されるテレビも「ダメ」といわれれば観なかった。漫画は親が毎月定期購読をしてくれるの小学館の学年誌。人気の少年漫画やアニメはまともに観ていない。友人とは話があわなかったが、近所の人や親や先生から、「いい子」と言われた。 親が遊ぶなという友達を避けた。思春期なのに話題もなく女子と縁もなく、遊んでる連中を蔑み自己満に浸った。
何の疑問も抱かず、それで幸せになれると信じていた。高校は地元の有名校に行き、クラブ活動もやらず友達も少ない自分は内向性が強まり、苦手な友人を避けることで殻に閉じこもる。自然、「オタク」などと揶揄され、必然的に優等生という地位を失う。二流大学に進学、無為な学生生活を過ごした事で、コミュニケーション能力も行動力もないまま就職に失敗する。
地元に帰って職を転々したが、とどのつまりはフリーター生活。地元では小中時代の同級生に出くわす。当時は不良のレッテルを貼られていた奴らが、妻や子供と幸せそうに歩いている。 立派な家庭人、社会人として暮らしている。 それに比べて自分何だ?定職ももたず、結婚もない恋愛経験もない。今は、かつて禁止されていたゲームやアニメが生きる支えである。
かつて読んではダメと言われていた劣悪図書が部屋に溢れている。幸せになれるはずの優等生ではなかったのか?親や教師は自分がそうなると褒めてくれていたのでは?誰が悪い?親か?学校か?社会か?それとも自分…? 分かるハズもないし、分かったところで何も変わらない。そんな自分に親は何も言わない。言えないのか、言わないのか、自分も親に何も言わない。
自分のことだからわかるが、「言えない」のは分かっている。何を言えばというものもない。そうした閉塞感と、いつしか身についた劣等感と、真面目に生きた後悔だけが自分を支配している」。この青年は、当時は親に最良の教育をされていた。教師にとっても、問題のない優秀な生徒だった。それが、なぜこうなる?一言口を挟むなら、こういう風だからこうなった。
親は良い教育をしていると感じる時点で疑問を持つべきである。「良い」は本当に、「良い」のか?ならば、何に対し、どのように、「良い」のか?「良い」ものに欠けるものはないのか?そうした様々な疑問を持ち、「良い」を別の角度から眺めると、「良い」を疑う部分は沢山見えてくる。感情は主観であるが、客観的視点が理性である。「自分を疑う」そのことを客観という。
世の中にはいい親と悪い親がいる。その時にいい親が、後年にダメだったと気づく場合もある。子どもにとっては単に、「都合のいい親」だったからだ。また、その時点においても、後年においても、「いい親」は存在するが、恵まれた子どもであろう。その時点において悪い親だったが、後年になって実はいい親だと知ることもある。それらは子どもの情緒の成長に伴うものだ。
「子ども時代にうるさく躾られたこと」、「本気で叱られたこと」も、未熟な子どもにとっては、それらが愛情の発露であったかどうかは、経年になって分かること。それが分かった暁に、「自分を思ってくれた親がいたと感じる」ことになる。親の行為が真の愛情であったか、支配であったか、子どもは理解するものだ。「いい親」と、「悪い親」の中間に、「理解のある親」も存在する。
理解のある親とは、「是々非々」な親である。子どもにとっての、「ダメ」は、「ダメ」とすべきだが、「ダメ」がどうして、「ダメ」かを考えた上での、「ダメ」でなければならない。親の都合による、「ダメ」か、子どもの愛情を優先した上での、「ダメ」なのか、教育はそういうもの、そうあるべきものだが、これらも親と言う人格のバランスの問題だから、偏った親では難しい。
バランスとは、「主観」と、「客観」を交えた度合いをいう。人間は例えば嗜好にしろ、食生活にしろ、何にしろ、どうしても偏りがちになる。簡単に、「バランス」というが世の中で、「バランス」ほど難しいものはない。自分の事でも難しいことを、子どもに供与できるだろうか?教育は苦悩であり、苦闘である。親が良くないと思うことも、「良し」とせねばならない。
親や教師は、「性行為」をしないものという前提で、尊敬があった時代に比べ、昨今はそうもいかない。子どもは性体験をした時、かつて親も同じようなことをしたのだ。今だってしていると思うだろう。「親がしているのになぜいけない」と短絡的になるのが、今時の子どもである。我々の時代は、大人と子どもには厳然たる境界線があった。時代時代の道徳的価値であろう。
大人になったらアレもしたい、これもできる、だから大人はいいな、早く大人になりたい。お酒も飲める。成人映画(18禁)も堂々観に行ける。女の子なら、お化粧して綺麗になりたい。自分の好きな下着や洋服を自分の収入で買える大人に早くなりたい。今の子どもは小中学生でもお化粧をする。「18禁映画?」そんな言葉はとっくの昔に死語である。これが良いのか悪いのか?
良くても悪くてもそういう時代の最中である。いつの時代にあっても、親は子どもにさまざまな、「ダメ」を持つ。「ダメ」には、親として許せない、「ダメ」と、社会的、生活的、普遍的な、「ダメ」がある。親の都合の、「ダメ」を子どもは問う。「なんでダメなわけ?」。親が勝手に決めた、「ダメ」と腹で思うから問う。これにキチンと答える親が、「良い親」と、自分の定義である。
子どもをみくびらないで、誠実に対応する親が理想だった。「ダメなものはダメ」は、傲慢でしかない。そんな言葉に納得する子、そんな言葉で抑えられる子どもは、親にとって楽かも知れぬが、自己主張できない子どもになろう。自己を主張できない人間は、自分の価値を持たず、持っても淡く、大部分は他人の価値を生きる人間である。果たしてそれを、「生きた」といえるのか?