刺激的なタイトルかも知れない。現代においては…。「女を仕込む!」は、50年前、男ならだれでも言っていた。昨今は女が、「男を教育する」時代なのかも知れない。付き合い途中から女に媚びた男は多く、それ自体がもはや教育されている。「飼い慣らされている」という言い方もできる。妻に飼い慣らされたうだつのあがらぬ夫は、同性からみて冴えない男にしか見えない。
人に「媚びる」、「媚びを売る」のがなぜいけないのか?子どもは誰でも親の反響を求めるが、子どもの場合、「媚びを売る」などと言わないのは、親に愛されたいという自然欲求だからかと。子どもはまた、自分の望むような反響を親から得られないとぐずる。これは、「甘えの心理」であり、子どもが媚びを売るのは、親に甘えられるためのテクニックである。
「親の言うとおりにしておけばいい事ある」と、これくらいのズルさは誰でも持つが、ズル賢さも知恵である。「甘え」は依存心の発露だから、相手に対して依存心があるということは、相手からの反響なしには心の満足が得られないことになる。子どもは生命維持のために親に依存するから、媚びるのは当然であるをいいことに、それに拍車をかける親もいる。
「媚びる」の正確な意味は、 気に入られるように振る舞う。相手の機嫌をとる。 とあるが、元来「媚びる」は下が上に行う行為で、その裏には意図が隠されている。「女に媚びる男」という言い方をするが、これは男が女より下であることを表す。男女は対等というが、それはあくまで法の上であって、実社会にあって人と人はさまざまな力関係で成り立っている。
人に媚びることはしない自分は、「媚びを売る」人間には批判意識を抱く。また、相手が自分に媚びを売るなまめかしい態度も好きではない。自分の子どもにも人に媚びないような人間になって欲しくて重点的に躾けたが、その方法は親に媚びさせないことである。「依存」と「媚びる」は似ているようで非也。動機においては全く別で、その辺を注意深くみていた。
媚びを売る人間の深層心理はさまざまある。なにより自分に自信が持てないことが大きく、だから自分が自由になるのが不安。相手が自分を縛っているわけではないのに、自分が自分を勝手に縛る。「依存」はしても自身を縛らなければ、「媚び」たことにならない。子どもを媚びさせる親は、子どもが自身を縛るように持っていく。子どもは、「縛る」ことが当然と考えるようになる。
相手に縛られる以前に自らを縛ることが問題だ。そういう人間は相手に媚び、おべっかを使う方が心理的に楽になる。人に媚びない最大の利点は、自己(の生き方)に責任を持つことだろう。一人は個人だが、二人になると社会である。恋人にしろ、配偶者にしろ、目的をもって共に生きる者同士のどちらかが力を発揮し、主導するなら、すべてに責任を持たねばならない。
対等という言葉が、「躍る」ご時世であれ、人の種類はいろいろだ。種類とは出来上がった性格をいう。金魚の頭のような人間もいれば、金魚のうんちのような人間もいる。「鶏口となるも牛後となるなかれ」という中国の故事は高校の漢文で教わるが、誰もが鶏口を望まず、牛後を好む人間もいる。己の信ずるままに、おもねらず、なびかず、そういう人間もいる。
己の信念などもなく、人におもね、なびくのが生きやすい人間もいる。集団にあってはそうした個々の性格が反映する。亭主関白が理想といっても、資質もない男が、ただ威張ってみたところで続かない。自分は、「何事も思考し、行為し、責任もとるので任されたい人間」であるから、そういう配偶者を選んだ。教育した部分より、見越して選んだ部分が大きい。
最初からそういう意図であればいいが、女を選ぶ基準が美人であるとか、巨乳であるとか、人選びは多彩で面白い。自分を生かせる相手かどうかなど考えもせずに妻選びをする。夫選びの動向について、自分は男であるからそこはスルーするが、経済力とか、誠実さとか、長男はダメとか、いろいろあるだろう。「イケメンonly!」、それしかないという女の声はよく聴いた。
相手に媚びないことが、強さ、責任感から派生するなら、子どもに媚びる親はどういう親だ?子育てに対する責任感がないということになる。「相手に媚びよ」という躾はないが、一家の長たる男(夫)が家庭に責任を持つのは当然と、これは所帯をもつ動機の一つであった。食わせていく責任をしっかりと男が持っていた時代であったが、40年も経てば時代は変わったのだろう。
「共稼ぎ」が当たり前になり、専業主婦がなぜか死語になっている。パートやバイトという形で、女性の片手間労働を求める社会構造へと時代は変化をした。かつて、「髪結いの亭主」という言葉があった。「髪結い」とは今でいう美容師のこと。少ない女性の職業にあって、収入が確保された女性の代表的な仕事である。そんな、「髪結いの亭主」になることは男の本望とされた。
妻より早く起き、家事の一切やってくれるそんな夫を妻が望むように、一つの願望であろう。「髪結いの亭主」は、それだけ甲斐性のある男だろうが、これを男のロマンとするのは男の甘えである。家事一切を夫に望む妻が甘えてると同じように、願望は願望、現実は現実だ。男という類は、うまく持ち上げて責任を持たせれば、俄然と力を発揮する単細胞な生き物だ。
だから、賢い女はダメ男を才覚によって、立派な(使い物になる)男に作り替える。これを古い言葉で、「あげまん」という。あげまん女は、天性もどき女の才覚である。女はどうか?おだてれば、「デブ女も木に登る」くらいの芸は見せるが、男ほどに単純とはいえず、一筋縄でいかないのが女である。体力・体型的に弱き類は、知恵やズルさが備わるようになっている。
男を手の平であやし、おだて上げると国を転覆させるくらいの力を出す。だからか、歴史上に名を残すような人物の裏には利発な女がいた。北条政子、巴御前、日野富子など、数多の女性が名を残している。歴史における女性の存在は、陰の巧者として表にでないが、それでも名を残した女性は少なくない。歴史に名を刻んだ女性はさまざまに分類されるが、以下に示す。
「愛と憎しみに悩んだ女」、「自由奔放の生を貫いた女」、「男も及ばぬ意志と非情さで野望に賭けた女」、「時代の波に翻弄された悲運の女」などと大別するのも一興である。小野小町や額田王、和泉式部ら万葉歌人、清少納言、紫式部らが彩る華麗なる宮廷才女、推古、持統、斉明、光明、称徳といった栄光の女帝ならびに后らも、日本史に燦然と輝く女である。
大河ドラマに名を馳せる常連といえば、お市、北政所、淀殿、ガラシャ、芳春院らは戦国乱世に生きた女たち。また、政権を動かした女として、丹後局、卿局、春日局に、大奥出身の桂昌院や、絵島の名が浮かんでくる。近現代になると、福田英子、矢島楫子、津田梅子、樋口一葉、広岡浅子、与謝野晶子、下田歌子、吉岡弥生らは先駆的役割を果たした女性である。
津田(津田塾)、下田(実践女子大)、広岡(日本女子大)、吉岡(東京女子医大)らは、女子教育の必要性を唱え、立ち上がった人たちだ。教育は洗脳であってはならず、宗教が洗脳と言えば異論もあろうが、こんにち、日本国内における教育の荒廃の現状において、宗教を持たない道徳教育の限界を指摘する声もある。いずれにせよ、学校や家庭は教育の場から衰退した。
話を拡大すればキリもない、現実問題として普通の人間が普通の人間を教育するところの問題を掘り下げてみる。確かに、教育をされていない目にあまる人間がいる。男にも女にも同等にいるが、近年は、「JK産業」と言われる高校生女子の風俗問題に政治が動き始めた。「JK産業」を貧困問題と絡めるなら政治問題であり、現に沖縄では中学生売春が横行する。
もはや普通の女子大生売春など珍しくもなんでもない時代である。これが本当に貧困であっても、時給800円のバイトより手っ取り早いという考えは、女子の堕落そのものだと思うが、それでも背に腹は代えられないのか?正直いって男は金で体を売る女のメリットは、収入以外にもあるだろうと考える。性が快感行為でもあることから、売春が精神の苦痛とは思えない。
ましてや、「からゆきさん」の悲哀を文献等で知るものにとって、貧困即風俗を同列に考えるなど到底できない。男も女も12~13才になると奉公に出た。産業のない時代に少女の働き口は子守りか女中だった。当時の子守りや女中は、家の者より早く起き、遅く寝た。言い換えるなら、起きて寝るまで働いたということ。休日は盆と正月、僅かな給金は親への仕送りである。
これと女子大生売春を一緒に考えるなと言われてもだ…。貧困で実入りが少ないという現状を経済原則で考えるなら、支出を少なくすればいい。1万円のバッグや洋服はしまむらやユニクロに行けば安く手に入るが、それでは女子大生をやれないという。勉強よりおしゃれが重要な女子大生が、時給2万円のバイトをする。男である自分にはそうとしか考えられない。
いかに彼女らが勉強以外の目的で大学に通っているかと批判すれば、「女の子はそうもいかないのよ」と反論する。「だから売春するしかない」という論理は、男の自分にも分からない。将棋の米長が初めて女性の弟子を取ったことで世間は沸いた。林葉直子である。彼女は九州から東京に出てきたが、都会への憧れと話題の渦の中で将棋に身が入らなくなる。
同郷の松田聖子に憧れ、同じ髪型、洋服も派手になった。当時米長家には、先崎と林葉の二人が内弟子として住み込んでいたが、将棋の研鑽に男女の差別はない。米長は林葉に、芸能人と付き合わない、洋服は地味で清潔なものを、などの要求を出した。「女は、自分が(人から)見られるを意識しだすとダメになる」。言葉どおり、林葉は将棋の世界から転がり落ちた。