子どもに躾をしてこなかった親はいない。「躾をしなかった」えお口にする親はいるにはいるが、全くしなかったのではなく、きかせられなかった。躾が成されていない子どもは、実際に見ればわかるが、「躾をしなかった」という親の中には、躾の目標水準を高くしていた場合もある。が、結果的に生活習慣を身につけさせられなかったなら、「躾をしなかった」事になる。
「可愛い子には旅をさせ」という。どの親も我が子は自慢の種であろう。「うちの子は世界一」が、多くの親の共通に思い。本当にそうなのかどうかを他人の目でみてもらう必要がある。これが上記の慣用句の真の意味だ。他人の飯を食えとはいっても、とてもじゃないが人前に出せない子どももいる。それでも我が子は世界一という親に、他人はこのように言う。
「親の顔がみてみたい」。躾はその時代時代の文化や、価値観によって変わるものだ。例えば食事の際に何を重んじるかは、昔と今とでは随分違う。昔は食事の時間は礼儀作法が重視されたが、昨今は作法などより、楽しくおしゃべりしながらの食事が求められる。これは外国文化がテレビドラマなどで輸入された影響もあろう。確かに楽しく食べる方が消化もよい。
作法よりも団らんが正解というのではなく、何をどう躾るかは、時代の価値観の変化である。確かに内容は時代によって変わるが、そうはいっても、基本的なものは変わらない。食器に顔を近づける犬食いや、音を立てる食べ方。口の中をいっぱいに頬張った食べ方。箸のマナーなど。身内なら許せても他人は認めない。だから、他人の飯を食べる必要がある。
これらを親が注意し、教えないで誰が教える?幼児期に善悪など分かるはずもない。だから、親が繰り返し繰り返し、口酸っぱく言って分からせるしかない。初期段階の教育とは反復練習である。何度も何度も言い続けて意識化される。これこそが子を思う親の愛情である。躾は言われる側も言う側も面倒臭い。子どもを、「可愛い」と眺めているだけではない。
あるレストランでランチを食べていたときのこと。同じテーブルのオヤジが先に食べ終わり、爪楊枝でシーハ、シーハやりだした。別に爪楊枝で歯間の挟まったものを取るのはいいし、そのための爪楊枝である。が、シーハ、シーハ、くちゅくちゅと音を立てるのはどうか?目の前には自分は食事中の人がいる。あまりの嫌悪感に自分はオヤジに向けて言った。
「楊枝は使っていいが、音を立てないでくれるか!」。不意を突かれたオヤジは意味不明の言葉を返し、すぐに出て行った。よく聞き取れなかったが、「もう食べ終わったろ」のような言葉だったようだが、反論は関係ない。相手に嫌悪感を与えていることが問題だ。こういう場合、自分は遠慮がちに言わないから、少し声が大きく店の人も他の客もこちらを見た。
店の人には、「目の前で楊枝の音は食欲も失せるので、注意させてもらいました」と謝罪した。店の人は、「いえ…」とだけ言ったが、店内のトラブルは避けたいだろうが、こういう場合に注意はしない。「申し訳ないが楊枝の音は止めてもらえませんか?」などというハズがない。子どもが走り回るといった目に余る行為でさえ注意しない。店は客に遠慮ガチである。
ファミレスやスーパーの店内で、そうした光景をキチンと注意できる社員教育もなされておらず、かといって注意する客もいない。外国人なら良くないものには躊躇わず注意をするが、陰で文句を言う日本人は多い。勇気がないというのか、当たらず触らずを「良い」とする。外国では、隣の庭の芝が伸びていても苦情をいう。なぜなら住宅地全体の品位を落とすからだ。
少しの時間の我慢が言葉になったのだろう。相手次第では、「うるせーな、表へ出ろ!」となったかもしれない。こういう人は誰にも注意されたことがないのだろうか?それとも、都度受けた注意を無視してきたのだろうか?その辺は分からぬが、「食事中の他人の前でちゅーちゅーはよくない」程度のことくらいの節度、常識がないから行為にでるのだろう。
子どもは家庭教育・学校教育のほかに、社会の教育力によって培われるが、昨今は地域社会の教育力が死語になってしまっている。原因は種々あるが、近隣の人と人が、豊かに繋がっていくという発想が消えゆくからであろう。嫌われ役のおっさんや、おばちゃんがいなくなったといえば、それでいい尽くせる。「親の悪口」ばかり言って事を収めようとするのが情けない。
「悪口」という言葉はあっていい。「悪い」ことは悪い。「悪い」者は悪いという識別は必要である。が、「陰口」はどうか?そういう言葉もあるし、利用するひともいるが、自分には基本的に、「陰口」というのはない。対象がいない時にいうのが陰口とされるが、いてもいなくても同等なら自分は、「陰口」としないからだ。たまたまいないことはあるけれども。
良くないことは良くないといえばいい。口に出さずも出すもいいが、良くないこと(悪口)を堂々といえず、陰でいうのは疚しくないか?自分は日本人だが、こういうところの日本人的なところが好きになれない。半年の海外体験で得た、「是々非々」という行為は清々しいものだった。日本人はなぜ、罪だけを問題にしないのか?「坊主憎けりゃ袈裟まで」となる。
自分は目の前の人を批判する。それで嫌っているなと感じることもあるが、そういうときにはこのようにいう。「〇〇さんは、自分を嫌っているかもしれないけど、自分は嫌う理由がないからね~」。相手のどぎまぎする顔と、対処の言葉が面白い。「人を正したい」と言えば聞こえはいいが、相手が気づかないで、こちらがうんざりなどの場合は相手のためと親切心を出す。
将棋をしにある公民館に行き始めたころ。そこに通うMさんは、自分より少し年下だが、この人は、「ひとがいい」と評判である。が、実際は将棋を指せば分かるが、「ひとの良さ」を振りまいている人である。謙虚・謙遜を売りにしているが、真の性格は自尊心が強く傲慢で、それらは対局中に現れる。Mさんは、「自分はここで一番弱い」と口癖のようにいう。
会えば必ずいう。負けても常套句のようにその言葉をいう。それで自尊心を保っている。ある日の対局後、その言葉が出たので言った。「〇〇さんのその言葉はもう100回くらい聞いたよ。みんなはもう耳にタコができてるから、言わない方がいいんじゃないか?」。彼はこれにどう答えるかを待った。「言わないではいられんよ、負けてばかりだから…」と彼はいった。
「だからその言葉を言って勝てるのか?相手が同情して緩めてくれるのを期待してるんか?」。「いやいや、そんなんじゃない」。「だったらもうその言葉は、言うのを止めましょう。みんな聞き飽きてるし」。Mさんは、返答しなかった。彼が自分の言葉をどう受け止めたまでは分からないが、嫌ったかもしれない。以後、誘っても「調子が悪い」と断った。
自分は、誘って断った人には誘わないようにする。根に持つわけではないが、自分とやりたくない人を誘うのは気がひける。その後にMさんは話の最中に、「あんたは、『ああいえば上祐』だからね~」という。これには笑いながら、「懐かしい言葉だね~。そうかい、そうかい、自分はMさんにとっては上祐なんだ。で、Mさんは上祐って嫌いだろう?」と茶化した。
「嫌いじゃないけど。でも、よく口が回ると関心する」。物は言いようだが、嘘は顔に現れる。人の社会は面白いことが満載である。Mさんはそこまでいわれてか、常套セリフを言わなくなったし、これは自他ともによいことだ。口に苦しの良薬となったのだろう。あちこちで愚痴の類を黙って聞くことは多いが、つまらん愚痴を聞かないでいれる方法はないものか?
などと考えたりもする。それに対するアイデアを思考するのもまた楽し。実践してうまくいけば、自分の能力として加算されるだろう。嫌われるリスクはあっても、「この野郎はうざい男だ」と陰口を叩くよりは建設的である。経年になって、他人のことに立ち入らない方針を決めたが、余計なことと思いつつも、何か方法はないものかと考えるはかつての名残であろうか。
愚痴は言うまい、聞くまいだけでは通れないこともある。聞きたくもない愚痴から遠ざかることもままならぬ時は、「言わせない」を出動させるしかない。言いたい愚痴だから、相手にとっては迷惑なことだろうが、その迷惑という心情を止めることも、一皮剥けることであろうと、そのように善意に考えることが行動理由となる。嫌われるより、人を嫌う自分の卑屈さは嫌だ。
まかり間違ってもMさんが、「あのときあのように言われたおかげで愚痴に気づいた。感謝!」なんてことはないし、そんなもんなくてもよい。というのも、人が人のために、「〇〇する」という行為の裏には、自分のためということがほとんどだからで、そこを隠し、気づくこともなく、「他人にいい事をした」は、まるで少女の発想である。少女はそれで成長すればいい。
「利他的」という、「利己性」に人はいつしか気づくはず。これに気づかない、「善人」を自負する人もいるが、それで結構、別段悪いとは思わない。「善意」という言葉は、「善い行い」という意味だが、「相手を思う心」との意味もある。(真の)善とは、善意思によってなされるべきであり、「相手によく思われたい」行為であるなら、脱却をすべきである。