「生きる意味を探し求めることに意味はない」と言った。断定口調だが正しいというより、信じる生き方である。「生きる意味がない」と言ってるのではなく、「捜すことに意味がない」と言った。たまに人は、「生きる意味がわからない」などというが、生きる意味が分からないから死にたいわけでもなかろうし、分からなくても、「生きる」そのことに意味があると自分は思っている。
「生きる意味が分からないから死にたい」という人はいるが、そんな言葉は人間の傲慢だ。言葉を持たない動物は、「死にたい」など、口に出すことはないが、心にさえ思うこともないだろう。聞いたわけではないが…。「生きる」という本能行動を、なぜに人間は迷い思考を巡らすのか?「生きる意味を探せよ」と、哲学者は言う。「探せよ」とは、「目的」とせよであろう。
確かに、「目的」があればモチベーションがあがる。しかし、上がることもあれば、下がることもある。それがモチベーションを上げるリスクでもある。生きる目的を失いかけて人は挫折をするが、挫折も必要だと人はいう。否定はしないが、「生きる目的」がないままに生きてる人に挫折はない。「生きる意味」を探すなは、挫折や苦しみ回避のために言うのではない。
「生きる意味」を知り得ぬ人間の苛立ちが生み出した悲劇の代表的事件がある。それがあの、「オウム事件」だった。5000人以上の被害者を出した、「地下鉄サリン事件」を始めとする、麻原彰晃(松本智津夫)という教祖を神輿に担いだインテリたちの節操のなさに驚きもし、呆れるばかり…。彼らがなぜに麻原に生き甲斐を見出したか、オウム裁判のなかで各々が心象を述べている。
オウム真理教があのような事件を起こす前から、「こいつら何をやっているのだ?」と思っていたが、宗教に問題意識を抱く多くの人は同じ思いだったろう。彼らが大量殺人を企てる犯罪集団など、夢にも思わなかった。宗教ゴッコなら憲法で保障された、「信教の自由」である。オウムの元は麻原の始めたヨガ道場だった。それが発展して、「真理教」をつけて宗教法人とした。
麻原個人を突き詰めるなら、彼は東大に入りたかったという。鍼灸院もやった。どれも上手く行かず、手っ取り早く人の上に立つのが宗教であった。ヨガ道場主という指導的立場から宗教に移行した。麻原の心理分析はいろいろなされているが、視力が弱いというハンディに加えて家が貧乏だったことや、親に対する怨みなどが重なり、復讐心のようなものが芽生えて行った。
一時期仏教系宗教に惹かれた彼は、修行をする傍ら、神秘的世界に逃避する喜びも実感したが、寂寥感と人生への怨みから、権力への憧れが強くなる。会社を設立するも薬事法違反で罪に問われた。オウム真理教を作って宗教へと進出していったのはその直後である。本ブログに度々記すように、自分は宗教や霊的なものを信じない。信じないから取り入れない。
信じながら取り入れない人も多い。宗教的思考をするが、実際に行動をしないなら楽というもの。「知行合一」を信奉する自分には、まやかしに映る信者が多い。宗教や霊的なものやスピリチュアリズムが迷惑なのは、欲望抑制主義に根差しているからだ。地上において魂(霊性)を高めるために、真っ先にしなければならないことは人間の心を、「霊優位にする」ことである。
が、人間の心がそう簡単に、「霊優位」になるだろうか?言ってることはもっともでカッコイイが、人を惹きつけるためにはこうした美辞麗句は常道で、美しい言葉に酔い、信奉する人は必ずいる。「善き人間」になりたい人には必ず大きな不満がある。自分自身が抗うことのできない苦しい現実や、不条理な状況から逃れるために、人は精神的な問いかけをする。
あげく、宗教やスピリチュアリズムに傾倒することで、精神の鎮静化を図る。そういう人間を何人か知っているが、決して彼らは、「肉主霊従」(本能優位・肉優位」状態から抜け出せなかった。そういう書物を読んだり、思考に向かっているときは、そういう状態にあるが、反対に宝くじを買ったり、セックスをしているときは霊的真理などは、どこかに消え失せている。
宗教や霊的なものを信じる人は、霊が支配的な状態と、本能が支配的な状態の間を行ったり来たりの日々を送っている。それも都合のよい生き方だろうが、自分はそんな綺麗ごとに興味はない。宗教に依存しなくとも、善悪良否を判断する理性や精神力を強くしたいと考えていた。ゆえに宗教も霊性も無用である。ある奴が、「そんなことできるのか?」と聞く。
できるもなにも、それしかない人間にはそれが方法である。スピリチュアリズムに傾倒し、自分にも勧める奴にいった。「霊性や宗教を信じる人間はそれでいいのでは?必要ない人間には勧めても無理」。それでいい。そういえば、酒を飲む奴が同じようなことを言った。「よく飲まないでいられるね、信じられん。嫌な事があったとき、どうしてる?」。真顔で尋ねるので笑ってしまう。
「飲まないじゃない、飲めない人間は酒で憂さを晴らすなどあり得ん」。これを宗教やお酒に傾倒する人間には信じられないようだが、そんなものに依存する方が自分には理解できない。「欲望抑制主義」は、人間らしさを取り戻すと言われる。そう思うならそれもいいが、「善悪良否」を判断し、「清濁併せ呑む」のが人間である。つまるところ、人間は人間を行為する。
生きる意味をあれこれ理由付けをしたところで、理屈はさておき、生きたいのなら、それが生きる目的、生きる意味である。生きる意味が分からないと生きていけない、生きたくないという切羽詰まった人は探すのも方法だ。自分は生きることで、「生きた」という成果だけを受け取っている。宗教や霊性に向き合わずとも、「理性」で対応し、節度を保っていく自信もある。
生きる意味は、「自然」であればと思うが、それでは人間は向上しないという教えも理解はする。お金がなくても楽しく生きる人間がいるように、孤独でもまっすぐ生きる人間がいるように、自身に無理をする必要はない。宗教や霊性に傾倒し、自己を偽る生き方が人間らしいについては否定的だ。上品を自負する人がいてもいいが、上品は下品の恩恵にある。
利口もバカの恩恵に預かり、美人もブスの恩恵である。誰もが上品なら、「上品」という言葉は存在しない。セクシャルな小説が下品なら、行為は下品といわないか?人は人を眺めるが、自分を眺めて生きていない。我々は人間である以上、下半身から逃げられないし、離れて生きることもできない。それが人の本質なら、下の話をどうとり上げ、どう扱うかがその人の品性である。
下の話はセンスでもあり、タフさすらも試される。男と男の出会いは、女と出会うことで起こる化学反応はないが、共通すべくは互いを貶め合うのではなく、引き立て合うこと。それが見知らぬ人間同士の出会いの最低条件ではないか。姿形が見えないからと、暴言吐いて相手を貶めるネットお時代に、かっぱえびせんのように止まらずに書くことは探求心であろう。
ブログを書くのは、「生きる意味」でなく、生きているからできること。生きているからできる多くのことを人間はすべきと思う。犯罪や他人への迷惑は社会悪と葬り、それ以外の多くの事をやることだ。欲望抑制主義こそが人間らしさとの考えもいいが、命あっての物種だ。死ねばそれで終わりの人間が果たすべくは、「生きる意味」ではなく、「生きる」こと、「生ききる」こと。
「生きる意味を知り得ぬ」苛立ちから起こったオウム事件。裁判に登場した信者の中で、もっとも熱っぽくオウムを語ったのが、オウム真理教諜報省トップの井上嘉浩だった。彼は15歳当時の自分を、「形にならない不安、そして不満や心のモヤモヤがあった」と述べた。彼は当時、「若者の代弁者」として強い支持を受けていた尾崎豊の歌詞の世界に惹かれていく。
漠然とした不満や不安、生きる意味が分からない虚しさ、自らの存在意義を見つけられない焦り、そんな気持ちを尾崎の歌詞に重ね合わせ、やがて自ら、「願望」という詩に思いをしたためた。内容は、「これから高校に入り、大学に行き、社会に出て日々満員電車に揺られ、夢のないお金のためだけの生活をして行くのか?人間に生まれて来たのは、そんなことのためなのか?」
井上がオウム真理教に出会ったのはその直後であった。別のある信者は、「自分の存在意義に正面から答えてくれたのは、教祖麻原彰晃だけだった」と、述べている。求め、求めども、「生きる目的」は得られず、渇き切った心、あるいは父性喪失感も相俟って、麻原へのヒーロー信仰を抱いてゆく。いかれたカルト宗教教祖は、彼らを未曾有の大惨事を引き起こす将棋の駒にした。
自然に生きたい人間ゆえか、他人のいう、「生きる意味」、賢者のいう、「生きる意味」は他人事である。他人の意見を否定はしないが、自分に影響を与えるか否かに是々非々の選択は必要だが、信者が教祖を批判できない宗教は御免被りたい。神とて自分には他人である。神がいう、「この世で唯一、絶対に正しい」法則こそが自分には危険に思う。が、それが宗教である。