人間、歳をとると頑固になるというが、そうであろう、周囲の老人たちは頑固で持論を曲げない。自分はかつて頑固だったが、経年で止めたいと思った。73歳のK氏に将棋の新定跡を披露した時の事。新定跡をK氏は知らないだろうと、ある局面でこれまでとは別の手を指し、「コレが新しい手」と言うと、「そんな手はないない」という。「実はあるんです」と駒を進めようとすると…
「そこではこう指すと決まってる」と、主導権を奪い、聞こうともしない。その態度を見ながら、「何ともつまらん人だ」と、度量のなさを見切る。K氏が自己主張の強いのは聞いていたが、新たな定跡について見解を聞こうと思っていたのに、これほど他人の意見を聞かない人と思わなかった。相手が駒を進めるのを黙ってみていればいいものを、そういう好奇心さえない。
K氏はそこのクラブの世話人をしている。執拗に入会を勧めるので誘われるままに入会金1000円を支払って入会したが、行く気も失せ、しばらく顔を出さなかった。3週間くらい後、「大会をやるので参加して欲しい」と電話が入った。自分は、「出席しない。そこにはもう行かない」と告げた。K氏は理由を聞くこともせず、ガチャンと受話器を置いた。その様子から…。
こういう場合の対処というのか、慣れたものだ。自分があまり好かれないことを悟っているなと感じた。理由を聞かれたらおそらく、「そこは自分に合わないので」と言ったかも知れない。主催者に人格を求めるわけではないが、先の態度は人間関係を崩すだろう。もっとも、人間関係はまだできてはいないから、崩すというより、「成立はない」というべきだ。
他人のお披露目にあれほど強引に遮る人も記憶にない。それくらいに奇異な体験であった。そういう頑固な人もいるという発見である。これまで経験的に存在する一般的な頑固者の資質やイメージは、理屈をこねまわして後に引かない感じだった。理屈には屁理屈もある。理屈と屁理屈の分類をどういえばいいのかというと、理屈とは筋道が立ち、実践的な裏付けもある。
屁理屈は論理に無理があり、実践の裏付けなどあろうものではない。よって、屁理屈は聞いているだけで空しくなり、時にイライラ、相手の口を塞ぎたくもなる。子どもの頃に、「頭でっかちケツすぼみ」という言葉があった。正しくは尻すぼみだが、どういうことかといえば、「竜頭蛇尾」の言い換え。言葉の意味は文字通りでいうなら、頭は竜で、尻尾は蛇ということだが。
竜は蛇よりは上位で価値も高い。それが転じて、「頭は竜ごとく立派なのに、尾は蛇のようにか細く、前と後とのつりあいがとれない」の意から、「初めは勢いがいいが、終わりのほうになると振るわなくなること」。これを小学校くらいの時にどのような相手に、どのような場面で使っていたのかは正直覚えていないが、上記の意味からそういう相手にいっていたのか?
言い合いの最中に正確な意味も知らず、「お前なんか期待外れ」などの意味として頻繁に使っていた。上記した理論と実践についていうなら、どんなものであれ物事には、その存在を示す「理論」と、それを証明する、「実学」と云うのがある。「理論」とは、「個々の現象を法則的、統一的に説明できるように筋道を立てて組み立てられた知識の体系」ということ。
対する、「実学」とは、「事実・経験・実践などを重視する教育思想上の立場」という事らしい。難しいので平易に、「理屈」と、「実践」と云った方が分かりやすい。実践無きもの、実践の意欲無きものが屁理屈をこねることが多い。年寄りが頑固になるのは、実践なき屁理屈者だからかも知れない。先のK氏も新しい定跡など知りもせず、古い物を信念とする。
新たな何かを探るのが億劫なのだろう。だから老人、だから頑固。自分は理屈より行動を信じるが、経験のないこと、行動を躊躇うような場合は理屈で思考する。経験から得た理屈はとても貴重である。だからか、経験なしの薄っぺらいことをいう奴はすぐに見抜ける。理屈にも説得力を感じない。性体験のない奴が性体験の話をしても見透かされるようにだ。
未婚だが性体験はあろうし、多少なりの恋愛経験如きもあろうが、ある女性社会学者が言う薄っぺらい恋愛論は、無知も甚だしきことを述べているようだ。社会学者という看板を背負っている以上、恋愛も結婚も学問の範疇なのか?そもそも社会学とは、実践経験がなく理屈だけを提示していいものなのか?その前にあらためて、「社会学」なる学問とは何ぞや?
社会学とは、「人間の社会的行為を出発点に、それを規定するパーソナリティ、行為の交換である相互作用や集団、行為の社会的様式としての文化を総合的にとらえ、さらにその変動と発展を、固有の概念、方法を用いて実証的にとらえるとともに理論的法則を明らかにしようとする」とある。沿革をみても、実証主義の潮流のなかで始まったのが社会学である。
無知で世間知らずの独身・未婚の女性社会学者は、理屈だは立派にこね回している。が、彼女にとって、人間という動物は人間が考えた、理路整然とした理屈だけで生きていけるとでも思っているのだろうか。宗教までとは言わないが、人間の行動には根本的に精神とか心情と云うのが裏打ちされていて、その精神をより高めるために触れ合い、語り合い、愛し合うのである。
理屈を並べて相手をねじ伏せればそれでよい。こんな社会学者はどうだろう?それしか生きる術がないのだろうが、そういう学者を雇う大学も大学だ。実践的社会体験を学者には望むべくもないが、学問は学問なのであろう。理屈は実践の裏付けあってこそからして、理屈だけの社会学者には閉口する。最も、行動や実践は加齢によって落ちてくるゆえ、若いころに致しておきたい。
人間が生れ落ちて以降、日々成長と共に頭脳も成長する。本能的行動は習慣として身につくが、やがて生活の中の様々な動作が視覚で認識され、言葉や文字を通して記憶され、これらが知識となって広がっていく。それらの知識がさらには自らの判断によって必要性を自覚し、工夫もするようになる。思考、工夫された知識は、さらに持論という形で上積みされてゆく。
が、これらはその人が死ぬまで続くものではない。最大の障害は年齢であろうか?確かに年齢は鬼門だが、全てとは言い切れない。「人は歳月を重ねるだけでは老いない。理想を失った時から老いは始まる」と言う。子どもの頃に見た50歳、60歳は、とてつもない爺さんだった。70歳、80歳となると、腰も曲がり、歩くのもやっとの、半分死にぞこないに見えた。
ところが、実際に自分がその年齢になり、70歳に手が届くところまできて思うことは、やはり子どもたちから見た自分は、半分死にぞこない風情の生きた屍であろうか?「とんでもない!」。自分の歳などは意識の産物のようにしか思えない。足も手も脳もしっかりしている。歩きながら時々ジョギングする。思うほどに疲れないのは、心肺機能が衰えていないからか?
そういう時、「なかなかやるもんだな」と自分を鼓舞する。10km、20kmは難なく歩くし、たまに30kmコースに足を延ばす。体力って、使わなければ衰えるだろうし、おそらく脳もそうだろう。将棋や思索も含めて、自分は心身を鍛えていることになるのだろう。自覚はないが、客観的に見ればそういうことか。詩人のサミエル・ウルマンは若さの喪失についてこういった。
「優れた創造力、逞しき意志、燃ゆる情熱、怯懦を却(か)ける勇猛心、安易を振り捨てる冒険心」であると…。うむ、いくつか心当たりはある。怯懦(きょうだ)とは、臆病で意志の弱いこと。臆病で気が弱いこと。意気地なし。と辞書にある。「青春とは人生のある期間を言うのではなく、心の様相を言うのだ」。このウルマンの言葉は、自分の、「老いとは何?」の答えである。
「皴がない、肌がみずみずしく、たるみがない」それが女のいう若さなら、男にそんな意識は欠片もない。無用と言っておく。男と女の類の違いを実感する。ウルマンは女性に対して、「青春とは人生のある期間を言うのではなく、顔の様相を言うのだ」との言葉を残してはいない。彼が男だからであろう。女の価値がそれだけとは思わないが、女はそのように思うのだろうか?
桜の時節になると必ずといって思い浮かぶ句がある。「花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに」。花とは桜。「うつる」という動詞は、「色あせる・衰える」の意。「うつりにけりな」と通せば、「色あせ衰えてしまったなあ」となる。確かに桜の時節は短い。と、同じように女の若さも短いのだと、小町の切ない心情が伝わってくる。
古今集の撰者であった紀貫之は、「仮名序(かなで書かれた序文)」において、小町の歌をこう評している。「あはれなるようにて強からず。いはばよき女の悩める所あるに似たり」。小野小町は美貌蓄えた女性であるが、貫之は小町を、「うわべだけでなく、内省的にも美女であろう」という理解に至ったようだ。女をやる(生きる)のは大変そうだが、楽しみもあるのだろう。