「すべては遅きに失す」は現実にある。この場に及んで、「どちらが悪い」も不毛。彼女の生活習慣の変革に言及しなかった。離婚の原因が何であるかを分からせ、彼女自身が主体的に自身を見直そう、変革させようとの意思があるかどうかを確認するしかない。生活習慣は、一朝一夕には直らないし、電子レンジで、「チン」というわけにいかないのを知る者として…
人と人との仲裁に割って入る場合に仲裁者Cが、Aから聞いたBの欠点なりを、鬼のクビでも取ったような言い方で攻めるのはよくないし、すべきではない。なぜなら、Aの不満をBに伝えるだけで、BはCとAが連携を判断し、BとCが自分のあることないことを悪口の如くタラタラを言い合っていると感じ、反抗心から冷静にCを第三者と見ないことになろう。
男同士が結託して彼女一人を責め、悪者にしてはならないと注意深く話をしたつもりでも、彼女の自堕落さ、掃除が苦手という生活習慣のなさが原因なら、それを彼女が改めるのが何よりだが強制はできない。主人が自分に慣れてくれるのがいいとの気持ちはどうにもならない。真面目で温和な彼だから、それでも7年は我慢したのは、彼なりの善処であったろう。
「欠点だらけの人間が、互いを埋め合わせるのが夫婦だろう」。これは最初に彼に伝えた。それで7年間があったと彼はいう。彼女の言い分は何かを聞いた。「彼の至らない点は何?」。彼女は少し押し黙っていたがこう言った。「欠点かどうかより、主人は私がポジティブに振る舞える人ではないようです」。あまり聞かない言葉なのか、返答前に少考した。
誤った理解もどうかと思い、言葉の含みについて正確に知りたくて問うてみる。「ポジティブに振る舞うって、具体的にはどういうこと?」が、彼女は言葉を詰まらせる。気をまわして、「あまり会話がないとか、生活を楽しめないとか…、そういうこと?」といえば、「あの人は真面目だし、妻を困らせたり苦しめたりはない、夫としては及第点と思います」。
抽象的な言い方だが、その言葉から彼女の真意は理解できたのは、自分に素養があるからだ。「恋人にはいいけど、結婚相手には…」、「結婚相手にはいいかもしれないけど、恋人として楽しくない」この二つの言い方は女性が男を捉えている重要な要素として、聞いたことがある。男ならこういう言い方をする。「遊ぶにはいいが、女房にする女じゃない」などと。
説明はなくとも、普通のオトナなら意味は分かるだろう。集約していえばどちらも、「恋人と結婚相手は違う」ということ。それを、今まさに自分は彼女の口から聞いたと思った。最近ある女性がこう言っていた。「知り合いがバツイチの男性と結婚したら相手の離婚理由がインポ。男はそれを隠して結婚。卑怯と思うけど彼女は、ご縁があったと思おうとの結論を出す。
そのまま受け取るのは正しくないだろうが、真意は本人以外分からない。女性に性欲の強弱はあるが、女が娼婦になれるのは相手が可能なら100人とでもやれる。が、男は無理だ。性豪といえども、何十人もこなせるものではないのは棒と穴の性差である。インポというのは病気であるが、相手によって直ったという男もいた。それが真性のインポかどうかは分からない。
が、隠して再婚した男は、「今までがダメでもこの女なら大丈夫!」と思ったのかも知れない。それよりなにより、再婚前に試さなかったのか?交渉はなかったのか?それでダメなら真性インポだろうから、結婚を中止することは女にできたはずだ。人のいうことは、どこまで自分の都合かどうかは分からないので、そのまま受け取る以外は少なからず疑問は沸く。
自身が果たす責任は少なからずある。自分の知人のモテオ君は、「女は2~回やったら飽きるという。後は惰性か、できたら他の相手を見つけたい」。多少分かる部分はある。だから不倫が起こるのだろう。キリスト教は妻以外との関係はおろか、婚姻前の性関係も認めていない。が、有形無実化した昨今において、不倫はする、離婚はするそれでもキリスト教徒とはお笑いである。
婚前に交渉がなく結婚後に、「ヤッパリだめだ!」といわれてそれでも、「ご縁があったと思おう」とした女性にも事情があるかも知れん。子連れ再婚であったと、夫が資産家であったと、高齢婚であったなどなど、「ご縁アリ」の理由も多岐に及べば我々は真実の判断ができない。また、「離婚した知り合いはみんな納得したい思いを抱えていました」とも言う。
これは良いことだと思う。大人と子どもの差は、聞き分けがあるかないかで判断できる。聞き分けのないのが子どもである。聞き分けのない大人もいるにはいるが…。したがって、自分で納得しようと思うのは、その前に自分への説得を自らが行っているのである。誰に文句を言っても始まらない。自分で決断したことは、不満も含めて自分に文句を言うしかない。
自分への説得は、そうした文句も含めてだが、どこにも言って行くところがないと分かった時、自ら納得するしかない。どうしても納得できない聞き分けのない大人は、別の生き方を見つけるがよい。上にも書いたが、人間は究極的には妥協であるから、最後は自らを納得させるしかない。その場合に大事なことは、自分で考え、自分で決めることだろう。
子どもが聞き分けがないのは、親が決めたことへの不満を訴えている。子どもには不平や不満を言える大人がいる。したがって、不平不満を言わない、責任感のある子に育てたいなら、多くの事を子ども自身に決めさせることだが、自分は幼馴染の彼女の家に行って驚いたことがあった。昼前に起きた子ども(当時6年生)が、起き掛けに母親にこう言った。
「ママ、今日はどの洋服を着ればいい?」。この何でもない、見逃しやすい言葉に、自分は驚いた。幼児期に親が子どもを着せ替え人形として楽しむのはいい。が、ほどほどにしておかないと、いつまでも着せ替え人形ではまずいだろう。たとえ洋服一着とはいえ、こうした、「指示待ち人間」を親が作っているのが恐ろしい。批判と悪口は違う。批判は生かすこと。
に比べて人の悪口など生かせるものではないが、気晴らしという効果は認める。世の中は教材の山である。さまざまなものに触れなければ、人間は何も身につかない。じっとして動かず本を読んだりでも知識は得れるが、上記の着せ替え人形は生きた体験である。周囲は教材の山と言ったが、それを感じる心、感受性も大事である。これなくばすべては絵に描いた餅だ。
感性の高い子、強い感受性の持ち主は、どう育てるか?自分の経験で言えば、「あれはダメ、これはダメ」の禁止教育が良くない。こうして育った子は親の顔色ばかり見て、それが将来は社会で他人の顔色を伺う子になる。したがって、研ぎ澄まされた感性を育てるには、「あれもやれ、これもやれ」がいい。何か一つが重要で(例えば勉強)、後はダメと言うのがよくない。
この世の一切の物は、子どもにとっての教師・教材の考えが可能性を育てる。勉強だけでは屈強な視野の狭い子になろう。そうはいっても、思春期時期に主体的に何かを感じる子どももいる。それはそれで自らの人生を歩むことになる。以前自分が「あれもたれ、これもやれ」がいいと、保守的で心配性の親にいったら、「そんな無茶な、怖くて見てられないよ」だった。
最近の子どもは公園で遊ぶ時でさえ、親のお供がついている。「クルマも多く、交通事故の心配もあるから」というが、自分の庭でクルマで我が子を轢く方が歩道で交通事故にあうより多くないか?自分は、「心配なら、見なきゃいい」と言ったが、理解は得られなかった。あまり、よそ様のことに立ち入っては遺憾なと、子どもに関して自他の価値の相違は多かった。
今回の結論をいえば離婚話はとんとん進み、二人で協議の末、6歳の子どもの親権は母で、慰謝料なしの月5万の養育費に決着。購入していたマンションは夫の単独名義なので、収入のない妻はローン継続ができず住めない。残債も多いので売りに出すことにし、他の細々すべて解決した。自分としては夫の我慢を継続するより、妻の生活習慣が変わることを望んだ。
ハナから期待はなかった。彼女にとって汚部屋脱却は自己に無理を強いることで、夫が豚小屋を我慢すると同等の我慢である。どちらも我慢の関係なら離婚が正解だ。「部屋の掃除くらいはできないのか?」という気は全くなかった。「7年間、我慢と思ってやってみたら?」と遠回しに言って反応を見たが、再婚相手は汚部屋好き男を探すしかない。
「彼女には良くても、結婚相手にはちょっと…」、なるサイトがある。①汚部屋女子、②派手女子、③浪費家女子、④喫煙女子の順序となっている。①についてのみの理由と意見を添えると、「自分が掃除をさせられる」というところが、今時の男のヘタレ度を示している。「叩き出す!」という強さはないが、自分の友人の、「これで離婚は仕方ない」は、安らぎを求める夫には聡明か。