夫の不動の気持ちを知る自分は、妻を呼んで話をすることになるが、これはまぁ個別の事象でもあり、個人的な問題の解決である。その前に、「離婚」とは何か?さまざまな視点で、「離婚」の功罪を考えてみる。近年、離婚が許容され、支持された背景には、時代の流れによる価値観の多様化がある。離婚がネガティブで後ろめたいものだという決めつけもなくなった。
「なぜ人は大変な思いまでして離婚をするのか」のタイトルで書かれたサイトがあるが、これは可笑しな問題提起である。離婚を考える夫婦というは、一緒にいることが大変であり、先行き不安からも逃れたい、解放されたいから離婚する。(離婚がいかに大変であっても、そんなものは数日間の手続き上のこと)であって、生活の継続に比べればどうということはない。
さらに言うなら、離婚をして後悔するならしない方がいい。とはいうものの、後悔とは何事かをした後に起こるもの。「後悔先に立たず」というように、行為の前に後悔などはない。それなら後悔しない行為というのは行なった後に、「これで良かったんだ」と思い切ることであろう。思い込みでもいいから、とにかく思い切ること。思い込みも続けばやがては事実となろう。
行為のあとでうじうじ悔やむ人がいる。終わったことをあれこれ言う人もいる。そうしたいならすればいい。「覆水は盆に戻らない」という諺ひとつ、肝に命じることも自己啓発の方法だ。だから、後悔しない離婚とは、「離婚する以上は絶対に後悔しない」と自身に強く言い聞かせること。「離婚して本当に良かった」と思える人は、良かった、良かったである。
上記理由からして、「後悔しない離婚」のためには離婚という選択を、「良かった」とすべきである。結婚の失敗は仕方がないが、離婚の失敗(後悔)はない方がいい。「恋愛中や結婚までは良かったけれど…」という言い方にも蓋をした方がいいかも。離婚を、「善」とするなら、「結婚が間違っていた」と考えるべきで、離婚は誤った結婚を正すものである。
離婚は夫婦生活改善の一つの方法であり、できるなら、「最善」であるべきだが、最善を事前に見つけることは難しい。離婚が最善であるためには離婚の前に、「離婚が最善の方法」であると分かればいいが、そのことを本当に事前に分かるのかについてそれを考えてみる。離婚を考える人は結婚生活に問題を抱えているが、どういう問題かは人さまざまである。
問題のある結婚生活や不幸だと思える結婚生活から、どうすれば抜け出せるかを思考する。上手くいっていない原因は何か?相手に対する不満や不足ばかりではなく、自身の非も含めて考えてみること。これがキチンと冷静に考えられる女性なら、解決も含めた問題が長引くこともないだろう。その結果、結婚生活の続行が難しいとなったら離婚を決断する。
そうして離婚を決めたら、「上手くいかない理由」には固執しないこと。切り捨てるのがいい。切り捨てたら過去は見ないで前に進む。離婚が人生の汚点ではなく、結婚生活の改善と割り切る事。相手を責めたり、自分を責めるのも止め、身内や友人などの意見に振り回されるないよう、自身が決断する。そのことで後に起こるかも知れない後悔の芽を摘む。
肉親や友人など周囲の人たちの顔も浮かぶが、自分の問題として、恥とか見栄とかは除外すること。女性の場合に問題となる経済力についても、子どもを金銭漬け教育をしなくとも、人に慕われる人格を育んでいく。また、「人格=学歴」を信奉せず、欲の深いことも考えず、オンリーワンを目指す。離婚をためらうと、さらに不幸になりかねないので注意がいる。
他にもたくさんあるが、どういう状況で離婚を考えるかは人それぞれなので、一般論はこのくらいで友人の離婚に話を戻す。友人にはこのように告げた。「こうなった以上、失敗は結婚と考え、離婚で失敗しては何もならないからな。いろいろな事情を聞いた限りでは、離婚がマイナスになる要素はない」と彼にもそう言い含めたが、彼自身も迷いはないようだ。
「結婚が良くなかったから離婚をする」。こういう離婚は正しい。それでも肉親を含めた他人は、離婚を思い直すように責め立てるだろうし、親なら近所の見栄もあったりで、結婚の継続を望む。彼らは決まってこのようにいう。「子どもを片親にするのか?」、「我慢が足りないのでは?」、「自分が選んだ相手だろう?」などと責める。こうした無神経な言葉を人は無造作に吐く。
片親であれ、愛情たっぷりに育てることは可能だし、夫婦が険悪な環境の方が子どもへの弊害が大きい。我慢の度合いも他人には分からないのだから、離婚を否定する他人の意見より、しっかり自分で考える。我慢のない改善方法があればよいが…。「自分の選んだ相手だろ?」の言い方だが、人は正しく物を見極められるものではない。若気の至りは大いにある。
結婚はして分かる要素が多く、して分かる事は何も悪くない。結婚した以上はいかなることも我慢すべきというのは傲慢。人さまの意見は無知が多い。内実も分からないままに、「離婚は悪」、「婚姻継続が善」など適当で、正しい意見ではない。自身のことゆえに自身で考え、決断すべきである。「夫婦喧嘩は犬も食わない」の諺の意味にはいろいろある。
「他人の事は分からないゆえ、口出すべからず」の意味もある。将棋というゲームは、相手が100考えるなら200考える方が勝つ。考える量もだが、より正しく考える人間が強い。人生の思考や人間関係の機微においても、人よりも多く考えられる方が、人間を理解する上に置いて勝る。この場合には、勝者・敗者より、正しく生きる道を模索できる利点がある。
人間という実態に対し、自身が誠実に、深遠に、実直に、どれだけ多くのことを考えられるかである。他人のいう事はあまり真実と思わない方がいい。なぜなら、他人の評価というのはその都度変わる場合が多い。自分が自らに誠実であれば、自分の考えはいつも一定で正直である。「他人の評価に乗るな。常に自身の軌道の上に立て」と、この言葉はニーチェである。
昨日、他人は自分の事を優しいと言ったが、今日は、「冷たい」という。明日は、「ヒドイ人」かも知れない。人は自分の味方になったり、敵になったり、せわしいものだから、それに振り回されないためには、人の評価や批判に動じない方がいい。そのように生きると、常に他人の顔色を伺ったり、気にしないでいれるので、大きな(強い)人間になれるだろう。
離婚は婚姻生活の改良ではなく、改善である。「改良」とは、物をよりよくすることで、「改善」とは、人のすることやシステムなどが善くなること。いろんな人間関係にはいろんな改善法があるが、今までできなかったことに、新たな改善を持ち込むのが難しいように、離婚前に別居という方法もあるが、別居が改善となったなどはほとんど聞かない。試すのはいいけれど…
などの答えが自然に導きだせる。まあ、大変なことに踏み出す人は、より大変な何から逃れることを考えるものだが、別の方法として、「我慢をする」というのがある。これもある時代の象徴的な価値基準であったし、そういう時代を不遇な時代と自分は考えている。「したいこと」が本当に、それがいいことでありながら、「できない」何かで縛られてしまうのは憐れである。
度々引き合いに出す伊藤野枝だが、親に勝手に決められた相手と祝言をあげたが、新婦の実家には一晩泊しただけで、手も触らせず、翌日はとっとと逃げ出したという。それで婚家にも実家にも多大な迷惑をかけることになったが、考えてみれば婚家や実家が被った迷惑って、野枝の心情とはまるで無関係の、周囲どもの都合である。それをして迷惑というのか?
自分は野枝のこの行為を爽快と感じている。称賛すべきものと考えている。野枝という女の思考が、しっかりと自らの軌道の上に立っているからである。己の意思とは無関係に、勝手に押し付けられたものを子どもに、「要らん」といって怒る親はどうかしているし、それをせぬが、「親孝行」という時代こそが歪んでいる。そういった、「負」の時代があったのは間違いない。
女性が人間扱いされていなかった時代は、戦国時代の政略結婚の道具であった時代に始まるか。いや、いつの時代にも女性はふたつ。むしろ西洋の女性の方が強かったかもしれない。ブルゴーニュ公国の時代、ハプスブルク家のマクシミリアンは、政略結婚を拒んだために幽閉されてしまったブルゴーニュ女公マリーを救い、後に2人はめでたく結ばれた。
あまり表にでないが、日本の皇族から韓国の皇太子に嫁いだ女性もいた。1901年11月4日、皇族梨本宮の長女として誕生した方子(まさこ)は、18歳で韓国(当時は朝鮮)の李王朝26代皇宋皇帝の王子李根に嫁ぐ。以後、彼女の人生は日韓相克の禍の中で翻弄され続けることになる。軍閥によって決定された二人の政略結婚は、初めから悲劇を孕んだものであったといえる。
強い女の代表で浮かぶといえば、義経の愛人で白拍子の静御前もそうだろう。時の幕府の権力者に抗い、捕えられれば怯むことなく、堂々義経を恋いうる謡を見せつける。自分をたばかった静御前の態度に激怒した頼朝を、なだめたのが政子であった。「私が御前の立場なら同じように謡うでしょう」といい含め、頼朝は静に褒美をとらせる。静も強いが政子も強い女。
近年、邪悪な生活習慣は、「生活習慣病」という語句を生み、注意喚起される時代である。それとは別の基本的な生活習慣を親は子どもに躾ける必要がある。これはもう嫌われる覚悟で口酸っぱく言ってこそ身に付くものだが、身についたかどうかを知る方法は、部屋を綺麗にすることは心地いいことと、観念として内在されることで、初めて身についたとなる。