人と話すといろいろな考えや意見に触れる。人も自分と話すことで人は違う考えに触れる事になる。聞き流すことも、「なるほど」と思うこともある。人がそれぞれにどういう考えを持ち、何を語ろうとも語ることの正しさがそれほど重要なのだろうか?いかにも自分がいうことは「正しい」と言わんばかりの人がいるが、大事なことは共感ではなかろうか。
共感がなぜ大事かは、とりあえず正しいことを壁に向けていう人はいるだろうか?世の中にはそういう変わった人もいるだろうが、馬の耳に正しいことを言ってみてもニンジン一本やる方が馬は喜ぶだろうよ。共感が大事という前に共感をはき違える人がいる。共感とは、、「他人の意見や感情に対して、そのとおりだと感じること。また、その気持ち」とある。
会話の最中に、「そうそう、それそれ、まったく同感!」などといったり、悩みを打ち明ける相手に対し、「あなたの気持ち、すごく分かる…」などと、相槌を打ったりするようだが、本当にわかっているのか、どれほど理解しているかは別にして、それがコミュニケーションというものだ。「共感をはき違える」といったが、「共感」には相手の意見に同意する側面もある。
しかし、共感を突き詰めると、その場における相手の意見もしくは、同じ価値観の共有といった、こちらが相手の気持ちに共感するのは、一見して共感に見えて単に同意であったりする。分かりやすい例でいうなら、ある議題について最終的に多数決となった場合、Aの意見に挙手をする。これが同意だ。同意といっても賛同もあれば、しぶしぶの同意もある。
賛同か否かを相手に伝える場合もあるが、伝えないこともある。このケースにおいても、共感と同意の違いは分かろうというもの。まあ、漢字の意味からいっても、「同意は意見が同じ」、「共感は感情の共有」で、単純比較でいえば、感情を含まない同意はある。結婚に同意はしたが、相手への感情が揺れ動かない、そんな結婚もあろうが、ダメなのか?
いや、それでも結婚はできる。相手を好きだからという結婚と、親が決めたからという結婚と、どちらがいい?「そりゃ~好きであるのがいい」という意見は多いだろうが、どちらがいいの「いい」は、何を「いい」と言ってるのかにもよる。結婚をどのように考えるかによって、結婚に対する考え方は決まるが、「好きだから結婚したい」は、嫌いになったらどうする?
我慢するのか、別れるのか、惰性で続けるのかの三択が浮かぶが、かつて「お見合い結婚」の方が離婚率が低いといわれた。昨今は、かつてのようなあらたまった、格式ばった「お見合い結婚」というのはないが、自分が若いころに、「そりゃ~、お見合いがいいさね。相手を知らないというのもドキドキもので、結婚した後に恋愛すればいいんだよ」が耳についている。
交際期間が長すぎたことで結婚に踏み切れない恋人はいる。理由はそれぞれによって違うが、同棲であったり、長距離恋愛であったり、このまま結婚していいのだろうか?という一抹の不安であったり、自分は経験がないから想像するしかないが、彼らが破局した際には、「なぜだろう?」が素朴な思いだった。「お前たち何で結婚しないんだ?」と周囲から言われ続けた二人。
結婚のような暮らし、結婚同然の生活をしていながら、結婚しない理由も分からなくもない。それが結婚観というものだ。自分の場合、自分の子どもは一体どんなものか、老齢に向かう父に早く孫の顔を見せてやりたい、という一念(二念か?」であったから、それを実現するには婚姻しかなかった。優しく大人しく、母親のような女でなければ特に問題はなかった。
単純で率直な結婚観であったといえる。恋愛結婚という美名に揺り動かされることもなく、お見合いもいいものだと思っていたし、確かに知らない相手と結婚後に恋愛するのもいいのではと思っていた。恋愛は沢山したが、恋愛と結婚は別のものだとハッキリ区別していた。それくらいに、「結婚は日常」という先輩諸氏の言葉に共感し、信奉もしていた。
男と女の世の中であるから、恋愛について、結婚についてさまざまに語られてきたが、どういう考えや価値観に共感するかが、「結婚観」であろう。恋愛観という言葉にはあまり馴染めないが、自分にとって恋愛観というものはなかったように思う。その代り、「結婚観」はハッキリしたものだった。伊藤野枝の記事で書いたが、彼女はこのように述べている。
「アメリカのある婦人は、結婚というものについてこう述べている。「結婚は元来経済的の取り決めである。保険の契約ごときものである。(中略)結婚保険は、女に生涯の従属を宣言し、個人としても、公人としても、全然不用な寄生的なものとする。男もまた結婚税を払う。けれど、女の場合のように、結婚は男を制限しない。男はただ、自分の束縛を経済的の意味において感ずるようになる。」
『自由意思による結婚の破壊』の一節。さらには、「結婚と恋愛は、共通の何物をも持っていない。両者はまるで、両極のように離れている。ある種の結婚は恋愛を土台としているのは事実である。また、その恋愛が結婚して後も継続しているのもあるのは、等しく事実である。私はそれが、結婚とは全く関係ないものであって、またそれがためだというような主張をしたくない。」
後文において野枝は、「恋愛結婚だからといって、夫婦仲が継続するとは限らない」と言っている。恋愛であろうと何であろうと、続くということと、「結婚」の何かというのは別だと言いたいようだ。結婚継続における別の何かとは、続けようという意志と努力であろう。これには「我慢」や「惰性」は入らない。我慢や惰性は続ける努力でなく、別れない方策であろう。
離婚のエネルギーは凄まじいもののようだ。それをしてまで離婚したいいたたまれない理由があり、取り立て「可もナシ、不可もナシ」という夫婦は離婚をしないもの。離婚したいというそれほどの理由がないということだ。離婚決意の大きな理由には、夫の暴力や借金、浮気などの理由のほかに、ぐーたら夫に飽きた、顔を見るのもうんざりというのもある。
その背景には、「結婚も離婚も自由にするものだ」という認識が広まったこともあろう。ネガティブな離婚がハッピーであるはずがないと人は見るが、とんでもない。離婚した瞬間から「とても幸せ」という女性は少なくない。つまり、離婚をずっと考えていたが、相手が応じてくれない、そういう場合は諦めるか我慢をするしかない。あるいは別居も方法だ。
これらは長い年月を要する場合が多いが、実質的には夫婦でないのに籍が切れていないだけで、相手が離婚に応じた場合は、天にも昇る心地であるという。「わたしの生涯で一番うれしい日」という女性もいる。家も退職金も大半は妻に取られてしまったが、それでも愛する女性と水入らずで暮らせる喜びを噛みしめる男もいるわけだ。これも男と女の現実だ。
人は誰しも性格という傾向性を持っている。真面目な人も砕けた人も、思考が深遠な人も、浅い人も、それぞれ違う傾向性で生きている。理性的な人もいれば、本能的傾向性の強い人もいる。そうした雑多な人たちの集団が社会であり、したがって社会生活というものは、二個の人間の我慾がぶつかったときに、それについてどう対処するかと言う事になる。
そういう場合の理想は、両方ともに生かして適当に調和させるべきだが、それが出来たら喧嘩も紛争も起らない。我慾を持った人間がそれを主張し、他人も自身の我を主張するとき、二者間でどのように折り合いをつけるかというのは、誰ばれ持ち合わせるものではない人間の能力の一つである。調和方法にはさまざまあるが、日本人は論理的調和を得意としない。
なぜなら、人間は自分の思考を基盤にした信念や、行動内容とは矛盾する、"新しい事実"を突きつけられると、「不快な感情」を引き起こす。その結果として、自分の信念や行動と、"新しい事実"のどちらか一方を否定し、矛盾を解消しようとする。これを、「認知的不協和」と呼ぶが、その時、信念を変えることが困難な場合、人は"新しい事実"を否定しようとする。
こういう例はさまざまあり、身近にはタバコの健康害について、悪いと知りながら受け入れない人は多い。「そんなのデマだ」、「科学的な証明はない」、「別にタバコで死ねば本望」、「人の嗜好に干渉するな」などと、人によってタバコを止めない理由はさまざまで、信念を変える困難な理由となっている。ようするに、「受け入れがたい」ということ。
「タバコを吸っていても長寿の人もいるじゃないか」とか、「肺がんよりも交通事故で死亡する確率の方が高い」といった理屈を科学的根拠にする人もいるが、「認知的不協和」の状態にある人は、その時点においてすでに結論ありきで考えているのであって、論理的に考えていない可能性が多く見受けられる。つまり頑固になっている状態ということだ。
何を言っても変えない信念なら、それはそれで悪くはないが、決してそれで清々しく堂々と生きているのではなく、不満や愚痴三昧であるのはいかんともしがたき醜さであろう。考えや理念そのものが醜いのではなく、他人に愚痴をまき散らして生きることが醜いのである。もっともそれがなぜに醜いことかを気づき、分かっている人はそんなことはしない。
人は過去について苦悩や後悔や悩みを持っている。自分で苦悩し、悔いいるならまだしも、他人が自分の過去を否定すると恨む。なぜなら、過去は変えられないし、どうすることもできない。そこを責めて許しを乞うのは自分自身だけである。だから、人の過去について批判はすべきでない。それを認めることは、これまでの彼自身の「生」の否定になってしまう。
過去のよき思い出、よくない思い出など、誰かに話して共感を得たところで、所詮他人に表面の部分のみしかわからない。分からせることも大変だが、分かろうとしない人間は多い。込み入ったことなどまるで理解を得ない。愛想や相槌を打ったりも人間関係だが、誰よりも自分が知る自己の体験は一人忍んでこそ思い出だ。誰にも冒されない世界がそこにある。
社会学の考え方によると、「人が人に価値観を伝達することはそもそもできない。人は単に環境から学習するだけ」ということになる。環境という範疇の中には、価値観を伝達したがり屋の人間も混じっている。また、価値観から乖離した行動をする大人もいるし、それを見たり眺めたりで子どもは影響を受ける。物事というのは、そうした環境の総体から学ぶもの。