将棋や囲碁界で「天才」の肩書は珍しくないが、聞こえてこないというだけで、チェスの世界にも天才の称号はある。史上最も偉大なチェスプレイヤーとされたボビー・フィッシャー(1943年3月9日 - 2008年1月17日)は、幻の英雄とも呼ばれたが、それほどに彼の人生は紆余曲折であった。チェスとの出会いは、落ち着きのない彼に、姉が与えた1ドルのチェスセット。
姉は簡単なルールを教えたところ、ボビーはすぐさまチェスの虜になった。14歳でインターナショナルマイスター、翌年15歳で最高位グランドマスターの称号を得るが、15歳でのグランドマスターは世界最年少記録だった。1972年当時、グランドマスターは世界で僅か88人で、うち33名がソ連の選手であった。1972年の世界選手権はアイスランドのレイキャヴィクで行なわれた。
フッシャーはソ連のスパスキーを破り世界チャンピオンとなる。当時、世界は冷戦のさなかであり、ソ連は第二次世界大戦以降、チェスのチャンピオンのタイトルを独占しつづけていたので、欧米側から見てこれは歴史的な勝利となり、「アメリカの英雄」として扱われた。この辺りからフィッシャーには奇行や反米主義、反ユダヤ発言が目立つようになった。
理由は定かではないが、フィッシャーの両親はユダヤ系であり、彼自身もユダヤ系である。1974年まで世界チャンピオンに君臨したフィッシャーは、1975年、防衛戦の運営をめぐり国際チェス連盟に多数の条件を提示したが、そのうちのひとつが否決されたことで挑戦者アナトリー・カルポフとのマッチを拒否、戦わずしてそのまま王座を返上した。
それ以降フィッシャーは試合を拒否し、引退状態となった。表舞台から姿を消し隠遁生活を送った彼は、「天才」であるのと同時に、「変わり者」と語られるようになっていった。1992年、ユーゴスラビアでスパスキーと再現試合を行ったが、アメリカ政府は、「ユーゴスラビアに対する経済制裁措置違反」として起訴し、フィッシャーのアメリカ国籍を剥奪した。
フィッシャーの隠遁生活は10年以上にわたり、ハンガリー、スイス、香港、マカオ、韓国など世界の様々な場所を転々、2000年ごろにはフィリピンと日本が主たる拠点とした。日本では元日本女子チェスチャンピオンで日本チェス協会事務局長の渡井美代子と、フィリピンでは元フィリピンチェス協会会長らの支援でマリリン・ヤングという若い女性と暮らしていた。
フイッシャーの反ユダヤ主義発言は過激で、2001年9月11日の同時多発テロの際も以下の声明を発した。「ブッシュ大統領に死を!アメリカに死を!アメリカなんてくそくらえ!ユダヤ人なんかくそくらえ!ユダヤ人は犯罪者だ。やつらは人殺しで、犯罪者で泥棒で、嘘つきのろくでなしだ。ホロコーストだってやつらのでっちあげだ。あんなの一言も真実じゃない。
今日はすばらしい日だ。アメリカなんてくそくらえ!泣きわめけ、この泣きべそかきめ!哀れな声で泣くんだ、このろくでなしども!おまえたちの終りは近いぞ」。「天才〇〇は紙一重」というが、ユダヤ人の母を持つ彼をそこまで追い詰めたものは何のか?アメリカから訴追されたフィッシャーと同居していた渡井美代子さんは、彼を献身的に支えた。
1992年、ユーゴで行われたスパスキーとの再戦にあたり、日本に居たフィッシャーをアイスランド出国に尽力した渡井氏は以下述べている。「フィッシャーは誠実の人。約束は必ず守ります。だから、会うたび違うことをいう人を(どんな些細な食い違いであったとしても)絶対に信用しません。フィッシャーは、私が希望をいえば誠実に応えてくれる最高の友です。
試合のない日(浅井氏はユーゴでのスパスキー戦に招待されていた)は、私と食事するという約束は何があっも一度も違えませんでした。どんな偉い人がきても袖にしました」。フィッシャーとされたが、好敵手スパスキーもなかなかの人物である。1968年のソ連がチェコスロバキアに侵攻したチェコ動乱(プラハの春)の直後に行われた国際トーナメントでのこと。
ソ連のスパスキーは黒の腕章をつけチェコスロバキアの選手一人一人に握手した。彼の行動は、ソ連がチェコに対して行ったことへの抗議であり、国家を背負うものとしてそれとは別の、一人の人間としての謝罪であった。2008年、フィッシャーはスパスキーとの世界選手権が行なわれたアイスランドの地で、チェス盤のマス目の数と同じ64歳の生涯を終えた。
世界は広い。名を知られた人、名を残した人もいれば、無名の多くの人々も世界の住人である。感動的に生きた人に対する主観は人さまざまであろう。フィッシャーのように国の英雄となりながらも、自身の信念や自己主張を大事にし、国家に謙ることなく、国籍を剥奪されて国を追われた人を、どのように考えるかも人によろう。国家に崇められたものだけが英雄か?
そういう問題提起を感じさせるのがフィッシャーであり、冷戦状態の米ソにおけるスパスキーの勇気ある行動である。1989年10月、ベルリンの壁が粉砕され、諸々のゲートは開け放たれ、それらを通って東ドイツの人々の奔流が西ベルリンになだれ込んだ。何千人もの人々が壁によじ登り、何万もの人々が壁に集まり、何千万もの人々がその光景を映像で見た。
1848年2月、マルクスとエンゲルスは「共産党宣言」をロンドンで発表して140年、彼らの描いた理想世界は遂に終焉した。ソ連のスターリンなどによる粛清、中国毛沢東のチベット侵略や粛清をみるに、何故、共産主義は人間をこうも憎悪の虜にしてしまうのだろうか?明快な答えは出てこないが、キューバ革命の指導者チェ・ゲバラはこのようにいった。
「世界の何処かで、誰かが被っている不正を、心から悲しむ事が出来る人間になりなさい。それこそ、最も美しい革命家の資質なのだか」。この言葉に反するかのごとく、ソ連・中国の共産主義というのは、あるものへの憎しみに囚われていたといえる。憎悪というのは増幅して更に多くの憎悪を産むというが、これは共産主義だけにあてはまるものではない。
ボビー・フィッシャーというチェスの天才の人生は、決して平坦ではなかったが、彼を尊敬してやまない世界中の人々が、フイッシャーに暖かいエールを贈った。フィッシャーに限らず、人が人を称賛するも軽蔑するも自由である。賞賛と軽蔑を同時にするのも簡単だ。が、彼は問題を抱える人間であった一方で、知への情熱を持つ偉大な芸術家でもあった。
天才フィッシャーも人間である。弱き人間が何かにすがって生きていくように、1970年代の彼も、アメリカの福音系新宗教団体、「ワールドワイド・チャーチ・オブ・ゴッド」を信仰し、支援し、献金もし、教団の施設で暮らしていた。ところが、教団創設者のハーバート・アームストロングが唱えていた終末予言が外れたことで次第に距離を置くようになる。
フィッシャーが頑なに厭世的となり、隠遁者同然の生活を送るようになった理由は、彼の歪んだ政治的・宗教的信念などの理由もあろうが、1962年、19歳の時に一度国際舞台から引退している(但しアメリカ国内の大会には出場した)。1966年(23歳)に復帰したが、1968年(25歳)に再度引退するなど繰り返したが、1970年のソ連対世界戦で再びチェス界に復帰したのだった。
1971年の「世界チェス選手権」挑戦者決定戦では、ソ連のマルク・タイマノフに6対0で完勝し、さらにデンマークのベント・ラーセンにも6対0で完勝した。前世界チャンピオンのチグラン・ペトロシアンに5勝1敗3引き分けで勝ち、当時の世界チャンピオンスパスキーへの挑戦者となった。上記したように、1975年の大会では対局を拒否、以後隠遁生活に入った。
そんな彼を対局場に戻したのは、。ハンガリーの17歳の女性チェスプレーヤーの手紙であった。少女の、「なぜプレイしないの?」という言葉をきっかけに、少女と交流が生まれ、、彼女の根回しによって1992年にユーゴスラビアでスパスキーと再現試合が行われた。話が少し前後したが、何度も引退をしたことも、天才の気まぐれと解する。フィッシャーのプレースタイルはいかなるものか。
自分はチェス音痴だが、フィッシャーならではの着手があるという。1956年の対ドナルド・バーン戦で、クイーンをわざと捨てて勝利し、1963年の対ロバート・バーン戦では、ナイトを捨てて勝利した。日本の将棋棋士で天才といわれた加藤一二三、羽生善治、谷川浩司にも、「天才の一手」というのがある。将棋界には新たな天才が出現したと騒がれている。名は藤井聡太。
2002年7月19日生まれの彼は、2016年9月3日、日本将棋連盟の第59回奨励会三段リーグにおいて13勝5敗の1第位となり、10月1日付にて1プロ棋士(四段)となる資格を得た。中学生でプロ入りを果たしたのは加藤一二三、谷川浩司、羽生善治、渡辺明に続く5人目だが、14歳2か月という年齢は、加藤一二三の14歳7か月を62年ぶりに更新する最年少記録として騒がれた。
2002年7月19日生まれの彼は、2016年9月3日、日本将棋連盟の第59回奨励会三段リーグにおいて13勝5敗の1第位となり、10月1日付にて1プロ棋士(四段)となる資格を得た。中学生でプロ入りを果たしたのは加藤一二三、谷川浩司、羽生善治、渡辺明に続く5人目だが、14歳2か月という年齢は、加藤一二三の14歳7か月を62年ぶりに更新する最年少記録として騒がれた。