種々の理由があるにせよ、毎日のように人が殺される昨今にあっては、戦争でバタバタと人が死ぬのが珍しくないほどに、殺人事件が日常的で珍しくないが、最近とみに女子高生殺人が多いと感じている。「なぜに女子高生殺人が多いか?」こんな命題にそぐう答えは、「女子高生が狙われるからだ!」と答えるしかない。男女が別れたり、殺されたりを、「異性関係のもつれ」という。
が、「異性関係のもつれ」とは、親しき相手や交際相手に限ったことではない場合もある。一般的理解でいう、「人間関係のもつれ」、「親子関係のもつれ」というのは、「何で?」というような、「ある日突然」起こるというものではない。それなりの期間を経て起こるのが人間関係の「もつれ」だろう。上記した初対面での男女の殺人事件というのも少なくない。
初対面の男女がビジネスもしくは、不純異性交遊といわれる関係で相対し、何らかの理由で突発的な殺人に及ぶ場合、これは、「もつれ」というより、「衝動」というべきか。「もつれ」というのは、ある程度の期間において発生し、ほどくのも困難な場合、人の命を奪って終焉する。「もつれ」、「衝動」は、経験から理解もするが、殺人に至るというのは理解を超えている。
人を殺すことの是非が戦場で麻痺するのはともかく、女子高生をメッタ刺しにする際においても、「悪」の認識はあっても理性を超えるか?おそらく死ぬまで体験できない殺人は謎である。確かに、「(悪いことと)分かっていてもやってしまう」のが人間だから、自分も人並みに悪を行為する。ただし、自分の場合、「分かってもやってしまう」という言葉は口にしない。
これは言い訳とするからでは、「言い訳」は言うのも聞くのも嫌だ。分かってやる行為」は、「分かっていない」と考えるべきで、「分かっているならやるな」と自分を責める。だから、自己を甘やかせる言い訳である。自分の行う悪事は、「悪の認識がない」、または、「少ない」であり、悪事は悪事の認識のもとに行為される。80kmの制限時速を100km越で飛ばす。
「分かっているけどやってしまう」という言い方を人はするが、自分は、「悪を行為するお前はバカ。捕まれば文句をいわず罪に服せ」である。言い訳したところで行為を止められないなら、下手な理屈や言い訳よりも、責任を取ればいいこと。だから、「分かってても(悪事を)やってしまう」との言い方より、「分からないから(悪事)をするバカ」の方が清々しい。
長いこと将棋をやっている。勝負事は勝ち負けを争うがゆえにか、負けたら悔しく、それが人間の自尊心というものだ。そうした自尊心をどのように自己処理するか、フォローするか、最も手っ取り早いのが言い訳である。「今日は頭が冴えない」、「体調が悪い」、「手が見えない」、そんなことをしきりにいう人は多い。どうして言い訳を封じ込められないのだ?
いつごろか覚えてないが、将棋に負けて言い訳する人をみっともないと思うようになった。そのことが、「自分は絶対に負けて言い訳をしない」と決めて今に至っている。将棋に限らず、遅刻の言い訳、失敗の言い訳、ちょっとしたケアレスミス…、すべては自分が起こしたことであるはずなのに、なぜ言い訳をするのか?「そんなしょぼい自尊心などうんざり」である。
「言い訳ほどみっともないものはない」と、長いこと言い訳を排して生きてくると自然にそうなる。それで言い訳をしない自分を好きになったが他人はどうか?言い訳をする他人は嫌いなのか?嫌ったり、許せないでは人間の度量が小さい。人がする言い訳は笑って許している。将棋の時も、「しっかり考えましょう」、「体調悪い時もありますからね」とフォローする。
カワイイ言い訳は子どもみたいであるなら、子どもを優しくあやせてこそ一人前のオトナである。ところが、企業の確信的犯罪、官僚や政治家という公僕の見え透いた言い訳は容赦ない。まったく聞く耳をもたないし、よくも甘えた言い訳をできるものかと断罪する。物事には許せることと許してはならないことがあり、それが社会に生きる人間関係の機微である。
何事も四角四面に考える人は息がつまるし、付き合いは避けたい人間だ。人のする「言い訳」は仕方のないものと鷹揚に考えているし、自分は訓練でそれを排したということ。人の言い訳を聞く実害はない。相手はそれを言う必要があるが、それを聞くことで得るものもない代わりに失うものもない。よく女性同士が、「愚痴を聞いてあげるから…」などと言い合う。
女性だから女性の気持ちが分かるのだろうが、男はそこが違う。なにぶん、男社会は言い訳を排す世界と考えていい。「言い訳は武士の恥」の名残もあり、信頼を基軸ととす男関係にあって、ちゃらちゃら言葉を変える奴は信用されない。だから男同士で、「愚痴を聞いてやるから…」はない。むしろ、「愚痴(言い訳)ってる場合じゃないだろう!」である。
男同士の厳しさとはそういうものだ。「彼の愚痴を聞いてやりたい」と心では思うが、「それを言わない強さ、逞しさを備えよ」という気持ちを優先させる。牛のよだれの如く、だらだらと愚痴をいう男が社会で尊重され、認められないことを知っているからだ。それが厳しいというより、実際において、「愚痴」や、「言い訳」は建設的でなく、何も生むものではない。
国を動かす政治家や官僚、社会的影響力並びに国民の負託に応えるべく企業が、国民を愚弄したり欺いたりしてはいけない。企業の論理で法外な利潤を上げることもである。彼らを監視する義務が国民にあるなら、詐欺や虚偽には厳しくあるべきだし、賞味期限改ざんなどの言い訳は黙殺でいい。謝れば済むではなく、謝らなくていいように向かわせたい。
おそらく自分のように、「言い訳」を戒めて生きる人はいるだろう。そうすることで責任が明示されるのは間違いないし、何でも人の責任にして逃げを図るなどの浅ましさをなくすことで信頼をもてる。分かりやすくいえば、「言い訳」をしない生き方は、「いい子になろう」を拒否した生き方かと。「いい子に生きる」は悪ではないが、悪い子が、「いい子に見せる」が浅ましい。
「自分は善人なのだ」、「人から愛されるいい人なのだ」などと思う人ほど、自分に降りかかる火の粉を払おうと躍起になる。他人に罪を押し付ける。『善人は周りの人を不幸にする』というのは、善人は少しでも悪人であってはならないという虚栄が災いするからだ。「自分は悪人だから、そう生きる」と開き直るのではなく、「悪人なら少しはよく生きたい」と思うかどうか。
卑屈な人は、「どうせ自分なんか…」と、しばしば口に出すが、自分で思っていればいいことで、それなら向上心につながるものだが、人前で口に出すことで、自分の至らなさを相手に分からせたいという姑息さが見え隠れする。失敗やミスの言い訳をあらかじめしておくことで、自己愛を守ろうとするのだろう。本当に自己愛を守ろうとするなら、成長することだ。
自分の愚かさを他人に提示し、許容してもらうのではなく、自らに厳しくするには、人に隠れて自らを叱咤する。そうした向上心が、他人から揶揄されないブレることのない自己愛を手中にできる。陰でひたむきな努力こそが、自分を変える地道な方法と信じていた。思い出せば、40~50年前の自分は、自分でもうんざりするほど嫌な人間で、ひたすらそれを隠していた。
自分を嫌な奴だと徹底的に嫌悪するところから自己変革は始まると考えたが、実践は苦しく、このやり方は精神力の問題も大きく左右するので、誰ばれできるものではないが、自分には、「やれる」という自信があった。嫌な自分と決別するのは、厭わぬ苦労という風にも考えた。本来、自己向上を目指す人間は、欠点をあげつらい責め続けるのはすべきでない。
自己変革の辛さに耐えきれず挫折をするだろう。こんにちの心理学において、自己向上を目指すには、「自己受容」が優先される。つまり、自分のダメな部分、良い部分を含めたありのままの自分を認め、許し、いたわる、そうした自己受容が自分の基礎を固めるといわれている。自己変革を求める際には、途中で頓挫しないカリキュラムが主流である。
自分はそうではなく、強いカンフル剤を求めた。挫折しなかったのは、意志と粘りがあったからだろう。掲げることは簡単が、実行するにはその二つが重要であり、自信もあった。いきなり理想の人間などを掲げても到底無理だから、鼻持ちならぬところや、意地悪いところ、自慢や欲といった、最も戒めたいところから始めた。何事も頑張ればある程度にはなる。
自己受容という言葉は知ってはいたが、「自分が怠けること」と混同していたのかも知れない。自己否定者の多くは、幼少時から親に褒められ、承認されるなどが少ない人であり、年代にもよるが、どちらかといえば、厳しくすることが当然のよう生きてきた人が多い。自己受容とは、あれもこれもそれもどれもといった欲望とは違って、本当に必要なものを見極める。
「わたしって本当に嫌な人間だよ。自分なんか大嫌い」。など平然という女性がいる。言われてビックリである。よくもそんなことを他人にいえるものかで、そうした心理背景には、そう言いながら自分を肯定している、自己卑下しながら、内心はこれでいいとと思っているのだろう。「自分は嫌な人間だ」などそうした自身の恥部は、心苦しう。だから陰で頑張るしかない。
自分の表層だけを他人から、「いい人」と捉えられ、捉えられるような作為を排し、根本から嫌な自分と決別するのは勇気もいるし大変なことである。そのプロセス段階で、人に、「自分は〇〇だ」など、いえるものではない。アスリートは、人の見えないところや陰でひたむきな練習をするという。コーチやチームメートの目に触れないところでやるものだという。
真意はよく分かる。真摯な努力は他人への自己アピールではない。努力は人のためではなく自分のためにする。ところが、アピール度の強い人間は、自分より他人を意識する。したがって、真摯な努力よりも、「ポーズ」や、「思わせぶり」が多くなる。いうまでもない、こういう人は伸びない。自分を支えるのは陰の自分であって、陰の自分とは黒子でしかない。