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人のあしらい方

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ブログをやる人の多くは、自分の意見に難癖やいちゃもんをつけられるなどの困った相手に遭遇するという。それがストレスとなり、閉鎖に至ることもあるというが、それはそうだろう。ストレスの発生など誰も望まないが、意地悪い人間は、他人にストレスを与えていい気分に浸る。人の不幸を蜜の味とばかりに拠り所にする人は、よほど生活が荒んでいるのだろう。

ネットの厄介者、「あらし」は遭遇しないに限るが、こればかりは自分で選べない。制限時速を守りながら、安全運転で公道を走っていても、センターラインを越えてこちらにぶつかってくる相手もいるように。好感持てる相手もいれば、嫌な相手もいるのが世の中なら、嫌な相手にはどのように対処するかも大事となる。それを、「あしらい方も」といってもいいだろう。

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善良なるコミュニケーションを目的とする人、そういう意図が感じられない人、さらにはそんなことはまったくない人、それらをどのように判断し、どう対処するかもそれも人の能力であるなら、そうした能力は人間付き合いという経験から身につける以外にない。嫌な相手とどのように対処するかは難しいと聞くが、ある種のコツを知っておけば、所詮は人間と人間である。

このブログにも過去いろいろな人間が訪れたが、ブログでの人のあしらい方も、リアルにおけるあしらい方も基本は変わらない。どちらにせよ人の「あしらい方」は能力と考えれば、テクニックもある。最近社会問題となった「クレーマー」においても、その対処法は確立されている。クレームとはサービスに対する苦情や改善要求、契約或いは法上の権利請求を指す。

商品やサービスなどにクレームをつける消費者を普通、「クレーマー」と呼ぶが、社会における一般的な、「クレーマー」とは、苦情や文句が特に度が過ぎた消費者をいう場合が多い。2000年代後半頃に徐々に注目を浴びるようになったが、その背景には、インターネットや携帯電話の発達により、「モノを言う消費者」の場と手段が広がったことが指摘されている。

言葉を荒げるなどの強い態度で、権利を主張するクレーマーへの防衛策を企業は対策室を作るなどで強いられた。また、攻撃性はないが、私的利益を求めて何度もクレームを出すクレーマーもいて、こちらは比較的少額のクレームが多いが、存在しない問題も作り出すなど、こうした常習的悪質クレーマーにも手を焼く。暴力団がらみのクレーマーは昔からあった。

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さらには、主観的な価値観、思い込みによって自分が有能であると思い込む心理的クレーマーは損得勘定ではないため、賠償や交換対応などに興味はないが、性格的な問題が災いしてか、本人が間違っていたと判明しても反省することがない。心理的に複雑なクレーマーは、精神的に問題がある場合、自傷、自殺などをほのめかしたりする場合もあるという。

クレーマーの対処をはじめとするクレーム処理係は、「謝れ」、「責任者を出せ」、「今すぐ回答しろ」、「誠意を見せろ」、「納得できない」と、これらクレーム5大表現への対処を強いられる。自社にまったく非のない、モンスタークレーマーには、「ゼロ回答」と定められている。「申し訳ございません」などと安易な謝罪は、非を認めたことになり、相手に付け入る隙を与える。

「責任者(上)を出せ」、「今すぐ回答しろ」と言われても決して慌てず、「お待ちください」と、上層に電話で取り次がないことだ大事。それをやってしまうと、相手の要求の1つに屈したことになり、それがまた相手を増長させる事になる。また、「誠意を見せろ」などというクレーマーは、「誠意=物(金)」であるから、それには従わず、「当社の最大の誠意とは謝罪」と伝える。

このように、クレーマーというのは、道理の通らぬもの、道理の通じるもの、いずれにしてもこちらの姿勢を変えるべきではない。道理が通る、通らないは相手の問題であって、そこに屈する必要はない。しつこいクレーマーはいるが、最終的にはクレーマー自身の苦情(言い分)は通らないと思わせることで、そうした一貫した姿勢や態度が、クレーマーの心情を軟化させる。

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一貫とは、一つの筋立てであり、他の道を提示する気はないと相手に思わせるためにも崩してはならない。一寸の隙も見せるだけで、相手は強く言ったり、粘れば何とかなるという期待を持つからだ。昔は「ごろつき」、昨今はクレーマーが社会の厄介者だが、ネット時代に入ると、「あらし」という、「ごろつき」が厄介者。が、こちらの対処はリアルに比べて屁でもない。

「あらし」というネットの厄介者は、自身の素性が分からないのをいいことに、ヘタレが強がっている場合が多い。最初は爪を隠し、相手の応対によって牙を剥くこともある。どちらにしても生活や欲求の不満の腹いせで憂さを晴らす、病んだ人間、恐るに足りぬ人間である。「某ブログ炎上」なるネット用語は、あらしのけたたましい書き込みによって機能しなくなること。

ネットという頭から袋をがぶった状態の、秘匿性をいいことに暴徒化し、集団というパワーを得る。人間一人の、「あらし」の「力」など、所詮は知れたものだ。集団暴徒という罪悪感など欠片もなく、動物的な気分で、「死ね」だの、「消えろ」だのと吐く輩である。思春期相手なら「死ね」と言われて実践する子どももいるが、だからと言って「死ね」といった責任を取ることはない。

まあ、取れないといった方がいいが、心の中にも形跡がないほどに、人は人について無慈悲の昨今である。人は進化していくものだが、これを人間の進化というのは恐ろしい時代である。人が人に興味を抱かなくなった時代であるのは、若者をみて感じるが、インターネットが出現して25年になるが、人は頭から袋を被ることで、理性を失うと、いみじくも証明された。

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アクセス数の極度に多い芸能人ブログに比べ、一般人の私的ブログが、「炎上」の憂き目にあうこともないが、それでも「あらし」に迷惑したというのは聞く。自分は「あらし」の経験はないが、積極的に引き取り願った何人かはいる。権威的な物言いをする宗教家や学者には、「出ていけコノヤロー」の心情は顕著に表れる。権威者に強い反発心を抱く性向であるが故だ。

記憶に強く残るのが、キリスト教の牧師と名乗る油食林間氏。2009年だから8年も前になるが、それにしてもいきなり、「キリスト教の幸福実現法則を知らないとこんな議論になりますよ!! 爆!! 」と、他人のブログに土足で入って来、勝手に爆裂するのには、開いた口が塞がらなかった。何を言うのも自由だが、聞かぬ自由、無視する自由も、追い出す自由もある。


それで事なきを得たから、「あらし」ということではない。ま~、「あらし」であろうとなかろうと、何らかの意図を感じる相手は、早急に追い出す手配をする。クレーマーというのは、何がしかの意図があるからクレームをいうのだろうが、「不味いレストランに出くわせば、文句をいわず料理を残して去り、二度とそこに行かなければ良い」とカーライルは言った。

文句を言ったところで、今後は美味しくなるわけでもなく、文句をいう自身の品の無さを戒めた言葉である。「気にいらない客は来なくていい。帰ってくれと俺は言うよ」と、剛毅な職人気質の料理人がいる。そんなのは商売としてはなっていない、思い上がりもいいとこ、サイテーな料理人だ、と感じる客がいたとする。いたとして、それを料理人に言ってどうなる?

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「そんな奢った考えで商売はダメでしょう?」など、お節介も甚だしい。店が、主人が気に入らなければ二度と行かなければいいこと。店主に文句や説教は自身の怒りと奢りである。知らないで入ったが事情が分かった。ならば二度と行かねばいいのであって、その店がはやろうが、行きづまろうが余計なお世話だ。客の文句は、「イタチの最後っ屁」に過ぎない。

「来る人はどうぞ」、「来たくない人はご自由に…」と、これは商売のノウハウというより、道理として正しい。客に媚びない店主は自由に生きている。それで客が来なくとも自己責任という自由を描いている。近代経営には逆行しているかもしれぬが、媚びない男気に共感する。不味い店、気に入らぬ店主の店には行くなである。カーライルもいい、職人も言っている。

寄って集ってブログを炎上させるような、集団はまさにネットイナゴである。文句をいうより、行かなきゃいいだろう。やってることは、モンスタークレーマーと何ら変わらない。『戦争と人間』の五味川純平はこのように言った。「信じるなよ、男でも、女でも、思想でも。本当によく分かるまで。(中略)威勢のいいことをいう奴がいたら、そいつが何をするかよく見るんだ。

どんな真理や理想も手がける奴が糞みたいな奴なら、真理も理想も糞になる」。幸いにして、ネットイナゴたちの素性は分からない。彼らがどんな正義感をもち、どんな風に社会を生き、どんな仕事で世に貢献しているかなど、五味川のいうように確認できない。「頭から袋を被り、素性も何も分からないから、イナゴになってブログを焼き尽くす」と、自分は考える。

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