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奴隷の「生」も生か?

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男に奴隷として骨抜きにされた女が悲哀と思うのは、彼女の不満や苦しみを聞き、同情し、寄り添う他人である。奴隷女に君臨し、カッコつけてる男など、子どもが親に、あるいは親が子に寄せる依存心という支配に気づいてないおこちゃまである。どう見ても自分だけが得意になっているさまは普通でないと思うが、そういう人間は常にそういう対象を求めている。

いわゆる、「いじめ」と同じ、弱い者いじめの典型で、弱い者いじめというのは、弱い人間が目ざとく自分より弱い者を見つけることから始まるという。「弱い者いじめって弱肉強食、自然界の淘汰原理だろ?」といったバカがいた。その程度の思考で、その程度の結論を出すバカに広い視野があるハズもない。弱肉強食は自然界の摂理だが、弱い者いじめのどこがだ?

弱肉強食には、「食物連鎖」との理由もあり、それが自然界に正常な機能を果たすが、「弱い者いじめ」は、何ら生産性もなく、不条理以外になにもない。封建制度と言われる歴史の中、力や武器を持った者が弱者を虐げるというのはあった。理不尽ではあるが、制度として寛容された。力が支配する時代には無理も通るが、それでも踏みつけられたものは動く。

「一揆」を起して強者に抵抗した。世界史において西洋社会は、さまざまな「革命」が歴史を彩った。フランス革命、ロシア革命、文化大革命は有名だが、英国にも名誉革命、無血革命という国政大改革があった。フランス革命のような派手な流血は無いが、それによって英国は、「議会民主制」という民主主義を手に入れた。ロシア革命もどれだけ血を流したか?

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それでも70年後には失敗に終わっている。スターリニズムとして国内でもスターリン批判は多いが、2009年のメドベージェフ大統領の声明は、愛国主義団体に反発を招くことになる。スターリンは900万人ともいわれるクラーク(富農層)を銃殺し、シベリア流刑で完全に撲滅しようとした。強制集団農場化に従わないムジーク(一般農民)に、容赦ない弾圧を加えた。

これに反発するムジークの暴動は激化し、斧や熊手、猟銃、旧式のライフル銃を手に地方の政府施設を襲撃、放火や焼き討ちなどで抵抗したが、スターリンは村ごと焼き払うなどで粛清する。1929年の1年だけで、一般農民の銃殺、シベリア流刑は、1000万人に上った。大粛清の嵐は、党や軍などあらゆる分野に波及、軍では8割の将校が銃殺されたと言われている。

最後は粛清を執行した秘密警察官たちにも及んだ。スターリン政権下30年間で、ロシア本土で4000万人を下らない人間が連行され、有罪判決を受けた。ソ連全土となるとその数は膨大であろう。国家的英雄として天安門広場に肖像画が掲げられる毛沢東も、4000万人以上の殺戮を行っている。ロシアも広いが中国も広く、その広さは日本人には実感できない。

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崩壊前のソヴィエト連邦の総面積は、22,400,000 km²で、日本の総面積378,000 km²の約60倍だが、それでも理解は難しい。変な例えだが、一般的な3LDKマンション(約70 ㎡)の60個分(4200 ㎡)に居住したと思えばいい。これで分かるか?自分でも実感がない。他方中華人民共和国の総面積は9,597,000 km²で、こちらは70 ㎡マンションの25個分の広さだが、同じく実感はない。

玄関からLDKまで徒歩数分なら、自転車かバイクが必要だ。国土が広ければ人口も多い、人口多ければまとめるのも大変で、粛正数も半端ない。1930年の日本の総人口は、約6450万人だから、4000万人も殺したら、昼間でも人が外を歩いていない状況か。日本で不思議に思うのは、小規模の一揆や乱は起こっているが、革命はなぜ起こらなかったかということだが…

その前に革命の定義とは何であるかだが、法学解釈などを除いて簡単に、政権の転換を目指すとするなら、成否はともかく日本でも起こっている。ただし、全国統一がなされていなかった時代が長かった日本では、民族対立・宗教対立といった食うや食われるやの戦いなどでなく、規模的にも局地的でこじんまりした、「乱」程度のものが多かった。

天下統一がなされた幕藩体制以降の政治体制にあって、個々の藩ならびに藩の中枢や、お家継承やトップを巡る権力闘争が、小規模・短期・地域限定)としてあった。戦国時代の下剋上や、大化の改新、大政奉還による明治維新などは、長期に渡る革命と言えるものではないか。ただ、「革命」という言葉自体が明治に入ってきたので、以前では使われなかった。

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「愛=amorelove」という言葉も、日本に渡来した切支丹の伴天連が持ってきたもので、彼らは日本人に外国語を教えたりする必要があったこともあってか、そのために辞書も作ったし、対訳本も出版した。その時、「愛」という字の飜訳に困却したといわれていり。そこで苦心の末に編みだされたのが、「御大切」という単語で、これを、「愛」の訳とした。

「御大切」とはいうまでもない、「大切に思う」の意であるから、「I love you」を、「余は汝を愛す」という代わりに、「余は汝を大切に思ふ」と訳した。さらには神の愛を、「デウス様の御大切」とし、基督 (キリスト)の愛を、「基督の御大切」といった。明治になって、「education」をどう訳すかについての論争もなされた。

西洋や諸外国の恐怖政治時代や、封建時代という、「負」の歴史を超えて、人類は聡明で文化的な時代を築きあげてきた。未だ渦中に過ぎないが、こんにちほど人権が叫ばれ、平等が説かれる時代はかつてなかった、タテマエといわれながらも、弱者・強者の差はないとされ、家長絶対時代の終焉で、「勘当」という卑劣な行為も消滅した。夫婦も親子も対等な時代である。

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にも関わらず、子どもを支配的に手名づけようとする親はいる。前途の彼女は犠牲者であった。子を手名づけることは、親にとって便利でこの上ないが、すべては親の都合で、子どもが実社会で主体的に生きることには、明らかにマイナスとなる。その事に無知な親が、自身の都合で子育てをする。我がままに甘やかせ、子どもの言いなりになる盲従型の親も問題だ。

子育ての難しさはその辺りのバランスである。が、親の価値を基準にし、「仕込む」子育てを実践すれば、偏るのは自明の理。それでも、東大入学を最終目標に置くなら、表面上は成功となる。ある物を得ることで、ある物は失われる。が、親の絶対的価値基準で支配される子どもは、人間の脆弱を示している。学歴だけが人間評価にあらずという価値観もある。

日本人は個の尊重(子の尊重)より、親の見栄と付和雷同主義型の子育てが蔓延する右向け右の国民性である。いい例がダイアナ妃。階級社会の英国にあって、彼女は伯爵家のお嬢様として生を受けたが、勉強嫌いの彼女に勉強を強制するような見栄は親になく、本人重視を優先した。これが日本なら幼少時期から親がふんずる反って「お嬢様教育」をするだろう。

お嬢様でもないそこらの月給取りさえ、「お受験」に躍起になる愚民である。ステータスがないから、子をブランド漬けでステータスにしたい日本人と、ステータスにありながら、親の地位・名誉・見栄を子どもに要求しない外国人の質差に考えさせられる。良いものは良い、悪いものは悪いを自分の欲望や利害を排して考えられるようになれば、人間は普通に生きられる。

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子どもの生き方は子どもに選ばせるというのは、神からの贈り物であるという宗教観に根差したものであり、子どもを親の意のままに支配したという日本教を信奉する国民には、永遠に授からないものか。子どもの生き方は子どもに選ばせるというのは、ただの一度きりの子育てにおいて、リスク感を抱くのでは?やらないよりはやった方が良いとの考えに固執する。

支配型の親を持ち、奴隷同然に育った彼女は、自己受容ができない劣等感のかたまり人間であったろう。だから、他人の機嫌に敏感になり、それが内面支配となる。そうなった責任は彼女にないが、自分は変わりたい、今の自分を捨てたい、向上したい気持ちがあるなら、己の欠点をあげつらい、己を責め続けない方がいい。そういう人こそ、「自己受容」が必要かと…。


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