時々思うのは、「何で生きてるんだろう?」。これにはちゃんと分かる理由がある。「死なないから生きている」のであって、言い替えると、「生きる理由は死なないから」というところに落ち着く。ただ、それは現象的にであり、生きている理由は考えるといろいろあるかも知れない。が、生きる理由は、「死なないから生きている」という現象以外にはあまり考えない。
考えたあげくに何がしか発見があり、それがまた生きる理由を増進・加速することになるのか?「生きる理由を見つけました」という文や記事もみるが、人の理由だからそれはそれだ。あらたまって、「生きる理由は何?」と聞かれたら…。「いつか死ぬときのために生きている」と答えるだろう。こんにち、今の自分の答えで、数か月、一年後には変わっているかもしれない。
哲学者の、「生きる」について感銘やユニークな考えや、「なるほど…」の言葉がいろいろある。ラ・ロシュフコーは哲学者ではないが、こう言った。「命を長続きさせようとするのは勝利ではない」。この意味はいろいろに受けとれる。が、命を延ばすというのは医者にとっては勝利だろう。「命の擁護者」たる医者は病気になった時であって、普段における擁護者は自分である。
擁護とは、侵害や危害からかばい、守ること。道路脇のガードレールや、歩道そのものや、信号機などもそういう種のものだ。自分を病気やケガの傷から守ろうとする力も、「生命力」である。ラ・ロシュフコーは哲学者というよりモラリストで、上記の言葉は正確にいうと、「情熱を長続きさせようとしても、命を長続きさせようとするのと同じに、われわれの勝利とならない」。
「生きることは耐えること」。哀しみに耐えるは、怒りに耐えるより至難か。自己嫌悪の怒りから自死する人間もいる。失恋に耐えきれず、自死を選ぶものもいる。愛されていると信じたものが、騙されていると気づいたとき、あるいは、自分が本当に愛していると確信していたものが、何らかの事態に直面して、それが自分の偽りであったと気づいたとき、人は強烈なる自己嫌悪に陥る。
つまり、相手の心が見えた時も、自分の心が見えた時も、憤りは同じこと。その人さえ気づいていない人の偽り、さらには、自分が今まで気づかなかった自身の偽りを見てしまったとき、人は沈黙をする。沈黙の理由は、ショックということだろう。人間が黙すのは、何も言うべき言葉を持たないときだけではない。激しい感情を失った時においても、人は押し黙る。
言うべきことが多過ぎる、また、あまりに激しい感情を抱いたときにさえ人は黙る。楽しいときは饒舌でも、不幸なときに人は黙る。自身の描く美味な世界観が周囲の何かの事情で圧迫され、壊れるとき、人は不幸の渦中に陥る。そのとき、周囲に対する憎悪が人を無口にさせる。人はあまりの驚きに遭遇したとき、口を閉じるというより開いてしまうものだ。
閉じるのが意識なら、開くのは無意識だろう。親が子どもの躾けで、「バカみたいに口を開けてないで、キリっと閉じてなさい」などというが、実際問題、人は無防備に驚いた場合、「開いた口が塞がらない」状態になる。人が驚く画像で口が閉じているのは見たことがない。人間は難解である。自分の心さえコントロールできないし、ましてや他人の心を推し量るのは難しい。
人の不幸にはお悔やみを、幸にはお祝いを言うが、どれほど人の不幸を哀しみ、どれだけ人の幸をうれしく思えるか。容赦のない悪を行為する人間であってはならぬが、あまりに、「善人」になり過ぎ、あまりに判で押したかのような常識人的な、「いいひと」であり過ぎては、人は遂には何者でもなくなる。適宜に悪を、適宜に善を行うのが、人間としてのバランスではないか。
「悪」の奨励というより、「悪」は必然。「どういう人間になりたい」という人間の要求の多くは、「相手が望む人間」だが、その場合人間は、「商品」となっている。人に好まれてこそ、「商品」であり、人に嫌われる商品などは商品としての価値はない。だから人の望みに適った商品でなければならない。人間が商品になる、商品としての人間がいいとは思わぬが、類する職業はある。
職業の善悪はともかく、商品価値を高めているようで、実は価値を貶めている。人の行動に芝居が多いのは、人から称賛を得たいからで、こうした屈折心理を改めなければどんどん商品化する。我が侭な人間ほど優しく振る舞うが、裏に潜む嫌な部分を自らが嫌悪しているからで、我が侭は抑制できても、それが抑制なら消えることではない。商品に堕ちるか、我がままで生きるか…
理想は偏らぬこと。抑制された欲望は大きな圧となる。凶悪事件を起こした人が、周囲からは一様に従順であったり、「真面目でいい人」であるのは、それら普段の抑圧の爆発である。抑圧は溜め込まず、爆発しない程度にすべきだが、いい人を演じることで自己矛盾をきたす。過去を思い出せば、危険な奴というのは、「性的」な会話において無関心を装っていた。
レイプで逮捕された友人だが、彼が婦女子暴行など想像できなかったが、友人だから分かることもある。抑圧とは、したいことができないという自信の無さに起因する。受験を前に恋愛できない抑圧が、予備校生刺殺事件となった。恋愛は学校の教育項目、家庭の躾項目でない。ならば自由に開放し、「生きる楽しさ」を阻害する親や教師になっていいものか?
学問も恋愛も実は難しい。同じ難しさであれ、学問は一人取り組むが、対象が存在する恋愛の難しさ、あるいは奥義は経験で学ぶしかない。男と女は磁石のように引き合うがゆえ、出会いそのものは難しくないが、続けることが難しい。成就となると至難である。恋愛はいつでもできるが、勉強は「今」、という考えに自分は否定的だった。ある女性を回想する。
権威的で傲慢な親を持った女性である。自分もそういう親だったが、自分と違って彼女は親に従順であった。「逆らう」などは、彼女自身にも、家庭内にもなかった。親は、「こんないい子はいない」くらいの自負はあったろう。そんな彼女は、威張り腐った男の奴隷になった。彼氏というより、奴隷の支配者で、彼女はまるで、『ルーツ』のクンタキンテのような奴隷となった。
話を聞くと狂喜乱舞の世界だったが、親に盲従する習慣が沁みついていた彼女に違和感はなかったようだ。しばらくして彼女は、「彼氏と別れたい」と、自分に漏らす。彼女に知恵を授けたが、反抗すると、ぶたれる、叩かれる、蹴られる。「俺の彼女になれ。それがいい、後は俺が守る」といったが、「別れられない」、「仕返しが怖い」の恐怖感は切実だった。
男とは電話で話したが埒があかず、会う画策を試みたが彼女の反対で叶わなかった。彼女はそれ以後、自分を避けたが、理由は想像できた。人が人にできることの限界はある。いらぬ節介は彼女をさらに不幸に貶めるだけだった。以後も傲慢男に抵抗できない奴隷女を幾人か見たが、所詮は自己責任かと自らを諭し、関わらないを決めた。優しなど、望まぬ人にとって無価値である。
主体性が持てない、自分の思うように生きられない。他人が介在し、支配と主従ならなおさらそれを阻む。幼児期~児童期~青春期をこのように過ごし、それが当たり前として自身に内面化してしまった人間につける、いかなる薬があろう。同じような例は、妻に虐げられて反抗一つできない夫にみる。それでも恋人、それでも夫婦なら、他人は傍観者を決め込むことだ。