舎利殿というのを知ったのは高校の日本史だった。円覚寺舎利殿が有名らしく、禅宗様としての日本の伝統的な寺院建築様式である。簡単にいえば、仏舎利を安置した建物を舎利殿といい、仏舎利を正しく難しくいうと、入滅した釈迦が荼毘に付された際の遺骨及び棺、荼毘祭壇の灰燼を指す。つまり、「舎利」とは、遺骨または遺体を意味する梵語である。
歴史の教科書にはここまで詳しくは書かれていない。それくらいに日本史には覚えることが膨大にある。したがって、円覚寺と舎利殿を傍線でつなぐと正解というテスト問題がいいところだ。その程度の知識であれ、知らないよりは知っていた方がよいということだが、こんなことを小学生あたりから、記憶させられる塾での勉強というのが、自分には無意味で気持ち悪い。
知らないでいいことを必死で暗記させるのが難関中学受験であって、そういう子は単に頭がいいというより、物を覚えることを強要された憐れな子どもに思えてしまう。受験のための知識を機械的に覚えさせられる今の早期受験教育は、どう考えても子どもを歪な人間にしてしまうが、難関中学というのは、そんなことはお構いなく、点数の上位者を入学させている。
知識というのは、ある事とある事に関連した論理的な記憶と、ににんが4、にさんが6という機械的な記憶法もあるが、何でもカンでも機械的に人より沢山覚えておけば「賢い」など、人間の資質とは言えないだろう。一芸に秀でた個性ある子どもや若者を時代は奨励しないが、偏差値によって人間を切り捨てられた、「人間」を求めることはむしろ時代の要請であろう。
「なぜこんな受験社会になったのだろう?」、「共通一次世代」といわれる問題世代について、問い正すことは山ほどある。大学入試における無意味な奇問・難問はこの際、「止めよう」ということで行われた共通一次は、上記のような受験で歪んだ高校教育を是正するという発想は、決して間違ってはいなかったし、それなりの成果をあげたといっても言い過ぎではない。
ただ、もう一つの狙いである、「入試の多様化」がなおざりにされた。つまり、高校で学んだ基礎学力の評価は共通一次に任せ、各大学は二次試験で「学風」、「学科」に応じた、独自の、あるいはさまざまな尺度による試験を行うという、後に盛んに言われだした考えが当初の構想にあった。ところが大学は共通一次に甘んじ、二次試験を工夫をほとんど行わなかった。
ハタと気づいたときは、「共通一次世代」、「偏差値世代」という言葉がすっかり定着したいたのだ。日本人が、「画一的」好きの民族であるのは単一民族的国民性である。マークシート方式による、思考力の欠けた暗記型人間とひとくくりにしていいとは思わないが、そうした、「世代論」的傾向を目指したとは言わないまでも、結果的に求めることの、「負の遺産」である。
若者はいつの時代にあっても、「安保世代」、「全共闘世代」、あるいは、「団塊世代」、「しらけ世代」、「バブル世代」、「新人類世代」、「ゆとり世代」などという呼び名で、一世代的にくくられてきた歴史がある。なかでも、79年に始まった、「共通1次試験」という一律のハードルを飛び越えた新人類は、マンガやアニメ、テクノポップを嗜好した世代であった。
インベーダーゲームが大流行し、元祖サブカル世代とされ、一風変わった若者たちという趣旨で語られた、「新人類」を部下に持つ旧人類は大いに困惑し、悩まされた。彼らが世に出たころは、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と言われ、日本企業の国際的な地位が高まり、ビジネス環境が成熟してきた時代であっただけに、使う側にとっては苦悩と種となる。
団塊が市場開拓を担った世代とすれば、新人類は量的拡大を求められた世代であり、彼らは特質的に、スマートに、段取りよくPDCA(計画、実行、評価、改善)を回せることが優秀とされた。このため、団塊世代に比べると調整型でややこぢんまり感がある。拡大一辺倒の60年代のアンチテーゼとして、「猛烈からビューティフルへ」というコピーも話題になった。
円覚寺舎利殿が話を伸ばしたが、今回は仏舎利でなく、「断捨離」について書いく。「断捨離」を初めて耳にした時に、「仏舎利」を想像した自分だが、「断捨離」なる言葉は誰の造語かを調べると、やましたひでこ(山下英子)が商標を取っている。ヨーガの業法である、「断行」・捨行・離行を応用し、彼女は、「クラタ―コンサルト」の商標も取っている。
断…入ってくるいらない物を断つ。
捨…家にずっとあるいらない物を捨てる。
離…物への執着から離れる。
捨…家にずっとあるいらない物を捨てる。
離…物への執着から離れる。
やました氏が商標登録した、「クラターコンサルタント」とは、「暮らす」と、「ガラクタ」を組み合わせた造語で、英語の、"Clutter"(クラッター)は、片付けられてない、オーガナイズされてない、散らかった、がらくた、等の意味であり、そのことから、「クラッターコンサルタント」は、「散らかし (がらくた) のコンサルタント」という英語の単純直訳ということのようだ。
受容の多少にかかわらず、世にさまざまなコンサルタントは存在するが、開店休業的に消えてなくなったコンサルタントも少なくない。何について開業しようが個人の自由、好きにおやんなせ~。「入らない物を絶つ」、「家にずっとあるいらない物を捨てる」、「物への執着から離れる」という、主体性、自制心があれば可能なことになぜコンサルが必要?
というのは男の考えで、女性は自分のことをあれやこれやと他人に委ね、相談したがる人種である。タダならいいが、金は取るんだろう?商売なんだから…。東京・新宿、伊勢丹デパートの路地に、「新宿の母」なる占い婆さんに行列ができているのを初めてみたとき、「女がバカに見えた」ものだ。当時の10分5000円といえば、こんにちの弁護士の相談料金である。
「バカと思った」は、直接本人に向けて言うわけではないから、思うも勝手だが、何事も自ら切り拓くというより、「赤い糸」的な、運命論者的思考をする女性は多かった。男に分からない、それが女なら無視しておけばいい。女に分からない男の行動・素性もあろうことだ。「断捨離」の基本である入らない物を捨てることはいい。でなくばゴミ屋敷となる。
「物への執着から離れる」これもいいことだ。死してなお執着し、幽霊になっても呪うというのは決まって女である。子ども時代、言いようのないほど母親に執着された自分からして、親は大いに子から離れてもらいたいし、自分の分身が如き子に付きまとわれるほど迷惑なことはない。それらをコンサルト料を払わなければできないのか、と、それは思う。
別の見方をすればケチな女だから、「コンサルト料を払ったのだから、実行しなきゃ!」であるなら結果的にはプラスと言える。「地獄の沙汰も金次第」といい、とかくこの世はゼニが幅を利かすものだ。喫茶店で450円のコーヒーをバカげてると思う自分は先ず行かない。歩けば得した感しかない自分は、何千円も出してタクシーなど乗ることは絶対にない。
貧乏性というより、思考が合理に満ちている。家の外壁のペンキ塗り、壁紙交換、さらには家まで建てるアメリカ人の「DIY (Do It Yourself )」の理念に近く、自分で出来るのもは人に頼らないという考えを信奉する。何でもカンでも外注ろいう金銭主義の考え方も近年は見直されている。DIYの基本は、作る喜び、作る楽しみだから、「面倒」という考えはない。
「忙しい」、「面倒」、「疲れた」を死んでも言わない三禁句にしている自分は、「忙しい…無能」、「面倒…横着」、「疲れた…弱音」と、徹底見下している。自分を見下してどうするのか?と前向きに生きたいものだ。自己を癒すといえば聞こえはいいが、自分には甘えとしか映らない。ただ、人はいろいろだ。したい人はご勝手にと他人批判まではしない。
「断捨離」には評価の部分もあるが、それに感化されたか、「小銭預金を止めた」との言い分が面白い。「面倒だし、そんなにお金貯まらない」との理由だから、そんな人はむしろしない方がいい。小銭預金は蓄財ではなく、コインを溜める面白さである。貯めるではなく、溜めるだから、どこまで溜まるのかの楽しさを感じないなら、批判をするよりすべきでない。
小銭預金を止めたことの満足感が、「これにより、小銭貯金用だったビン&小銭入れを断捨離ィ!」の自賛に笑ってしまった。人には人なりの、「断捨離」があるのだろう。部屋の空間を広げたい自分は、どんどん物を捨てるが、一番の理想はモデルハウスの物の少なさである。ゴチャゴチャしたキッチンさえも嫌だから、可視界には布巾さえもないのがいい。
部屋を綺麗にの基本は、物の無さ、少なさと理解する。ダイニングテーブルを物置代わりにするのは、美的というより便利という事しか頭にないのだろう。便利は美を損なうという考えに至らないと、ダイニングテーブルはゴミの山と化す。何もない広いダイニングテーブルは気持ちを落ち着かせる。少し前に公民館で出会った同輩が、家で指そうと誘われた。
家に行くと玄関は靴だらけ、他人の靴を跳ねのけるわけに行かず、上がるのに距離があった。さて、ダイニングに座ったがゴミの山で、それを寄せてそこに板の将棋盤を置いたわけだが、長居はできず、以後は行かないことにする。一人暮らしだから散らかると本人はいうが、一人暮らしなら物は少なくて済むはず、と考える自分の価値がぶつかる。物はいいようだ。
行きたくないところには行かなければいいだけで、人の暮らしを批判することはしない。なぜなら、豚小屋好きの人間に整理整頓の考えはないからだ。綺麗好きな人が他人を批判するのはいいが、批判は自分の向上のためだけでいい。人格批判までして自己を高めるなどは無用である。批判は何のためにすべきものか、批判の意味と無意味さは知るべきこと。
哲学者ベーコンは、「反論したり批判するために読書をするな。さりとて信じたり、そのまま受け入れたりするために読書するな。ただ、思い、考えるために読書せよ」といった。知識も同様、他者を批判するために持つものではなかろう。人間の差別観というのはくだらない次元にまで行きやすい。自己向上のための批判はいいが、自己を堕とす他者批判に注意を。