かつて、「現代人は1日30品目取りましょう」が声高に言われていた。1985年に厚生労働省によって作成され、「健康づくりのための食生活指針」で提唱された栄養目標だったが、まったく耳にしなくなった。理由は栄養バランスを取ることを目指したものではなかった。偏った食生活を続けると、食品に発ガン物質などが含まれていた場合、どんどん蓄積される。
ところが、食品の種類が多ければ、それだけリスクを分散できることになる。だから、なるべく数多くの食品を食べるべきと考えたという。それが「1日30品目」という目安となったが、現在は厚労相のH.Pにも削除されている。となると、本当に体にいいのはやはり、「一汁一菜」か?料理研究家土井善晴氏にして、「一汁一菜」は食事の思想であり、美学であるという。
30品目の「30」という数字に具体的な根拠はなく、あくまでバランスを奨励したもの
土井氏の思想を信じるもよし、信じぬもよしというしかないが、間違いなく言えることは、「1日30品目」の奨励は、根拠のない事実であったこと。食は文化、食は生きる糧、ならば栄養面だけでなく、食べる楽しみも大きい。なにごとにも肩肘張らず、己を追い込むことなく、適量をいただくのがよいようだ。適宜に運動も欠かさない、これが血流を全身に促してくれる。
食事も運動などの日常生活は行動にあらず、活動であると三島由紀夫は言った。なにも行動ばかりしなきゃならんこともない。行動が何かを知り、必要に際して人は行動すればいい。三島は行動がたたって短命であった。長生きが全てとはいわぬが、わざに悪い血液を全身に流すこともない。いささか面倒だが、運動は脳に綺麗な酸素を供給し、頭をクリアにしてくれる。
「一汁一菜」は、シンプルライフの最終形態であるという。「シンプルライフ」という言葉は随分前に耳にした。アパレルメーカー、「レナウン」が1975年にデパート向けブランドとして売り出し、かれこれ40年が経つ。“be simple life”というメーカーのキャッチフレーズに、販路は全国各地の百貨店、メンズ・ウィメンズ合わせて相当な数の取り扱いがある。
大橋純子の、「シンプル・ラブ」という楽曲は1977年で、松本隆の詞になる。「シンプルイズビューティフル」という言葉も言われ、思想的な概念として中学生の道徳副読本に、「望ましい生活習慣」として盛り込まれている。「シンプルさを追求した暮らし」はひとつの生活スタイルとして確立されつつあり、物の捨て方というのもシンプルライフの考え方となる。
土井善晴氏の父は、家庭料理の第一人者として人気のあった土井勝氏
「超整理法」という本がバカ売れした。クローゼットやキッチンの整理法など、シンプルライフのハウトゥー本は山ほどあるが、「食」については盲点だったかもしれない。料理研究家土井善晴氏の、『一汁一菜でよいという提案』なる著書は定義どおり、「ご飯・味噌汁・漬物」を基本とした質素な食事をいう。彼はヨーロッパでフランス料理を学んだ料理人である。
フランス料理の華美な世界観を知る土井氏がなぜに、「一汁一菜」を勧めるのか?詳しくは著書を読むのがいい。自分も読んではないので…。土井氏は、「一汁一菜をストイックな食事法として勧めているわけではない」とし、毎食お決まりの一汁一菜である必要はないというが、健康にいいというだけでストイックであるのは、人生を楽しむ点において続かない。
健康にいいからとジョギングやウォーキングをしても続かないように、脳の活性化のためにブログや文章を書くのがいいとしても続かないように、生活の基本は楽しむことが第一であろう。不倫が道徳に反し、法に触れていても、楽しむという基本において避けられないように…。「一日30品目」の指導を真に受けるとなると、大変だろうし大きなストレスとなる。
土井氏がいうのは、「一汁一菜でも十分なのだ」という意識・認識があれば、オシャレで華やかで手の込んだ料理である必要もない。質素であっても栄養的には足りており、基礎代謝の衰えた高齢者にとってはむしろ健康的である。「メザシの土光さん」の愛称で親しまれ、元石川島播磨重工業社長、東芝社長を歴任した土光敏夫氏の質素な食生活は有名だった。
「正しい者は強い」の信念と執着心で東芝を変えた土光氏だが、土光なき東芝は腐ってしまった
1980年代に91歳の長寿を全うとした土光氏は、「物事を成就させるのは能力は必要だが、能力は必要でも十分な条件じゃない。機動力、粘着力、浸透力、持続力、そういうものが大切で、私はそれを執念と呼ぶ」といった。これは名言で、「能力信奉主義」に新たな視点を与えた。「能力があれば…」と、誰もが己の至らなさを嘆くが、なぜに執念の行動がない?
「学歴がない」、「お金がない」、「ブサイクだ」、「チビ、デブ」などと嘆くが、執念という力はそれらを一蹴する。人間を偉大にするも卑小にするも、その人の志の問題である。自分が嫌いなもの、分からないこと、自分と異なるものを否定する自尊心を人は見せる。イソップ童話の、「すっぱいブドウ」ではないが、出来ない言い訳してどうなるのか?
出来ないことは悔しい。人にできて自分にできないことはなおさら悔しい。それが執念を生む。人には能力の問題や限界は確実にある。羽生名人に将棋は勝てないし、ボルトに100mで勝つには50m以上のハンディがいる。そうではなくて、出来ることは何とかしたいもので、自分にとっては料理もそういうものだ。悔しいが料理はレシピ通りにしても上手くいかない。
何度も挑戦し、失敗し、試行錯誤を重ねて到達するもの。自分は過去、肉じゃがを何度作ったか?ただの一度も満足いくものはできなかった。どんなレシピを読んでもダメで、上手く行く、行かないの問題は、ジャガイモに出汁の味を沁み込ませられないというその一点である。定食屋で食べる美味しいジャガイモは、同じ人間が作っていて、それで美味しい。
東広島市安芸津町には赤れんがの素材となる赤土で育った美味しいジャガイモがある
どこかのおばちゃんが作っているだろうが、悔しいではないか。どこかに秘術があるとしか思えない。煮物に味を沁み込ませられたら、「一人前」と言われる日本料理である。なぜに煮物は難しいのか?洋食や中華と違って、薄味な和食の味付けは至難で、日本の至芸である。煮物は冷めた時に味がしみ込み、再び火を入れた時に味が安定するというくらいは誰でも知る。
知っていながら、そのようにできるというものではない。30年くらいだったかこういうことがあった。スーパーのマネキンさんが、おでんの出汁の試食販売をやっていた時、何気に教わったのが、大根は強火で煮た下ごしらえをし、再度おでんの出汁で煮るという手間。「なぜ?」と聞くとおばちゃんは、「大根の繊維を壊して味を入れやすくする」と教えてくれた。
なるほど、料理は理論でもあった。以後そのようにしたが、「知る」の大切さを実感する。煮物が作った翌日の方が、味がしみ込んでいて美味しいのも理に適っている。大根は長い時間煮ても、ジャガイモのように型崩れしない。さらに煮物は出し汁の加減が重要で、「ひたひた」、「かぶるくらい」など、水加減を指定した記述もあるほどに煮物の大事な要素である。
「ひたひた」は、材料が水面から少し顔を出しているくらいの量。「かぶるくらい」とは、材料が全て隠れるくらいの量を指す。が、そうはいっても水加減が多いと味がぼやけてしまうのも経験した。「ひたひた」を、「かぶるくらい」にするのは、生状態になるのを防ごうとの意図のようだが、煮物は大体において落し蓋をするので、生煮えになることなどない。
肉じゃがをブログに載せる予定はなく、画像はない。昨日は「白菜」の煮物を作る。まこと美味であった…
やはり、「ひたひた」が基本であり、水加減は味を左右する重要なポイントだ。さらに、隠し味として塩の効用がある。料理の奥義は塩加減というくらいに塩は大事で、塩の種類や素材にプロは並々ならぬ拘りを持つが、自分は普通の岩塩を使う。煮物の味が決まらない、ぼやけた感じの場合、少なくなった煮汁に醤油やみりんを足すようだとと味が濃くなってしまう。
そういう場合は塩で味を引き締めるのが良い。淡泊な白菜などには最適で、大きな変化がもたらされる。いろいろな注意点、留意点はあるが、やはり最後は自分の味利き、つまり舌加減である。「良い煮もの」とは理論や技術もあるが、最後は、「舌」かなと…。しかし、あれやこれやの方法・努力は惜しまない。肉じゃがの最後にチューブの生姜を加える。
チューブの生姜は邪道だが手軽で便利。入れる量は難しく、最適だと思わぬ効果がある。市販のレトルトぜんざいにもチューブの生姜を加えるが、それでぜんざいがピリっとしまるが、これも量が難しい。肉じゃがに生姜のレシピは少ないが、美味しくなるならいい。今回、ジャガイモを別鍋で強火で煮て下ごしらえとし、後で煮汁に加えるという手間をかけた。
後は玉ねぎを炒め、レンジで柔らかくしたニンジンを用意する。牛のバラ肉はほんの少し、コクを出す程度の量を出し汁にいれ、糸こんや他の素材と一緒に煮込む。素材が煮詰まると別煮したジャガイモを加えて、落としブタをして味を入れる。味が沁み込むのをガードするジャガイモ表面の澱粉質は、切った直後から水に浸して落としておくことだ。
どう作っても基本は美味しい「肉じゃが」だが、さらなる上を目指すところが男の料理のロマン
煮込んで一旦冷まし、本格的に牛バラを加え、堅くなり過ぎない程度にとろ火で再度煮る。この方法で二回やってみた。二回とも味が違ったのはジャガイモの素材が違ったこと。一度目は高級なジャガイモだったので、素材の甘味感と出汁の程良いバランスであったが、二度目は普通のメールクィーンだたのか、素材によって大きく味が変わることを経験した。
理想の「肉じゃが」といったものの、今までできなかったことが少しだけクリアできたというだけで、さらなる欲が生まれたのは言うまでもない。それでも、出来た時は、「理想の…」という表現をしたが、自分の舌が知るところの、「肉じゃが」はまだまだ先にある。理想を超えた、「究極の肉じゃが」は、常に挑戦的な気持ちで向かえば、いつしか出来るであろう。