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「大学は出たが…」格差社会の苦悩?

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何においても事物の奥は深い。浅海に比べて深海の探査・調査が至難であるように、物事においても奥を探ることは一筋縄でいかない。だから潜入したくなるし、出来る事なら極めたくもなる。『スターウォーズ』や、『E・T』や、『未知との遭遇』の面白さと、キューブリックの、『2001年宇宙の旅』の面白さは別物であろう。前者は痛快、後者は難解といっていい。

痛快は感性の快感、難解は理性の快感、とこれは自分なりの感想表現だが、痛快活劇映画は血が騒ぎ、手に汗をかく。抽象的で難解映画は脳に汗をかく。キューブリック作品の難解さは、次作、『時計じかけのオレンジ』においてもトラウマ級衝撃。痛快と難解は人の好みだが、巷いわれるように、頭脳労働者は漫画を愛読するなど、日々酷使の脳休めをする。

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逆に、普段あまり頭を使わない人は、脳が錆びつかない程度に、難解書を読むなどして頭の体操をした方がよいだろう。簡単平易なものよりハードルをあげれば、心理的高揚感を味わえる。ふと、最近の子どもを見て思うは、競争社会の激化の中で彼らは自分の立ち位置をどこに求めている?競争社会である以上周囲は煽り、どの程度の抑圧を感じているのか?

主体的に勉強をして、偉くなりたい、有名大学に入りたいと、小学生、中学生からそんな風に思う子もいることが自分ら昔人間にとって脅威である。「遊びをせんとや生れけむ」という時代の生きた世代だ。「末は博士か大臣か」とも言われたが、これはいつの時代においても、親の子どもに託す心情である。塾の夏期講習で鉢巻姿の子どもたちにはかなりの違和感がある。

夏休みが始まった当日、部屋に鞄を投げ出し、その鞄が8月30日くらいまで同じ場所にあった小学生時代が懐かしい。「子どもは遊ばなきゃ、ロクな人間にならん」という父の言葉が背中を押した。昔と今を比べ、今の時代は確かに恵まれているが、それイコール幸福とは言いきれない。時代を比較するより、今の時代はおっさんには分からないというのが正解だ。

子どもを早くから学問へと追い込むのも親の欲目であるが、それなくして、子どもが主体的に勉強したいなどあり得ない。勉強より、遊びから多くのものを授かったのは間違いない。となると、今の子どもは勉強から何かを授かるのだろう。早くから物を覚える訓練を強制されることで自発的な活性脳が低下するのは、パター認識の弊害である。それでも親は勉強を強いる。

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小学生が遅くまで塾通いする光景は、理解する、理解できない以前に、「一体どういうこと?」の疑問でしかない。目指すものが何かを理解するが、そのことで失いものの大きさを憂うからだ。ある灘高OBが、「東大受験は朝起きて歯磨きをするのと同じくらい簡単なこと」といっていたが、学校内が毎日それで動いているなら、そういう言葉も普通に出よう。

「ああ灘高、日本で一番勉強ができた子達の『その後』…」というサイトに出身者がたむろしているが、内容自体は各県の天才が集いながら研鑽して行く将棋連盟の下部組織、「奨励会」と似たようなものだろう。糸谷哲郎八段の幼少時代を思い出すが、彼はやはり普通の子どもではなかった。広島は糸谷の他に故村山九段、山崎八段、片上六段らを輩出した。

奨励会というところは、全国から天才少年が集うが、その中で研鑽し、揉まれながらも、多くがプロ棋士になれずに脱落し、なれたとしても最高クラスのA級にあがるものは数%、ましてタイトルを取るなどは、さらに一握りの棋士である。親から無理やり将棋を強制されることはないが、自分が好きで入った世界で、同じように励んでも人と人には格差が生じる。

なぜに格差という能力差は生まれるのか?誰とて生きている以上、他人との差が気になる。生まれながらの貧困や富裕などの外部環境的格差は、本人の努力だけではどうにもならない部分があるが、同じプロ野球、プロゴルフなどの世界に入っても、歴然とある能力差。これは不平等というものか?自分で招いた不平等なら納得するしかない。でなければやけっぱちである。

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「勉強をしなかったから、いい学校にいけないかった」。「まじめに働くこともかったから、ずっと貧乏なままだ」。こうした自己責任で片づけられる問題に、文句や愚痴を言っても始まらない。が、生まれながらの格差、環境による不平等は、自分の責任ではない。だからといって親を恨むよりも、ポジティブな生き方を課した方が、自らのためになる。

愚痴や不満ばかり言ってる人は、ポジティブに生きられないのだから仕方がない。本人は不満のはけ口として他人を利用し、同情を乞うが、愚痴ばかり聞かされる他人はうっとうしいだけ。そこに気付かぬ人も憐れといえば憐れである。確かにさまざまな格差が存在するが、同じ格差といえど、自らが責任を取らねばならぬ格差とそうでない格差が存在する。

そこを見極めて理解することだ。ただし、自分が責任を取れない格差(例えば、生まれながらにして貧富や身体的障害、あるいは容姿など)であっても、人は前向きに生きる方が幸せに近づく。他人は意地が悪いものだから、生まれながらの環境についてもアレコレいう。人を阻害して自分を満たそうとする。そうしたことへの対処や強さも学ばねばならない。

いじけたり悲しんだりするだけでは、幸せは遠のくばかり。誰もが勝者の一族として生を受けるわけではない。例えば、ひどい親を持った不幸な子どももいる。が、鬼親を持ったことで自分の将来や幸福が閉ざされる事はない。自分は、自分に降りかかる後天的障害を振り払う事しか考えなかった。当たり前の生き方であり、それでいいのでは?そうすべきでは?

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のように思う。「降りかかる火の粉は払え!」という慣用句を支えに生きて来た。だから、それをすべきだと、ここに執拗に書きなぐっている。「当たり前」を、「当たり前にすえう」、「出来るようになる」そのきっかけは、戦う姿勢である。人は容赦しない、同情もしてくれない。そうした依存を願うより、依存を排除して、自分の通る道を自らが舗装していくしかない。

これが「当たり前」という風に思えたら、その子は強くなっている。動物の生存本能とは、戦うことが基本である。「降りかかる火の粉を払う」のも火の粉に対して戦う姿勢である。いつの時代にも、その時代がある。人はその時代に生きる。その時代にしか生きられない、そのことを切実に感じる。学校から帰っても、近所に子どもの集団があった時代に自分は生きた。

今はそうではないから、「昔はよかった」を今の子には意味のない言葉。リュックを背負い、足早に塾に通う子どもに考える事はあるが、それぞれの子どもは親の価値基準の中で生きている。眺めながら思うに留まる。「高い山ほど登りたお」のか、「高い山を強引に登らされているのか」。どちらにせよ、今の子どもたちの未来を見ることは我々にできない。

「東大中退者は高卒である」という、今の時代を象徴する対論バトルがあるが、中退は学歴ではないから、東大といえども中退は五流大卒以下である。この当たり前の正論に嵌め込めない東大信仰が世間にある。卒であろうが中退であろうが、問題にすべきは現時点の人間的資質・能力、さらには人間的魅力であるべきだが、そうしたことは問題にされない。

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そこに学歴社会の陰湿さが感じられる。本人がどう思うかについて、「東大中退者は高学歴ではなく、羞恥な優越感」と決めつけている。東大中退の堀江貴文に"羞恥な優越感"の有無は定かでないが、彼は2016年7月、ある雑誌のインタビューで、「大学にはブランドとしての価値しかないので、東大以外の大学など行く価値がない」と彼らしい持論を述べている。

これは大学で資格を取得するというより、学歴としての大学の存在で、堀江と同質思考の主に受け入れらるが、そうでない者には寝言に聞こえる。堀江に対し、「もはや新卒一括採用は必要ないということ?」の質問には、「確実にいらない。日本の大学を出て即戦力にはならない。東大を含めてほとんどの大学は実務的に使える教育を一切やっていませんから」という。

このことは事実であるが堀江は、「せっかく苦労して東大入ったのに、就職試験では東大よりもめちゃくちゃ簡単な大学の学生と同じスタートラインに立つ。東大に入るには入試で合格点を取るしかない。それなのに慶応やその他の大学とわざわざ同じ土俵に立つというのは、暇というよりバカなんじゃないかと思うんです」と、これは彼一流の偏見であろう。

「東大生は能力は高いのだから就職なんかせず、やりたいことをやればいい。本当はやりたいことがあるのに、そんなことは夢に過ぎないとでも思っているのでは?」と堀江は結んでいるが、「東大出て就職はせず、好き勝手なことをやればいい」という考えが、東大生に当て嵌まり、また、東大生に支持されるだろうか?それで東大に行く人間がいるだろうか?

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なぜなら、それではブランド力としての東大を生かす意味にはならない。グッチやシャネルやヴィトンを無人島で着る意味があるのか?という比喩に習い、ブランドとして東大を生かせという堀江の言葉は、前後が噛み合っていない。さらにいうなら、「東大を卒業したら就職しないで自由にしたい」との思いで、抑制し、節制して勉強した人間がいるとも思えない。

抑制して勉強して東大に入った彼らが、真に自由人として自由を望むなら、禁欲で受験勉強などしないと思う。堀江は、「東大出たのだから自由にしろ」というが、東大という権威にぶら下がる人間の多くが、保守的であって、保守的な人間ほど権威を必要とする。彼等に、「自由になれ」は、一切を犠牲にした受験勉強を根底から否定することではないか。

学歴優先社会の頂点に君臨する東大生において、「卒業したら就職はせずにすきなことやれ」という堀江の言葉は刺激的だが的外れに思える。そもそもそんな人間が果たして東大に行くはずがない。よしんば行ったところで、堀江のように、あるいはゲイツやジョブズのように、大学を中退して何らかの起業をする人間であろう。堀江の発言は中退者の言葉と見る。


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