「日本人の好きな食べ物ランキング」というサイトがあった。見た。順位があった。が、それがどうなんだ。と、そんな順位に何の価値があるかと思えば、記事にしようとも思わなかった。ブログとは自己の主観であり、自己主張でいい。偉人の名言や発言は他者の主張だが、凡人が偉人の発言を引用するのは、凡人ゆえに自己の主張を強める意味において有用だ。
引用は凡人ゆえに許される。学者が他の学者の発言引用は、学者の沽券に関わることでは?それでは学者としての価値を落とすばかりか、学者として羞恥の極みである。自ら言語学者を気取るある三流学者が、彼自身のブログで当ブログを、「日本語の使い方がなっていない」などと批判した。三流の証明と感じたのは、自分が相手にしなかったことへの剝き出しの返報感情である。
しつこく物を押し付ける人間には激しい嫌悪を抱く自分ゆえに、学者でなくとも見切った態度は頭にこようが、権威を傘に偉そうな物言いをする人間には、露骨な態度をとる自分だ。「頭に来て他人のブログを攻撃する度量の無さ」はともかく、何にしてもプロはアマに目くじら立てるようでは情けないとの持論もある。対等で罵り合いたいなら、まずは肩書を取ることだ。
専門職や研究職とは自己に厳しく、それ故の功績である。学位や博士号を自慢したところで、それが何の足しになり、何の役に立つのか?医師が国家資格をとったからといって名医であることにはならない。少なくとも、静脈に打つ注射を動脈に打ち間違うことはないだろう。国家資格を取った程度で威張っていられる医者は、こちらが素人であるが故にである。
高次専門職が人間として立派だ、優れているだのは他人からの称賛であればいいが、威張りたい専門職が多い。これが平等社会の弊害という見方もできる。つまり、彼らは平等では面白くない。だから威張ることで無言の階級闘争をする。学歴社会も同様の論理で、大学に入学したこと自体は、実は何の証明にもならず、本人のある手段に対する目的でしかない。
ところが、「平等社会」を連呼・標榜すれば、下層階級は言葉の恩恵に預かるだろうが、上層には面白くない。それが、「学歴」あれ、何がしかの格差や能力差を格付けし、自分を認めさせたいという心理が働く。「平等」を強調すれば格差はさらに強まることになる。「芸能人の格付け」というテレビ番組は、やってることのくだらなさゆえに、シャレであること自体が面白い。
が、「格付け」という言葉を臭わせている。東大に入学、京大に入学したは、努力の結果であるが、そのことで、「かりそめ」とはいえ、自分たちへの格付けを彼らは求めている。なぜ「かりそめ」なのかに注釈をつくるなら、果たして大学出の彼らが、社会で即戦力足り得るだろうか?なのになぜSラン、Aラン大の人材を企業は新卒として一括採用してきたのか?
確かに高度成長期における人手不足もあって、戦時中の将校などの幹部候補生を必要とした時代の要請もあった。地方の中卒を金の卵と称し、第一次産業を見限らせて都会に流用するほどに第二次産業、第三次産業は発展を遂げた。そうした中において、雑多な労働者階級に対し、1割、2割の大学進級組が支配階級として重宝されたのは言うまでもない。
中卒・高卒の労働者階層にとっては、「大学出の偉いさん」という言葉も、普通にまかり通った時代であった。説明するまでもなく、それだけ大学出は特異な人材だったが、社会構造が変わりバカが大学に行く時代になると、「大学出の偉いさん」という言葉は死語となるばかりか、有能な職人を顎で使えるほどに専門的知識を持つ大学出が少なくなった。
そこで生まれたのが、「大学出のおぼっちゃまがどれほどの者」と、見下げられる現場管理者として悲惨な大卒エリートたち。「習うよりは慣れろ」という慣用句がある。単純に言えば、東大の秀才が入社後にスーパーのレジを卒なくこなせるか?キャリア10年のパートさんとどっちが優秀か?極端な例ではなく、どんな仕事であれ、能力の限度を超えた量はキツイ。
電通過労死自殺の現実は今回に始まったことではなかった。有名大を出ても有名大だから入社させてやったのだという姿勢は、変わることのない驕り高ぶる企業の論理である。確かに東大生は優秀かもしれないが、スーパーのレジに東大生を雇う必要はないというなら、東大生には東大生としての仕事があることになる。それがいかなる仕事であれ、いかほどの有名企業であれ…
死ぬほど辛い仕事をあてがわれ、要求された東大生は幸せなのだろうか?世間には、「電通に勤務している」と自慢できるが、どこの会社でどれだけ辛い仕事をしているかまでは言わない。高橋まつりさんは、そのことをブログに綴り、自らを癒すしかなかった。スーパーのパートなど誰でもできる仕事と蔑まれる事もあろうが、そういう仕事も誰かがやらなければならない。
企業において社員教育というゆとりのあった高度経済成長期、「歩留まり」の申し子社員たちはいい思いをした。日本企業が豊かだった時代はいにしえ、今はそんなゆとりはない。「大学は出たけれど」は、小津安二郎の1929年度作の映画。人間の陽と陰を巧みに描いた名匠小津ならではの作品である。時代の要請や流れもあって、企業の一括採用は続いて行く。
ソニーが履歴書に大学名を不記載などの案を出し、有名大学信仰に問題提起をした事もあった。それ以降も、学歴という「かりそめ」の人間的格付けを信じたことへの後悔は、多くの人事担当者が経験させられた。近年は筆記試験よりも面接のウェイトを重んじると企業が多いが、これすら、「かりそめ」の人的格付けからの脱却を図らんとする意図である。
こんにちほど企業が疲弊した時代にあっては、さらに良い人材を求めたいというのが、企業の生の声であるが、その判断基準として、東大や京大を筆頭とするSラン大、私立の雄としてのAラン大が課した、高度なる試験、あるいは難しい試験を合格した者を、「以て尊しと為す」という判断基準は、その出発点において、「かりそめ」といえども合理性がある。
あの「森下仁丹」が、2017年3月1日から、50代をターゲットにした、「第四新卒採用」を始めるという。前職でのキャリアを問わないポテンシャル採用で幅広く人材を募集するが、狙いについて同社の広報担当氏は、「イノベーションを起こせるのは若い人だけではない。豊富な人生経験、ビジネス経験を積んだシニアの方が大きな可能性を秘めている」と説明する。
3月1日から求人広告を出稿するというが、求人広告のキャッチコピーは、「オッサンも変わる。ニッポンも変わる」だ。均一的価値からの脱却こそ、「イノベーション」の語句に相応しい。「やる気」に関してはおっさんも若者も関係ない。自分なども、そこらのくたびれた若僧よりは、何倍もやる気も体力もある。あとは、自信が実感できるか否かの証明である。
誰もが、「平等」という言葉に欺瞞を感じながらも、いかなる平等社会にあっても、組織には必ず「上・中・下」があるその現実を知っている。にぎり寿司の、「特上・上・並」をみれば、素材の差が価値の差である。かつての貴族社会、封建社会のように、「上・中・下」が血筋や身分や階級で決められているなら、文句や言い分は別にしても、一律納得のいく決定である。
そでなくなった現代社会において、「遊ぶ」時間を犠牲にし、自らに束縛をかけ、恋愛や趣味すら自己制御をして、自らを教育するという能力を持つ者、あるいは強制的に管理下に置かれる者でない限りは人間の、「上・中・下」の質は定められない。そればかりか、学問以外の、「徳」や、「知性」といった能力も含まれるとあらば、平等社会とは実は大変な社会である。
だからといって、封建的階級社会を擁護するのではないが、端的にいえるのは、平等主義社会というのは、自分自身を教育能力(自己啓発能力)があることを証明する必要が要求されることになる。家康から15代、264年続いた徳川封建時代にあって、「世は生まれながらにして将軍である」の3代将軍家光だが、考えてみるに、封建制度には良い点も無きにしも在らず。
封建制は、現在の社会システムでみて欠点ばかりで何も良い事はないが、中世初期のヨーロッパの国々は封建制を導入したくてしたわけではなく、封建制を導入せざるをえない状況であり、否応なく封建制になっていったが、もし、中世初期のあの時期にに封建制が導入されなかったら、ヨーロッパは一時期のソマリア国のような無政府状態になっていたと思われる。
東大入学者も、フランスのバカロレア大学入学資格試験も、医師や司法資格の国家試験も、最低限ここまでの能力に到達したという証明である。ありがちなことだが、中学入試で偏差値70の難関中学に入学したはいいが、エレベーターで高校に上がれるものの、高校入学段階の偏差値は50以下で、公立高に行ける力もないほどに、学力を落とす子どももいる。
本記事内容のどこが、「理想の肉じゃが」という表題?と、他人は思うだろうが自分的には理解している。昨日自分は苦心の末に、「理想の肉じゃが」を作ることができた。正確には、「理想(に近い)肉じゃが」であり、理想の余地はまだまだ残っている。そういう書き出しで始めたのだが、思考が変わり、表題とは違う方向に文が行く。思考より先に指が動くのを止められない。
そのうちどこかで、「理想の肉じゃが」レシピに落ち着くハズだ。それで良しと、結果よりプロセス重視はいつものこと。拘りの無さが物事の形式論を打ち砕く。人はもっと自由に、人はもっと自己主張を…、何をやっても許され、怖がるものは持たぬ方がよい。人が何か言おうとしたとき、叩いたり文句をいうのは非生産的である。その事を知らぬ無知加減が滑稽である。