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読書による人の「質差」

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昔、二宮金次郎を称賛されたが、偉くなろうと読書した記憶はなく、読書は単に面白かった。今の時代、偉くなるためには塾に行く。今時の偉い人間とは、難関校に行く人であるが自分は批判的だ。自分が思う偉いの本質は、学業成績とは無関係の幅の広い人間的魅力である。「人間的魅力」とは抽象的な言い方だが、「人間的魅力」を具体的に指摘しろと言えば可能である。

時代は変わった。薪に読書の金次郎の銅像は、どんどん廃れ、今や歩きスマホ全盛だ。ただし、歩きスマホの銅像が建った話は訊いてない。「魅力的な人間でありたい」と、「魅力的な人間になりたい」は違う。「ありたい」は願望、「なりたい」は、願望に努力が加味された意志となる。他人はともかく自分も、「魅力ある人間になりたい」の意識はあったが、未だ山麓…。

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「魅力的な女になりたい」と女は言うが、女の言葉は一般的に外面的魅力を言う。「内面美女」という言葉もあるにはあるが、女性がどれだけ外面に思いを抱くか男にはワカランこと。外面的魅力といっても、「容姿端麗」以外にも、洋服のセンス、メイク、笑顔、姿勢、マナー、それにしぐさや振る舞いといった個人の外に現れるもの。要は見た目、外見である。

女性に外面的魅力を求めるのが男であった。昔から男は女性に利発など求めていなかった。その事が女を見られる意識を強めたのだろう。女は子を産む道具、男の性欲のはけ口、家事・育児をするだけで良いという封建制度の奴隷であり、女性蔑視の思考や言葉は当たり前に存在した。ショーペンハウエルのような女嫌いになると、女性に対する言葉は手厳しい。

「女は18歳から28歳までがよい。この年齢以外はどんな女も魅力的でない。生理の終わった女には嫌悪の情を抱かせる。美しくなくとも若い女は魅力的だが、美しても若さがなければ魅力はない。さらに、痩せた女には拒絶反応を起こす。豊満な女の乳房が男たちに魅力的なのは、女の生殖機能と関連する。とはいえ、あまりに肥満し過ぎた女は嫌悪感を与える。」

こうした男の女への「品定め」は現代にも通ずる点が多い。「商品」としての女性に反抗し、「ミスコン」中止を叫ぶフェミニストもいるが、「商品」としての魅力に順応する女性に、「ミスコン」否定者はいない。「美しい」、「綺麗である」というお墨付きやレッテルを貼られることで、自己愛が満たされる不思議な生き物が女である。女性に対する次の言葉も納得する。

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「女性が鏡に映して自分を見るのは、自分の姿を見るためでなく、 自分がどんなふうに他人に見られるかを確かめるためだ。」

そうかどうかは、女になっていないからわからないが、思春期時期の女は一日中でも己の顔を鏡で見ていられる。男は髭を剃る、鼻毛をチェックする以外、自分の顔をあまり見ない。自分の顔に興味もない、誰にどうみられるかなども同様だ。「男の顔は履歴書、女の顔は請求書」。この言葉は作家の藤本義一と言われている。履歴書はさて、請求書の意味は?

「あれが欲しい、これも買いたい」などの物欲女を請求書に見立てた比喩表現であるという。確かに男の顔には、「苦難や苦労を乗り越えて生きてきたその男の人生が宿る」、と言われるほどに社会は厳しい。社会が厳しい事もあるが、社会は男にとってさらに厳しいという現実だ。元々は藤本義一の言葉ではなく、大宅壮一の言葉をタイトルにして発刊した。

物欲の根源が何であるかの心理学的考察が、「欲求不満」とは言い得ている。不満が「欲」を強めてしかりである。他にもストレスや情緒不安定などの要因があり、貧困が生格を卑屈にしたという環境的要因もある。自分さえ満足ならそれで良いと言う、「身勝手」な心根の持ち主に顕著だが、己の身勝手は人に迷惑をかけるという思考に至らないのは何故?

だから自己中になれるということか。以前、とある新興宗教に熱心な知人が、「元品の無明」という言葉を説明してくれた。人間の根本の煩悩の一つだが難しい説明なので、「もっとも根源的な無知」と理解した。仏教には難しい言葉、用語が山ほどあるが、自分が生きるために得る理解ならそれで十分だが、人に説いたり説明したりしたい人にとっては一つの素養である。

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人間は生まれ落ちた時点においては世間に暗い。当然にして何も知らないことになるが、物事の原理や道理や人の心の動き、移り変わりなどは社会体験で得るだけでなく、書物などから知ることも大切だ。「5」しかない自分の頭の中身を、「10」に増やすのも、「100」に増やしてくれるのも書物である。それはまた、人間的教養や魅力として自らに蓄積されて行く。

「本など読むのが面倒くさい」という人の思いは理解する。わざわざ面倒くさいことをする理由は一つもないが、わざわざ面倒くさいい事をやる人間には、それだけの理由があるということだ。面倒くさいことを単に、「やる」、単に、「やらない」ではなく、面倒くさいことをやる理由を、「持つか」、「持たないか」であり、面倒くさいことをやる人にとっては面倒でなくなっている。

面倒なことでも報酬を貰うから仕方なくやる。という理由もあるように、自分の人格を向上したい、魅力ある人間になりたいという内面的理由も、人を行為に駆り立てる。これを自己啓発というが、「面倒くさいことはやらない」と、好きに生きるは人の自由。そういう人間に批判はないが、たとえ周囲の誰かが読書の効用を説いたところで、「馬の耳に念仏」であろう。

本をまったく読まない人間が職を求めて人事担当の自分の前に座ったと仮定する。「本なんか面倒臭いので読みません。そんな暇があったらスマホでゲームします」という人を入社はさせない。「本は素養・教養を高めるので、時間を割いても読むようにしています」と、こちらの人間を入社させたい。これは読書量の差ではなく、それがもたらす人の質差を想像する。

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「読書は好きです。特に霊や宇宙についての本しか読まない」という人がいたとする。さらには、「本は好きです。世間は広いし、世の中のあらゆることが興味の対象です。だからジャンルを設けず乱読しています」なる人物。自分が人事担当なら、後者を雇いたい。人間の質差というのは、会話や雰囲気に現れようし、広い視野を持った内面的魅力ある人材に期待したい。

内面的魅力とは、気配り、思いやり、優しさ、謙虚さ、力強さ、素直さなど、内部から滲みでる言動をいう。どう見たって男にはこちらが必須と思うが、イケメンになりたいと願う男もいないわけではない。ただ、イケメンになりたいと願ってなれるものか?女性は美しくなるためには金銭も労力も惜しまないが、男が努力してイケメンになろうとするとは思わない。

それもあってか、男は、「内面的魅力」を重視する。ない物ねだりをしても仕方がないと男は理性的である。『ピーターパン』といえば、ウォルト・ディズニーのアニメ作品で有名だが、ウィルトは原作者ではなく、イギリス・スコットランドの作家ジェームス・マシュー・バリーの戯曲、『ピーター・パンあるいは大人になりたがらない少年』(初演1904年:全三幕)が原作で知られる。

ジェームズ・バリーはこんな言葉を残している。「魅力があれば他に何もいらない。魅力がないなら、他に何があろうと役に立たない」。それほどに、「魅力」に拘っているバリーにとってかけがえのない、「魅力」とは何であったろう。自分の場合、魅力的な人間の位置取りは、むしろ魅力的でない人間への反面教師としている場合が多い。理由はその方が身につきやすい。

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世の中に、「魅力的」なる人は沢山いるが、人の長所、いいとこを模倣し、身につける努力よりも、他人の短所を非難し、そうなりたくない、ならない努力をする方が即効性がある。嫌な性格や態度の人間を沢山つかまえ、そんな風にならないよう心掛ける方が、いいところを真似るよりも簡単である。羅列すると、貪欲、傲慢、無慈悲、卑屈、姑息、自慢、差別、陰口など…

「人のフリ見て我がフリ直せ」という奴だ。人を理解することはなかなか至難である。障害者を理解しようとしても、自分に未体験のさまざまな事柄や分からないことも多いが、それでも我々がそういう人と付き合っていけるのは、「理解をするフリ」ができるからだ。人を理解することの難しさは、人間が他者とのかかわりのなかで、かかわる限界を知ることにある。

昔、妹が万引きをして親が呼び出しを食い、その後に自宅で執拗に責められた妹を見るに堪えかねて、万引きとは何かを知りたくて姉は万引きをしたのだという。「いい子で親に好かれてるお姉ちゃんに何が分るんよ」と妹に言われたことが姉にはショックだったらしい。この話を聞かされた自分もショックだったが、姉の気持ちは何となく理解に及んだ。

が、そこまでするものかという驚きであった。「私は知らないことを知らないと思う」とソクラテスがいったように、自分が知らないことを知るためには、行動するのが手っ取り早い。思考だけでは、「分かる」という部分においてはほど遠い。「本は読みません。面倒くさいし、興味ないです」。という生き方は個人の自由だが、他人がそれを認めないなら文句は言えない。

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親が我が子を、「世界一の息子」と信じるなら教育の成功だろうが、親の欲目や思い込みでなく、本当に良いかどうかを実証して見せる必要がある。「可愛い子には旅をさせ」という言葉は、他人からの客観的評価を得ろということ。親が我が子を社長に世襲させても、会社が親個人の所有物でない以上、経営者は有能者であるべきだが、当然ながら世襲社長には無能が多い。

「自分の会社は息子に譲りたい」、という子に美田を残したい気持ちはわかるが、会社の創業者や親から会社を受け継ぐことは、社の内外から反対や批判が出るのも当たり前だ。ただし、「社長の息子というだけで、能力があるとは限らない」という周囲の目など、創業社長にとってどうでもいい。だからか、「会社は誰のものか?」が問題にされない個人経営、中小企業に世襲社長は多い。

親バカ子バカの連帯なら種々の問題も出ようが、親がバカでも有能な息子もいる。「社長の息子なら仕方がない」と迎える場合も多いが、問題の本質をいうなら、やらせることは悪い事ではない。経営的資質の有無を知るためにやらせてみるのは構わない。ただし、ダメなら降ろす、クビもある得るという責任論が明確にあれば、息子の社長抜擢に異論はない。


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