病気になったら病気と闘わねばならない。風邪やインフルエンザにしろ、ケアは必要だ。何もしないで自己治癒に委ねる方法もあるが、自分のように医者嫌いは少々のことでは医者にかからない。理由はいろいろあるが、嫌いなところへわざわざのこのこ行きたくないというのが最大の理由。何もしないでも体内で抗体が頑張ってくれているのを知っている。
すぐに医者に行く人もいるが、行かない人の性格は大雑把では?自分を念頭にそう想像する。捻挫をしても医者に行かず自己治癒に努めたし、どうすれば治るくらいはネットに情報が満載だ。直近ではウォーキングによる足裏筋膜炎で、酷使が原因なら、安静とまでいわずともなるべく使わないようにすれば治るのは当然で、ネットにもそのように記されている。
医者に行ったところで、飲み薬があるでなし、塗り薬があるでなし、ネットには親切に、「足裏筋膜炎の改善のための6ステップ」なるサイトもある。尿路結石になった際も医師が処方してくれた訳の解らない薬は全く飲まず、ぴょんぴょん飛び跳ねればどんどん下に移動するだろうし、そんなことは医師でなくとも常識だ。意思は10mm以上の石は自力で出ないといった。
衝撃波による破砕術を勧めるが、それをすぐにやらなければ死ぬわけでもないしと、自力で排出宣言をする。石が出た時、医師は、「良かったですね~、頑張りました」の言葉くらいかけてもよさそうなものだが、医師自身が、「絶対に出ない」、「聞いた事こともない」と言い切ったものだから、返す言葉がなかったのだろう。それを見て医師なんてこの程度の人間かだった。
患者の容態を心配するというより、自分の指示を聞くか聞かないか、それが医師の患者手なづけ法である。今度結石になったもう医者には行かない、そういう自信にもなった。「黙って座ればピタリと当たる」は易者の殺し文句だが、言葉の裏には、「ごちゃごちゃ言わずに聞け!」という傲慢が潜む。インチキ易者如きが何をいうかであり、自分は占いなど信じない。
人の未来なんかわかるわけないだろう。医者も似たようなものだが、どうしても医者にかからなければならない疾病もあり、そこはまあ臨機応変だ。五木寛之の本にこう書かれている。「私は闘病という言葉が好きになれない。ある有名な医師との対談のなかで、医師はこういった。『結局、医者を信じて、絶対に病気に打ち勝つという強い気持ちの患者は治る」。
これに対して五木は、確かにそうかも知れない。が、無気力な患者では医師の治療の甲斐もないだろう。治るものは治るし、治らないものは治らない。人間は所詮は死のキャリアであり、いずれ死ぬわけだ。老いにも病いにも、勝利などということはない。健康法や検査や、いくら努力しても病気は向こうからやってくる」。医師の言葉は患者を励ますもので、医者とて完ぺきではない。
どんなに大金を積み、どんな名医にかかっても病気で死ぬ人は死ぬ。そこらの町医者であっても、治癒する人はいるわけだ。最近言われている、「QOD」という言葉は「Quality of death (クオリティ・オブ・デス)」で、直訳すれば、「死の質」だが、「QOL」=「Quality of life(クオリティ・オブ・ライフ」と共に定着してきている。こちらは、「生活の質」と訳す。
我々人間の人生の最終ゴールは死であって、したがって人間の人生は、「死へと向かう道」である。ゆえに、「死の質」とは、「生活の質」ということになろう。そうはいっても、「生活の質」となんぞや?ということだが、「生活の質」とは、「死の質」と表裏にあると考えれば、「理想の死を選ぶ」ということになる。それでは、「理想の死」とは何ぞや?である。
何をすれば、「理想と思える亡くなり方」と言えるのか?昨日、「がんと闘わない選択をした」主婦の、「エンディング・ノート」もその班長となる。自分は自分なりに、ブログを書くことで、自分という人間についての自問自答をしている最中である。これまで人にイロイロ問うことはあったが、この年になれば我が身に問い、我が身に答えさせるのも一興である。
自分の考えや意見を客観的に眺め、思考し、判断するのはいわゆる、「自己問答」、「自己対話」であり、相手が自分であるだけに面白い。自分に何かを問い、答えられないことなどあり得ない。答えが正しいとか深遠とかは関係ない。今の自分に問い、今の自分が答えることで良い。15歳の頃の日記には15歳なりの答えがあった。30歳には30歳の答えがある。
何より自己問答は、時に自由な発想を生み出すものであり、何も真理や理想などを追いかける必要はない。「何が正しい」というのは、多くの場合に相対的であるのが人間社会なら、そこに絶対的真理を説くことが、どれほど重要かと自分は考える。つまり、対手にいるところの相対的善悪こそ、人間界に有用ではなかろうか?神の絶対真理を自分は必要としない。
その場の事象に合わせた有益なる相対的真理を思考できれば、人間は有能である。その程度の有能さが人間にとって十分と思っている。人間は世俗の事で悩み、苦しむものだが、そうした個々の悩みや苦しみを神に問うのか?いじめで自殺を考えている15歳に、「神に問え」というべきなのか?そんなことは露とも思わない。それで自殺が防げるわけがない。
人間は絶対的真理というものを信じ、求めたいのだろうが、あまりに飛躍しており世に何の効用となる?宗教は難問を解決してくれるものではなく、神と自身の対話が信仰かなと。したい人はすればいい。自分は自己との対話の方が興味深く面白いから、それをしている。何をすべきかはそれぞれが自分にあった事をすればよい。だから、宗教者を批判はしない。
ただし宗教者と会話をする時、彼らがいちいち聖書の記述を真理が如く羅列するから話が噛み合わない。神の言葉を暗唱する人間より、自身の、人間としての考えをいったらどうだ?それをしない宗教者と会話は何ともつまらない。彼等は神の言葉という真理をいつもぶら下げているようだが、神の言葉を知って行うなら、誰でも神の領域に近づくことになろう。
おそらく神は立派であろうから、そういう人間がこの世に増えるのはいいことだが、自分的にはあまり仲良くしたい相手ではない。自分のようにバカをいい、羽目を外し、ドジもするような人間の方が親近感が持てるというもの。道徳的に立派な人は、あまりに世俗離れしていて避けられること多し。人間の目標は神に近づくことより、より人間になることかと。
結局のところ、人間は人間を目指すものである。他人が堕落していくなら、自分も同じように堕落する可能性を持つと考える方が人間的である。人間はどのような制度の中、無制度の中にあっても愚かである。そんな人間が、どう考えてみたところでユートピアに描かれる人生を送ることはできない。自らの愚かさを棚にあげて法外な要求をするところに誤りがある。
人間がどうしても知るべきことは、さまざまな他人との関係の中における自分の存在であろう。「存在の限界」といった方がいいだろう。自分のような人生だけが人生だということは決してないが、そのように思う人、押し付ける人がいる。確かに社会というのは、これが人生だというような人生を作り、それを社会的圧力として集団の成員に強制をしてくる。
「皆がやっていることをなぜあなたはしない」こうした圧力は人間の中に自動的に内面化され、内側から人間を規制する。当たり前のことが本当に当たり前なのか?と疑問を抱くなら多少は人間的だが、当たり前の事に批判を持たないのは、社会の奴隷である。その方が生きやすいから人間はそれを選ぶが、問題意識を持ち、問題提起をする人間への非難は集団いじめである。
少し前、自治会(町内会)への入退会問題について記したが、「入退会は自由」との最高裁の判例で強制もどき圧力はやりづらくなったようだ。さらには任意団体でしかないPTAに強制加入を促され、会費を払わされたと訴訟を起こす人間も出現する時代になった。社会という集団圧力の中で、個の尊厳にひたすら向き合おうとする人間こそ、先駆者となり得る。
PTAなどに入りたくないという自由な考えを抱く保護者のために大きな礎となろう。その意味で自由を自由、任意を任意と叫ぶことは社会のためでもある。「自分の意思が反映されないままに支払ったPTA会費は、PTA側の不当な利益だとして14年6月に提訴したのは、おそらく自己の独善というよりも、こういう社会であってはいけないとの大義であろう。
大層な金額ではないことを考えれば、こういう面倒な事にかかわろうとする社会正義への挑戦と考える。昨年2月における下級審の判決は、「会費納入袋を使って会費を納めていたことなどから、『入会していたと認めるのが相当』として請求を棄却されたが納得できないと、高裁に控訴していた。高裁は判決を出すことをせず、和解勧告に留まり、双方が合意を得た。
和解条項には、「PTAが入退会自由な任意団体であることを将来にわたって保護者に十分に周知することや、保護者がそうと知らないまま入会させられたり退会を不当に妨げられたりしないようPTA側が努める」ことなどが盛り込まれた。自分が小学校でPTAに携わっていたころから、「PTAは盲腸のようなもの。必要とも必要ないともいえない」と言われていた。
が、子どもに関わる事でもあり、取り立て問題にするような保護者も教師もいなかった。が、曖昧にされてきたものは何時の日か裁断は下される。人間にとって分離ほど怖く不安なものはない。それ故に集団に属す、埋没することは心のよりどころである。孤立を怖れぬ人が強いのは、集団の圧迫よりも、何が正しいかを見極め、追及しようとする勇気である。