自分が何時、どこで、どのような死を迎えるのか、誰も予測はできないが、昔友人たちと、「自分の未来がわかるといいよな~」などと、他愛もない会話をしたことがあるが、予測や想像の範疇ならあれやこれやと話も弾むが、もし、タイムマシンで未来に行き、自分の数十年後の未来を目の当たりにすることになれば、人間は計り知れない苦悩に陥るのではないか。
何が苦しく、何が辛いといえど、自分の将来や未来が確定されたものであって、その動かせない事実を知ることが、どうして幸福であろうか?どう生きても人生が定められ、決められているというなら、それこそ人間はどう生きたらいいのだろう?そういう苦悩に襲われるハズ。先のことは見てみたい気もし、知りたいのはやまやまだが、知らないから幸福であろう。
2027年2月22日に自分は死ぬ。タイムマシンでしかとその日、その場面を見て来た。こんなことが分かって、明日が楽しいだろうか?2027年は、「明日」とはいえない、遠き将来だが、一日一日とその日に近づき、やがては明日がその日となる。いや、何年、何月、何日に死ぬという事実が、人間にとって希望といえるのか?その前に「希望」とは一体なんであるか?
♪ 希望という名のあなたをたずねて 遠い国へとまた汽車に乗る。という歌があった。初めて耳にした時、不思議なインパクトがあった。詩の持つ世界の特異な表現であり、希望をあなたと擬人化しているところは言葉の魔術に感じた。希望とは、好ましい事物の実現を望むこと。希望希望についての逸話として有名な、「パンドラの箱」というギリシャ神話がある。
人類の最初の女性であるパンドーラー(パンドラ)が、好奇心から、「パンドラの箱」を開けてしまい、あらゆる悪いものが溢れ出た時に、最後に箱の底に残ったのが「希望」だったとされる。別説では、「パンドラの箱に最後に残ったのは、『未来を全て分かってしまう災い(前兆)』であり、それが解き放たれなかったことから、「希望が残った」とも言われる。
「パンドラの箱」とはこんにち、「開けてはならぬ災いの種」として比喩的に使われるが、この「パンドラの箱」を開けまくっているのがトランプアメリカ大統領である。トランプの事は後に回し、人間は間違いなく死ぬけれど、その死を実感をしないことが、「生」という希望である。末期がんで余命いくばくなくとも、それでも死への実感は希望に打ち消される。
健康体の人であっても、死について漠然と思考はする。が、不治の病を告げられ、日々命を削られる境遇の人にとって、死はまさに眼前の重石であろう。そういう人たちの気持ちを推し量ろうとするが、そういう状況にない者にとっては、到底推し量ることができない。同じ人間に生まれながら、刻々と命を削られる人の心中はいかがなものであるのだろうか。
分からないことを人は想像によって明かそうとするが、生を限定された人の気持ちを想像するのは無理からぬことで、分かった気になることを自ら鬩ぐ。明日の死を実感しながら、希望の淵に生を見出す人たちを、ただ見守る以外に手立てはないが、いつしか自身もそれの答えを見いだす日がくるであろう。「生」とは意志であことをつくづくと感じている。
「生」はまた過去や未来ではなく、「現在」という時のみにおいて確実であるように感ずる。人間にとって死の恐怖が何かといえば、かけがえのない「現在」を失うことである。過去や未来を失っても、現在を失うことが死の苦悩である。自分という個体は紛れもなく死によって終焉することになるが、火葬され、骨壺に入れられる儀礼より、意思の消滅が死の切なさである。
他人の死は認識すれど、自己の死を認識できないのが、唯一死というものの救いであろう。死んだ自分の屍を見る事もできず、自分が死んだことさえ分からない、それが自己の死である。死後に意思が反映されるなら、人間はどれほど我が死を悲しむであろうか。意思なきことが自己の死の最大の救いであり、人は幸いにして自己の死を見ることはない。
永井荷風や坂口安吾は、自分の葬式はまっぴら御免と言った。列席の友人や知人に自分の死に顔など見せたくないという理由。死んでいるのだから、照れ臭くも羞恥も無かろうと思うが、上記の文章は死んだ後に書いていない。よって、死後の自身の意思の無さを生前に代弁していることになる。死んでは何も言えないわけだから、意思は生前に述べるべきかと。
末期の乳癌で余命2年を宣告された主婦が、「手術」や「抗癌剤による治療」をせず、「がんと闘わない」宣言・選択をした。彼女は医療に頼らず、「そのままの寿命を全うしたいと強く思った」というが、自身独自の選択というより、『患者よ、がんと闘うな』という著書でである近藤誠氏の意思が反映されている。近藤医師は癌の治療に一石を投じた話題の人物。
医療に頼らない医療とでもいうのか、先進の医療が実は患者の寿命を縮めているという近藤氏の考えに即した、一つの選択といえる。医学界内外から批判と賛同の渦のなか、癌という恐ろしい事態に遭遇した患者が、近藤氏の考えに触れ、自己責任における意思の選択をで自身できる時代になったことに批判の余地はない。手術や癌ん剤治療以外にも道はあった。
近藤氏は主に乳癌診療をしていた。悪性度の高い癌は何をやっても再発してダメだし、悪性度の低い癌は再発はするが、5年、10年、なかなか死なないという現実。初期から全身疾患となる乳癌と、局所腫瘍であり続ける胃癌の病態の差が、癌に対する認識の差となっており、 乳癌診療に携わる医師が、近藤誠のような感覚になるのはむしろ自然ではとする医師もいる。
上記の主婦実香さんも、30代半ば頃から右胸にしこりを感じていたが、仕事の忙しさから放っておいた。次第に右胸のしこりが悪化し、痛みだけでなく出血や膿まで起き、診断を受けることを決意。告げられた病名は「乳癌」だった。ステージ3でリンパに転移しており、早く手術をしなければ余命は2年と宣告された。手術をしても完治するかは分からないといわれた。
宣告を受けてから、常に『死』を意識しているという実香さん。そんな日々の中、続けていることがあるという。それは「エンディングノート」を書くことだという。夫はは妻の死について、「覚悟はできていない。出来ていないけど、そのときはそのときで対処できる自信はある。僕がそういう人間だと妻も分かっているから、『倒れても連絡しないよ』と言われている。
だから、毎日確認しますよ、生きているかどうか。ずっと妻を見てきて思うのは、治療しなかったからこそ今があるのかなと。妻は『闘わない』と言っているが、僕は『闘っている』と思っている。だから、家族ぐるみで闘っているという解釈でいる」と夫は言う。確かに覚悟とか死の実感とかいわれても、乳癌で元気に普通に生活する人を見ていると、それは沸かない。
やはり、覚悟はそれなりの状況の時に強く感じるものだろう。妻が闘病中の海老蔵の気持ちも似たものではなかろうか。「覚悟」という本当に切羽詰まった、そういう時の言葉である。いつ死ぬか分からないなかで、「私が死んでからしなくてはいけない事」を書き綴る彼女だが、人の死の順番は若い者からと決まっているわけではない。親より先に逝く子どももいる。
順番というのは「ある」ものではなく、「あってない」のも順番である。それこそが世の中の不条理と不合理である。いかなることも踏み越えて行くべきと考えると、死に行く者より、残されし者の悲しみが大きい場合もある。都合のいいことは誰でも受け入れられるが、受け入れがたきことでさえ受け入れることも人間の試練であろう。あらゆる幸福は消極的ある。
だから、人は自分の幸福を思いたいがために他人の不幸を間接的に喜ぶことをするが、これを積極的な悪意と言わず何とする。しかし、自身の幸福は他人の不幸の上に存在するほどに、人間の心はいかにも弱い。強きものは他者を妬まないのは、自己の価値に尊厳を置いているからだ。自信といってもいい、自分の生き方であって、他人からとやかく言われるものではない。
「意志の肯定は、いかなる認識によっても妨げられない永続的な意欲をいい、それは一般的に人間の生を満たしているもの」とショーペンハウエルはいったが、その通りであろう。分かり易くいうなら、人間を支配する欲が、少しも認識に妨げられることなく、持続的にその欲を貫き通す。「生」が意志であるなら、「自殺」は意志の否定という見方もできる。
「生」を見棄てる以上の「利」が自殺者にはあるのだろう。さらに自殺者は意欲することを放棄するから生きることを止める。意欲を捨て、感傷に我が身を埋没させる死を止めるのは自分である。感性を傷つけることを止め、孤独を選択する勇気があれば、自殺の多くは食い止められるのではないか。意志の否定は、「無」であるが、孤独は厳然たる「有」である。
孤独という言葉は、ネガティブな響きを持つがそれは間違い。孤独を嫌がる者がネガティブであるだけで、周囲の煩わしさや情報を遮断するだけで、どれだけ開放的になれるかを知らない人間が孤独を怖れる。他人といればすかしっ屁さえ躊躇うが、一人でいると強烈な臭気さえ香しい。社会のストレスから解放される点において、孤独は精神的健康そのものだ。
自殺の一つの原因が孤立感であるなら、孤立も孤独もネガティブは思考である。孤立を怖れて安易な徒党を組む人間は少なくないが、孤立を何ら怖るに足りぬという強い精神力は、親の子どもに対する教育カリキュラムに存在する。いじいじ愚痴ばかり人間、周囲の迷惑この上ないが、強く逞しい人間が、周囲から重宝されるように、そういう自己教育力を育むべきかと。