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個人と社会性と…

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かつて、日本は信頼を必要としない環境だった。なぜならコミットメントの作成による安心があったからだ。組織に属することで自分たちを保護していたし、外部を遮断し、排除することで安心感を得ていた。信頼できるか否かを調べる心配もない環境だった。かつて「安心」は安定した社会によってもたらされていた。ところが現代は、安心崩壊の危機にある。

安定した社会とは、集団や関係の安定性をいい、そのためには内部の者が勝手な行動を起こさぬようコントロールしていたことによるものだ。集団は内に対しては安心、よそ者に対しては強い不信を示すという特徴がある。現在の日本にあっては、今までのような関係を維持することによるメリットよりも、それに伴う機会費用の方が多くなっているのが問題である。

個人主義のアメリカ人に比べて、日本人が安定した集団主義を好むというこれまでの日本人イメージは、個人中心主義の時代に移行することで、集団への帰属意識が失われつつある時代である。保守的な村落共同体には、「寄り合い」という交流が定期的に行われ、そこに顔を出しておけば陰口をたたかれなくて済む。つまり、話し合っていれば安心の世界である。

それは別の言い方で、「近所付き合い」ともいった。近隣同士が顔を見せあい、声を掛け合うことこそコミュニケーションである。このような人と人の行動傾向の原因というのは、本人の意向や意思というより、そのように行動した方が過ごしやすい環境に置かれていることを皆が知っていたことになる。新たに住み着く外部侵入者もない平和な土着性文化であろう。

狭い国土に人口増加ともなれば、山を切り拓いて宅地を増やさねばならず、三代、五代、いやもっと続く村落共同体の土着文化が、外部侵入者によって壊されて行く。新たに宅地や建売りを購入する若い世代は、じじむさい年寄りたちとの交流(近所付き合い)を面倒がってしない。年寄りはそんな若者に、「今どきの若いもんは…」の称号を贈ることになる。

若者は保守一辺倒の老人たちに、「大した話をするわけでもないのに、集まっているだけ」などと冷ややかである。これってどちらが正しい?老人は老人で正しく、若者は若者で正しいと考える。裁定は?といえば、どちらにも、「分」ありという事になる。したがって、「どっちが正しい」などといういう視点で判断する以上、対立は深刻さを増すばかりとなる。

自分も外部から老人社会への参入の経験があり、それ以外にも部外者としてさまざまなコミュニティ参入を経験した人は少なくない。子どもが親の転勤で転校するのも分かり易い事例だ。大林宜彦監督の『転校生』の冒頭シーン、幼稚園時代に過ごした街の高校に転校してきた小林聡美に、幼稚園で一緒だったと馴れ馴れしくもウザイ彼女を一喝をする尾美としのり。

「転校生ってのはな、もうちょっと大人しくて、慎ましくて、おどおどしてるもんなんだよ。なんだよオメぇは、馴れ馴れしすぎるんだよ」

転校経験のない自分だが、多くの転校生を見ていると、転校生にはある種の同情観を抱いていた。転校生の寂寥感は子どもにも理解できるし、さらには友達との別離など、転校は嫌に決まっている。が、子どもは柔軟であるからして、「環境の変化に対応できる!」という自信や、環境の変化をポジティブな機会としてとらえるなどは、転校生ならではの貴重な体験だ。

むしろ底意地の悪い大人などから、いじめを受けた、無視されたなどの話は「公園デビュー」において若い母親の悩みとなる。男には存在しないいやらしい世界の話はいろいろ聞かされた。なついて行こうとしても、相手のご機嫌が悪いと、無視の連呼で孤立させようとする女子のいじめは、小学校辺りから派生するようだが、無邪気で単純な男の子にそれはない。

自分などはどういうコミュニティに参入しても、気づいたらいつの間に旗を振ってる側だからあり得ない。昔から物怖じしない自分の性格で、困った感を抱くことはない。ただし、気をつけるのは出しゃばらない程度に、場の主導を目指すが、そうした性向は自分以上に周囲がよくわかっていて、自然に押し上げられたりするし、自分も人の風下に立つのを好まない。

若い頃に老人社会に参入したことで一悶着あるにはあったが、コミュニティを取り仕切る長老に眼目をつけて怯まぬことで、黙らせることはできる。「長い者には巻かれろ」を良しとしないなら、若者は怖じ気ることはない。相手は自分を煙たく避けるようになるまでやればいい。「出る杭は打たれる」というが、「出過ぎた杭」は打とうにも脚立が必要である。

コミュニティの中に嫌な奴がいると思った時点で負けなので、相手から下がるのではなく、相手よりむしろ上に上に出ようとするのが、勝負術である。若者は姑息に迎合するよりも、バイタリティを見せつけるに限る。戦前の家長制度など、長老支配による統治よる一見平和は、若者を抑え込んでいたに過ぎない。それを変えたのが、ディラン、エルビスが、ビートルズ。

社会学的にはそういう見方もされるが、彼らの表立った体制批判は、若者に反抗の勇気を与えたのは間違いない。あの時代に我々は、気づいたときには大人たちからあれこれコキ降ろされていた。マンボズボンは不良、ポニーテールは不良、エレキは不良、長髪は不良…、今に思えば大人の我欲と若者の我欲の衝突であって、価値の押し付けに反抗した。

大人や長老が牛耳っていた時代にあっては、大人が若者を支配し、相手を隷属させていた。それとは別に、自分さえ犠牲になればいい、個を棄てて大人に従っていれば安泰という考え、長幼の序を仕方なき妥協と自らに言い聞かせていた。そういう社会状態があまり長く続いた結果、人と人との合理的な関係や組み合わせを作ることは不可能だと考えられていた。

確かに日本人は、他人と衝突することを嫌う。意見を戦わせることを良しとしない結果、あまりにも他人に無関心な社会になってしまっていたが、そこに風穴を開けたのが若者主導の文化である。本来、世の中は不条理と不合理に満ち溢れている。それなら、世の中そういうものだ!と考え方を切り替えて、タフになる。そういった柔軟さやしたたかさも必要。

大人と若者の我欲のぶつかり合いもそうだが、社会生活というものは、二個の人間の我慾がぶつかったときに、それを両方とも生かして、適当に調和させるべき方策を模索すべきである。我慾を持った人間が主張し、他人も主張する。それで解決がつくのか?それを学ぶのが学校という社会生活の場でなければならない。ところがこの国の初等教育現場にそれがない。

他人の意見にたいする賛同を良しとし、反論を求めない事なかれ教師。「協調、協調」とだけを重視するから、自立した考えが育まれない。人と違うことはむしろいい事なのに、同じ目の色、髪の色、そして肌の色という単一民族を誇る日本人は異端を認めない。さらには、同じ制服に同じ鞄に同じ靴を履かせて、同じ人間の量産を目指すのが初等教育現場。

協調というのは、真に自立があってもたらせるという本質を知らない、許容量のない教師が、学校ゴッコを、逞しき強き人間を作ろうという社会的使命感もない。こんな教師はいらないと嘆く親がいても当然だ。全ての人間関係において、自分の正当性だけを主張するのではなく、硬軟両面を併せ持ち、それを使い分けることができる人間が真に豊かな人生を送れる。

そのためには感情(自己)と理性(冷静)での折り合いをつけることが大切だ。「理性的に生きる」ことと、「本能的に生きたりする」ことの、両方のバランスを兼ね備えた自分を作ること。社会のさまざまな場や時々にあって、この二つのうちのどちらかを生かして使える人もまた、生活の熟達者であり、人間らしさを保っていける人のように思えてならない。偏ってはダメだ。

真面目も不真面目も、善も悪も、利己も利他も、「清濁併せ持つ」ことが人間であろう。自分だけが清く正しく生きればいいではなく、悪を行為した人間にどう寛容で入れるか?である。クソ真面目で道徳的な人間ほど他人の非を責めるが、こういう人間はまさに神気取りである。他人に厳しくは、我が身に厳しくでいいことだが、本当にそうなのか?自問は必要だ。

70歳にも80歳にもなっても、将棋に負けても相手を称えることもできず、言い訳ばかりする人間は、そういう度量がないということである。そこで腹を立てるのではなく、「(この人は)そういう人なのだ」と思えば、むしろその人を笑っていられる。「大人気ない」、「強がり坊主」、「キャパがない」、これらは年齢からしても笑える材料だ。ただし腹で笑う。

ひと年取れば、人から見下げられ、笑われるより、穏やかな紳士と思われるのがいいに決まっている。思われるとは、そう思われたいではなく、自然にしていれば相手が勝手に判断する事。その判断が、笑いものであるのは無様である。60歳の人が70歳になったら自然に素敵になるのではなく、人は自分がなろうと思う人間を目指さぬ限りは20歳程度のままである。


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