人と人との対立について少し触れたが、確かに「対立」という言葉にポジティブな意味はあまり聞かない。個人と他人が存在する社会において、対立」はむしろ絶対不可欠なものであるはずと思う。ならばいっそのこと対立を否定するより、肯定して、その中から取るべき態度や方策を模索するべきでは?「ない」を理想としても、「起こる」の発生は止められない。
こういう新聞記事を目にすることがある。「この一件で会社内部の対立が露わになった」。「自民党の総裁選を睨んで、幹事長と総裁派の対立が活発化してきたようだ」。このように表立って見えてくるとか、露わになるとかの表現がなくとも対立はあるということ。いわゆる無風状態というのは、決して対立がない状態というより、対立を隠している。
対立のない集団、対立のない組織、対立のない人間関係、対立のない社会ってあるのだろうか?おそらくないだろう。人間のいるところ、必ず対立は発生する。男と女、大人と子ども、親と子、老人と若者、上司と部下、教師と生徒、体制側と反体制側…、いずれも対立があり、ないよりある方が健全ではないのか?しかし、なぜか対立はないことを望まれる。
間違いなく「ある」ものが、「ない」というのはそのように見せているのではないか?対立などないのだと、穏やかに見せているだけではないのか?老人と若者に何の対立がないなら、「どちらか一方が眠っている」と書いたが、波風立たない状態が良いとは思わない。あることが当たり前の「世代対立」である。北朝鮮や中国などの一党独裁政権でさえ対立はある。
決して誰からも不平不満が出ないのではなく、誰にも不平不満を言わせない状態に持っていくことが、最高の支配とされている。そのために粛正が行われる。今でも自分は子をの親だが、親の実務は引退したことで、呼称としての親である。外国のようにファーストネームで呼び合う慣習がないから、それも仕方がないが、「元お父さん」というのも確かに変だ。
過去も段々とおぼろげになって行くばかりだが、それでも話の中から子どもらに昔の行状を言われると、「なんとヒドイ父親だった」とビックリさせられる。幸いにして子どもたちが根に持っていないからいいものの、当時は、「父親は嫌われるべく存在」と思っていたから遠慮はなかった。不慣れな父親としての要領の解らなさがぎこちない父親の正体だった。
「いきなり、子どもができた、産まれた、さあ、親をやってちょ!」と言われて、正直なところは「さ~て、どうする?」でしかない。人間には子育ての本能はないように思えたし、それが証拠にどうしていいか分からなかった。犬や猫などの高等哺乳類や、鳥さんなどは、列記とした本能に導かれて子育てをしているが、そこを考えると人間は情けなかった。
何も分からないなら仕方がない。この際、子育て書を読むのが良かろうと、美智子妃殿下にならい、ルソーの『エミール』を読み始めた。さすがに「子どもの福音書」と呼ばれるだけのことがギッシリ詰まっていた。もっと『エミール』は、ルソー思想の根幹にある、「文明批判」が軸になっている。それは以下の言葉に代表されるような鋭い表現となっている。
「人工的なものが我々の礼儀を陶冶し、我々の情念にわざとらしい言葉で話すように教えなかった時代、我々の風俗は田舎風であったが自然なものであった。(略) 我々の風俗の中には無価値で人を誤らせる一様性が支配し、すべての精神は同じ型の中に投げ込まれてような感じがする。絶えず礼儀が要求し、作法が命令する。また、人々は絶えず習俗に従い、決してその固有の才能に従わない。
人は、もはや、あえてそれがあるところのものらしくはしない。この永遠の束縛の中で、社会よぶ群を形成している人間は、同じ環境の中におかれると、もし、もっと強い動機が人間を転向させないなら、同じことをするであろう」。ルソーは老荘に影響されている。ここにある彼の文言は、礼儀にうるさい儒家思想を老子が慇懃ゆえに人心が離れるとした批判そのもの。
礼儀作法は我々の社会生活をより快適にする潤滑油だが、ルソーによるろ、「人間の本質を見失わせ、人間を阻害させ、社会的連帯を歪めてしまうものとする。老子もいうように、「そのようなところには誠実な友情さえ、もはや存在しない」となる。そうした思想から生まれたルソーの教育思想は、「自然人の形成」という考えに行き着く。彼のいう「自然人」とは?
究極的にいって、理性による幸福や完全を求める傾向であるのが文中から感じるところの、人間における自然の定義といえる。つまり、人間は生来的に幸福を求める存在であり、したがって、我々においては、幸福であるということは自然であることになろう。いつも思い出すのは、「自分が自然に生きてるなんて分かるのは、なんと不自然であるか」という詩である。
自然とは意識なのか、無意識なのかと問えば後者というだろうが、無意識であると意識されたものあっては、それ自体が無意識でなくなり、したがって自然であるとは言えない。意識された途端に姿や位置や形を変える量子力学のようなもの。唐木順三は、「自然は認識の対象でもなく、意志の素材でもない。自然はそのうちに人間を包んで生きているのである」と述べた。
ゲーテはまた、「人はたとえ自然に反抗する場合でも、自然の法則には服従する。逆らってみようというときでさえ、自然とともに働くのだ」と述べている。「魂」というのは、見えないから魂であって、それが見えたら「魂」とは言えない。幸福も見えない。見えないが掴んでいる実感はある。それこそが幸福なら、自分の幸福は他人には見えない、掴めない…
「自然」は意志や現象というより、逆らうに逆らえない電気力線や磁力のような、「力学」のようなものであるようだ。さて、子育て奮闘中における、自分の父親という自覚は作為的に満ちたものであったのは言うまでもない。自身の中に位置づけた理想の父親像という架空の存在を演じていたに過ぎない。親は子を持てば親となるが、人間はそうもいかない。
「人間は誤った育児を行う能力を脳が仕組みとして獲得している」というのは、恐ろしい文言であった。ライオンは、象は、親子が3代、5代、10代と続いても同じ子育てをするが、人間の親は、人間以外の生物のような、いつも正しく、決まった、何代も同じように子どもを育てることは非常に難しい。常に、右へ左へと錯誤を繰り返しながらの子育てとなる。
なぜ、人間は何代も同じ子育てができないか?理屈は簡単で、人間が良く深い生き物だからだ。小学校入学時から、将来は普通の子でいいという親と、将来は何としても東大に入れたいという親が存在する。「中庸は徳の至れるものなり」という言葉が示すように、人間は何代にも渡って正しい育児をできない。教育ママという言葉は、自己イメージの高さの象徴だ。
学歴コンプレックス、知識コンプレックスが教育ママを生むという考察も周知されている。にもかかわらず、勉強ができない=バカという身勝手な自己イメージが災いする。勉強も習慣、食事も習慣、部屋の掃除も習慣、うんちも習慣、何事も習慣が大事なのだから、それができるように、環境を整えてあげるのが親というサポーターと思うが、形式主義の弊害に思う。
最近「教育ママ」という言葉を耳にしないのは、特殊ではなくなったからのようだ。以前は特殊だったが、塾に行かせる数をみればいい。いい学校さえ出てればいい人生が送れる(はず)と幻想を抱く親なら仕方ないが、白日夢であると目が覚め、気づくまでは好きにやらせておくしかない。が、金属バットは捨ててプラスチックの物に変えておくことは大事だ。
自宅に金属バットがある家庭というのは、誰かが野球をやっていたということで、実数は50%にも満たないと思うが、包丁で刺殺するよりも、金属バットで頭を打ち砕く方が、憎悪の深さを感じる。それともう一つ、体のどこかを刺すという不安(死ななかったら)よりも確実性があるのだろう。昨年12月26日に名古屋で、明けて1月23日は静岡の浜松で発生した。
金属バットの重量は900グラム以上と規定されている。男が振り回すのにはさほどの重量感はないが、2014年3月に長崎・佐世保女子高生殺害事件の娘が、就寝中の父親を襲った事件はやはり金属バットで、父親は陥没骨折で重体だった。娘は現金100万円を渡され、マンションに1人暮らしをすることとなり、それが友人高校生の殺害死体解剖事件に繋がる。父親は自殺。
この少女には、「頭が良すぎて特殊な子」という同級生のイメージ評があったが、おそらく学校の成績をいうのだろうが、これには納得がいかない。人を殺すような頭のいい子がいるのか?どうにも自分には、頭のイカれたバカ人間としか判断できない。金属バット殺人は悲しい顛末だが、親子の事は双方の責任だ。善意の第三者が巻き添えというのは許しがたい。