上のふたつの行為はモットーという訳ではないが、あまりそうならないよう生きている。「あくせく」は普通に使う言葉だが、これも正確な意味を知らない言葉で、語源を想像しても思いつかない。調べてみると何と、「あくせく(齷齪)」という漢字があるのを始めて知った。見たこともない漢字であった。どちらも、「歯偏」のオモシロイ字なので、興味が沸いた。
ぱっと見、「齟齬(そご)」に似ており、こちらも歯偏である。一体、「歯偏」とはなんであるか?「齟齬」は随分前に調べたことがある。「物事が嚙み合わない」の意味だから「歯偏」がぴったんこ。ならば、「齷齪」と、「歯」の関係は?いきなり辞書を調べるのも癪にさわるので、字とにらめっこしながら数分考えたが、全くお手上げで、皆目見当もつかなかった。
とても浮かびそうになく遂に降参!語源の由来は、漢語の「齷齪(あくさく)」の音変化した言葉で、「あくせき」、「あくせい」などの言葉も生じた。「あくさく」、「あくせい」の音変化は、「急く(せく)」からの類推と思われるが、漢語の、「齷齪」の本来の意味は、歯と歯の間が狭いことで、それが心の狭さを意味し、最後は「気ぜわしく」するさまを言い表すようになる。
よって、「あくせく」とは目先のことにとらわれて、こせこせ気ぜわしくするさま。心の狭いさま。という意味。この二つの言葉が嫌いになったのは、おそらくバーゲンセールの会場などの光景かなと…。買い物はゆったりと落ち着いて行いたいが、「あくせく」、「ガツガツ」状態と言えばそのまんまだ。ちなみに、「ガツガツ」の正確な意味も調べてみた。
1. 飢えてむやみに食物を欲しがるさま。また、むさぼり食うさま。「のら犬のようにがつがつしている」「そんなにがつがつ(と)食うな」
2. むやみに欲ばるさま。また、欲ばってある事に励むさま。「金にがつがつ(と)する」「がつがつ(と)勉強する」
バーゲン会場であのようになる人たちは、上のような言葉を知らないか、もしくは知ったところで、「それが何よ!」、「カンケーない」なのかも知れない。バーゲン会場の代名詞は女性だが、男どももあんな状態になるのか?見たこともないので、画像を探すことにした。検索ワードは、「バーゲンセール会場」である。実写もイラストも女性ばかりで男はいない。
なぜだろう?自分と同じように、「あくせく」、「ガツガツ」あるいは、「あさましい」、「みっともない」状態を男は好まないのか?自分に当て嵌めると、あまりにみっともないないからやらない。状態は好まないが、「そんなの気にしてられない」というのは、気にしたことにはならない。頭で無様と思うから、「やらない」のと、頭で分かっていても「やる」の違いは何?
理性より欲求(欲望)が勝利するからであろう。虚栄心というのは面白いモノで、人は誰でも他人の虚栄心を笑うことはできる。が、自分の虚栄心を笑う程の心の余裕を持ち合わせてはいない。虚栄心にもいろいろある。サガンは、「笑いながら自分の勝利、成功、栄光などを語る人」をたちの悪い虚栄心と指摘したが、人の心の奥深くには切実な虚栄心が宿っている。
背の低い男がスラリ背の高い男を羨むからと言って、それを虚栄心と非難できるだろうか?三流大をでた人が、「大学はどちら?」と聞かれて口ごもるのを虚栄心と責められようか?答えた途端、相手の自分への意識が変わるのを怖れるのだろうが、小学校しか出ていない総理大臣は今後二度と現れることはなかろう。鳩山や菅直人が「バカ総理」と言われた。
鳩山は、東京大学工学部計数工学科卒業後、スタンフォード大学大学院に学んだ超秀才であり、菅直人も東京工業大学理学部卒の秀才だ。彼等は研究者になったなら、学問も生きるということだが、畑違いの世界に生きて学歴だ、秀才だといっても、バカはバカでしかない。将棋連盟の三浦九段問題の際、東大法学部出身の片上常務理事は、何もできなかったと批判された。
「私は法学部をでているので、疑わしいというだけでの処分はすべきでない」と強く言えず、何のための法学を学んだのかと言われるとその通り。先輩理事が何を言おうと、証拠もないのに処分を科すのは間違っており、「自分の法学的主張が通らなければ、理事の資格はないので止めさせていただく」くらいの熱いものが欲しかった。誰も自己保身の事ばかり…
三浦九段の師匠西村九段もこのように斬り捨てた。「片上大輔なんて、将棋はパッとしないけど東大法学部を出ていて、他の理事棋士よりは社会性があるだろうと思っていたが、はっきり言って中卒の私よりなかった」。いかほどの学問的の秀才であっても、社会性なくして社会人としての秀逸さはない。よく言われる、「社会性のなさ」とはどういうことか?
「社会性」は学問では身につけられない。生まれながらにして完璧な、「社会性」を身につけてくる子どももいない。社会性は、人の能力の中でも環境の影響を大きく受ける領域で、何歳になっても、我々は自分の努力で自分の、「社会性」を変えていくことができる。社会性は乳幼児期の早い段階から育むにこしたことはないが、社会性とは具体的なにをいうのか?
「学力」や、「運動機能・体力」といったもの以外のほとんどすべてを包括的に指し示す、便利な総称として用いられている。社会に生きるために社会性は不可欠だが、「あくせく働く」、「金にガツガツする」、ともにいいイメージはない。ガツガツはともかく、「あくせく働く」はそれほど悪いイメージに思えないが、心に余裕がない状態はいいことではない。
人があくせくするのは何はともあれ、目先のことに躍起になるからだろうが、ブログを始めたころ、どうすればアクセス数が増えるかを教授してくれたAさんには、悪いと思いながらアクセス向上にアクセクすることはしなかった。宣伝して回るようなことはせずとも、読んで面白い記事なら自然とアクセスは増えるだろうし、それが何よりも先決である。
ところがあくせくな人は、自分の記事の良し悪しより、とにかく人がたくさん来ればそれで満足という短絡さである。ブログに限らず何においてもあくせくな人は、そういうところがある。じっくり、ゆったり構えているべきである。働きの虫と称された日本人も、ここにいたって最は、「あくせく働くのは辞めた方がいい」という考え方増えてきているようだ。
考えの自由度が広がり、それまで会社という枠の中からでしか眺めることができなかった物事を、新しい価値観で見ることができるようになった。これによってこれまでとは違った幸せを感じることができるようになり、それが人生を豊なものにしてくれている。これだけ経済が疲弊していては、正しいことをやっていれば、正しい方向に行くということではなくなった。
どんなにがんばっても正しい方向に向かっていかないのは、社会が道を誤っているからであり、そうであるなら我々は新しい道を模索すべきである。これまでのように、時間を犠牲にしてまであくせく働くというやり方を見直し、自由人としての新たな生き方に変えて行くべきである。「アリとキリギリス」の話にある、アリの生き方が正しいとされる時代ではない。
あくせく働いても昇給はない、出世もない。これが今の疲弊した日本経済の現実であり、だから卑屈になって文句ばかりいったところで何も変わらない。卑屈になるヒマがあったら、文句をいわなくていいように、ストレスを溜めなくてもいいように、会社至上主義という考えを改め、生活を楽しむことだ。真面目な人はそれができないから、真面目を止める。
働く理由を本気で考えたら、「人生を楽しむため」という答えが返ってくるが、結婚しても安月給亭主は、「もっと稼いでよ」と妻にハッパをかけられるのか?それで妻に造反し、「それなら離婚よ」というなら、奴隷になるより一人という自由を選べといいたい。「結婚によって女性は自由になり、男は不自由になる」というが、そういう奴隷男たちは憐れである。
独りはなにも寂しくないし、結構自由で楽しいものであるが、それを疑う人は、本当の不幸が何であるかを知らないのかも知れない。あくせく働くのを止め、ガツガツ生活するのを止める。妻が怖く、あるいは妻子を養うという美名と責任感のために自分に与えられた楽しくも実のある生活を犠牲にしている男子諸君、怖れることなく反乱して自由になるのがいい。
73歳の将棋仲間のFさんの言葉に驚くことは多いが、新たにバスで40分くらいのところに新しい将棋会所がある。「一緒にいきましょう」というと、「妻がバス代をくれないから行けない」という。往復600円のバス代を妻に頭を下げて、「ください」という人がこの世にいるという現実を知り、驚いたのは言うまでもないが、Fさんに返す言葉がでてこなかった。
男がいつでも好き勝手に使える自由になる金は70代にもなれば、1千万くらいは無ければだめだろう。自分は酒、たばこ、ギャンブル、外食をしない自分だから、あまり使うことはないが、600円のバス代がないというのには、あまりにスケールが小さすぎて、同情する以前に開いた口がふさがらなかった。つい、『悪妻は百年の不作』という言葉が過り、腹も立った。