あまり興味はが社会の事象という事で…。早見優のブログは「yu hayami official blog」だが、松本伊代のブログタイトルは、『天使のバカ』。インパクトのあるタイトルで自虐を込めてかと思いきや、1986年にリリースされた彼女のアルバムのタイトルであるらしい。線路侵入写真は1月14日のブログの投稿だが、11日に伊代が12日には優がいずれも涙を流して謝罪。
1か月も前のことでも、ちゃんと涙謝罪ができる二人である。深刻な顔に言葉、さらには涙付というなら、本当に反省しているように世間は思うだろうし、そういうものかも知れない。直後の謝罪はともかく、日を経過しての謝罪というのは、強いられた場合が多く、本心からの主体性に富む真摯な謝罪と思わない。確かに謝罪くらいは誰でもできる、難しくもない。
「すぐに謝ること」これが価値ある謝罪であろう。謝罪する人の素直な心を現わしていることにもなるし、本当に誠実な謝罪であるかは見ている側にはわかるものだ。インチキは白々しいものやワザとらしいことを嫌う自分は、それに類することを自身が許さない。謝罪の安売りは先ずすることはないし、誠心誠意、真心のこもった謝罪以外はしたくない。
自分が謝罪する時、事の度合いにもよるが、少々では許してもらえない、また許されようなどの思いあがった気持ちもなく、一身を投じて誠実に謝罪をする。なぜなら、多くの謝罪が偽善であることを知っているからで、そのような謝罪は羞恥心さえ湧き起こる。人間は汚いもので、許しを乞うという偽善を平気で行い、人々に自分の存在を認めてもらおうとする。
調子よく立ち回り、他人にペコペコして、何の主張もせず、取り入られることだけしか頭にないような男が、彼の腹の中に実際に立ち入って見れば、ひどく傲慢であったりする。ペコペコしているのは芝居だからやれるのだという。「あんなバカ社長に本心で頭下げられるわけないだろう?」。こういう人間と心を開きあった人間関係が樹立するとはとても思えなう。
謙虚でに見えて実は傲慢というのも結構当たっている。つまり、自分が傲慢であることを隠して立ち回り、相手に好かれようとする方策として謙虚な態度を見せ、いい人だと思わせたりする。誰かれなく見境なく謝ったりするなどし、相手に受け入れられる形で生きのびようとする。これが謝罪の本質で、強いということは決して謝ったりしないことだ。
怒る側(相手)は、自分を抹殺したいという思いに駆られているハズだから、そのことをどれだけ考えられるかという事もせず、早々に詫びることで相手のその憎悪心を和らげようとする。それによって自分が存在していいか否か、認めてもらおうというのは弱者の偽善である。嘘っぱちな謝罪を見聞きし、真に罪を悔いいることは決して謝ることではないと知った。
相手の憎しみや怒りと対峙して生きて行くことではないか、そういう考えに至った。自分は子どもの頃から、言い訳が好きではなかった。言い分があって黙っていて、「黙っててはダメだろ?思うことがあればいいなさい」と言われた時に、それを言うと、「そんなのは屁理屈」と言われたときに、非常に不信感を抱いたことがあった。矛盾しているようだがそうではない。
何かを言わせてさらに強く叱ろうとする、そのために、「何でもいいなさい」で、この嘘には二度と引っかかりたくはなかった。自分を理解してくれる人は、黙って静観する父親以外にいなかった。ほとんどの教師とは敵対していた。理由は、つまらん命令なんか聞こうとしなかったからだ。彫刻刀で人を刺したという汚名がついたときの自分の精神は完全に孤立した。
刃のない金属の部分で頭をおふざけでコツンとやっただけが、知恵遅れのMが、「彫刻刀で刺されたーーー!」と大泣きしたのには自分も驚いた。あの時の学校と教師の対応というのは、信じられないくらいに弱者に向いていた。泣いたもんが勝ちとして言いようがない。痛くも痒くもない行為であったが、怖い補導教師に呼ばれ、「監獄にいくか!」とまでいわれた。
学校はおかしなところである。皆が寄って集って生徒一人をいじめるような気さえした。1クラス50人で6~7学級、2000人近い生徒を管理するのも大変だったと思うが、あの一件はあまりに無慈悲で、孤立感を深めることになる。無理な謝罪も多く強いられたし、「悪い事をしたら謝る」、それが教育の神髄みたいに錯覚していた当時のうすっぺらな無能教師たち。
自分はよくグレなかったかと不思議に思うことがある。おそらく、親より自分、教師より自分が正しいと思っていたのかも知れない。どれだけ親がバカだと思えることをみたか、教師がバカだと思えることを経験したか、それでそうなったのかも知れない。今月6日、愛知県一宮市の中3男子が、担任の教師への不信感を記したメモを残して飛び降り自殺した。
男子生徒の遺書には、「担任教師に私の人生全てを壊された」などの内容が記されていた。他人が死ぬ理由は、その人だけのものだから致し方ないが、「教師にいじめられた」みたいな話は、絶対あってはいけないことだが、教師とあうあわないも含めありがちなこと。この程度の事で命を落とすなんて、近年の子どもは雨風凌ぐ温室の中で育つのだろうか?
「死ぬ理由は死ぬ個人のもの」と言っては見たもののやるせない感が強い。済んでしまったことは仕方がないので、子どもたちのこうした事態を防止するための今後の最善策は、やはり子どもに対する親の向き合い方であろう。名古屋地区は教育志向が強く、中3生が受験シーズン最中にかけがえのない命を落としたことは、同じ学年の孫を持つ身としていたたまれない。
そういえば1月下旬、自分も孫の事で学校に電話をした。孫は部活推薦の専願で私立高校を希望している。今年から初めての留学生を入学させるなど、バスケ部を強化指定として力をいれることでコーチから校長に推薦があった。それで安心してか、勉強しなくなったと、授業中に居眠りしてるとか、担任から母親に連絡があり、生活態度の面で推薦が危ういという。
「居眠りや試験の点が悪くて推薦が危ういからと、公立の願書を書いた方がいい」と担任が言ってると母親は孫を威圧する。孫は、推薦で行きたいと涙目だ。この場に及んで母親というのは、下種な言い方をするものだなと腹が立った。その程度の事で推薦を取り消されるとも思わないが、教師がそんなことをいうものなのか?それとも母親の一人芝居なのか?
確かめるために頃を見計らい、学校への担任に電話をする。結果的に専願推薦の生徒にで公立の願書を書いた方がいいなどいうハズもなく、母親の作り話と分かったが、祖父が電話を入れたことの口止めはしておく。孫には、「お母さんは頭に血が昇ったら何を言うか分からないので聞き流せ」と指示しておいた。母親と子どもの喧嘩を見てると思慮の無さに腹が立つ。
孫の言い分も分かる。「お母さんは、部活推薦で私立に行けるくらい頑張ったら、受験勉強頑張る必要もないと言ってたくせに、それでも勉強しなさいとかうるさい。言ってることがコロコロ変わるし…」。これが男の子の女親の見方だなと、昔を思い出す。昨日の言い分と今日が違い、1時間前と今が違い、5分前と今が違う事も珍しくない。女の脳はただの糠ミソか?
一度口にしたことを変えると笑われる、相手にされなくなる、という世界ではないようだ。「昨日はああいったじゃないか?」といえば、「そんなこと言ってない」と、これが一番腹が立つ。言った事を言ってない、言ってないことを言った…、言葉を持つ人間の難しさであろう。こういう場合、自分は押し問答を止め、「そんなんでは話にならん」と話を止める。
この種の人間は、「自分は悪くない」という防衛機制が強すぎるゆえに、自分を守るより先に、「相手の悪さを指摘できれば自分を良くみせれる」という考えにある。だから、攻撃ばかり加えるのだ。自分の非を認めようとしない不誠実人間にかかわらないこと以外に防御はない。以下の相談に対し、「そんな人はどこにでもいる」との回答が多く、それが人間社会。
自分が言ったにもかかわらず悪者になりたくないから人のせいにする。こういう人間に何を言ってみても無駄である。したがって、傾向が現れたら口を閉ざし、相手にしない。社会がどのようなもので成り立ち、そんな社会にどういう人間がうごめいているかを早く分かることだ。社会を知り、人間を知ることで(自分の)生き方を知る。分からないと悩み苦しむばかり。
必要以上に他人にかかわらず、他人を自分に必要以上にかかわらせない。他人の事は他人が処理し、自分のことは自分で処理する。淋しさにかまけて他人を求めれば、他人もまた自分を充てにする。ここに、いやいやながら何かをする、しなければならなくなったという問題が起こる。ロビンソン・クルーソーは孤島で28年間も過ごさなければならなかった。
今は孤独とはいっても、書物もあり、様々なメディア媒体の中で、本当の孤独というのはあまりもかけ離れている。人間関係のみの孤独を「孤独」と言っているようだが、決して孤独でないのは自明の理。クルーソーのように、自給自足の生活こそ本当の孤独であり、望むべくもなければ誰もそこまでは望むまい。煩わしいことを下げて免疫を高めるのが健康第一。