マスコミや業界に依存しなければ食っていけない芸能人は、週刊誌に不倫を暴露され、繕った顔で謝罪をしなければ干されるからでしょうが、直接的被害を受けるCM企業や配偶者への謝罪はわかるけど、テレビを観てる人に迷惑がかかっているわけではない。自分のファンの人に私的な不祥事を謝る理由はあるんかいな?先日他界した松方は謝る事はなかった。
彼以外にも浮名を流した銀幕スターは多いが、一様に謝罪は無縁だった。松方・仁科は略奪愛の先駆者だった。妻から松方を奪った(?)仁科亜季子(当時明子)は、歌舞伎役者10代目岩井半四郎の長女である。その仁科が親の顔に泥を塗るべく松方との略奪愛に身を投じたのは勇気ある女性と思っていた。この場合の勇気とは、恋愛という情熱にたいして世間を敵に回した事。
通俗的・因習的な観念を所有する人には、ふしだら極まりないことと、恰好の攻撃の種となる。如何に自身がいかに救いようのないもはや破綻した夫婦関係にあろうと、不倫を不道徳と責めるが、他人の不倫があんたに何の関係がある?と思うのだが…。習俗というのは金科玉条とばかりに誇る人たちは、人が頭下げて参ってるのを見たい悪趣味な人なのだろうか?
松方は元祇園の舞妓だった女性と最初の結婚をし、2人の子どもを設けていた。が、婚姻中に仁科と同棲を始め、二人は大恋愛であったようだが、世間の冷ややかな視線の渦中にいた。松方は妻と離婚をし、仁科と正式に結婚したが、その後も浮気の虫はおさまらず、売れない歌手との間に子どもを産ませた。怒った仁科は子どもができないよう松方に避妊手術をさせた。
大恋愛の結婚は美しいものだが、それ自体が美しいのであって、その事と結婚生活がうまくいくことは別である。人間は慣れ合ってくると必ずエゴイズムや醜さをさらけだす。したがって、結婚生活における相手のエゴの露出に遭遇したり、傷つけられたりすると、まだエゴの露出のないかりそめの異性に惹かれたり、肉体関係をのみの相手にうつつを抜かす。
結婚してるのに浮気をするなど問題外、すべて男が悪いと女はいうが、男には男の言い分があるが、不法行為を正当化はできない。「結婚したかというようにエゴまる出しの妻に我慢がならない」との言い分は、不法行為の理由にならない。まあ、浮気も不倫も違法だから、罰せられるのは仕方がないにしろ、問題は法ではなく夫婦の仲が切り裂かれること。
人は善行だけで生きない。悪をし、悪の誘惑こそ生きる証。責任ある行動とは、善だけを施すのではなく、悪事の罪を負うという事。言い分けや言い逃れや、姑息な小細工を弄すではなく、悪事を犯した自らに責任を取る。当時松方は、元妻に財産の一切を分与したと話題になった。「男だな」感心した。自分も器の大きい男になりたいと思ったものだ。
愛というものが異性に対するある種の緊張状態とするなら、略奪愛はとてつもない緊張感をもたらすであろうことは想像できる。普段は不真面目で悪ふざけ大好き男が、ある女性の前で借りて来た猫のごとくなら、男はその女に愛もしくは恋心を抱いている。不倫が緊張感を伴い、精神を高揚させるのは当然で、精神の緊張がある限り二人の愛は崩れない。
高揚感を高めた不倫もやがて緊張感は減衰する。精神の緊張がなくなれば、古女房の安定感を男は選ぶこととなり、これが不倫の終焉であろう。結婚という社会的に安定した本妻より、不安定な状態にいる愛人を愛しく思うのは当たり前で、女の不安定さを償うべく男は、更なる愛人に勤しむ。結局、不倫という遊戯は、緊張感による高揚感の模索でしかない。
不倫は合法なき性体験だ。SEXのない不倫はないし、あったとしても法的解釈では、「不倫(不貞行為)」と言わない。あったかないかを問えど、答えるバカはいないし、ならばあると考えるのが普通だ。SEXのない心中もないと誰もが考えるが、かつてあったとされる。12月26日の記事に書き、のっけにも触れた、「大磯心中」の二人は処女と童貞であった。
二人のプラトニック・ラブを称えた東京日日新聞社は、「純潔の香高く 天国に結ぶ恋」の見出しを掲載した。この心中には逸話がある。二人はキリスト教の祈祷会で知り合い、交際を始めた。男性の両親は交際に賛成したが、女性の両親は反対し、別の縁談を進めようとしていた。そのため二人は家から出て、「永遠の愛」を誓って心中を決行したようだ。
男の学生服のポケットにあった遺書から、男は東京市芝区白金三光町の調所(ずしょ)男爵家の子息で慶応義塾大学3年生の調所五郎(24歳)。女性は静岡県駿東郡富岡の大資産家令嬢・湯山八重子(21歳)であることが判明した。二人の死体は遺族が引き取りに来るまで町内の寺に仮埋葬された。ところが翌日10日の朝、寺の職員が、女性の死体が消えているのに気づく。
周辺には女性が身に付けていた衣服が散乱していた。このことから、単なる心中事件から一転して、「女性の死体が持ち去られる」猟奇事件へと発展したのだった。警察は変質者による犯行と断定し、大磯町の消防組も協力して辺りの一斉捜索が行われた。そして翌日5月11日朝、墓地から300m離れた海岸の船小屋の砂地から、女性の全裸死体が発見された。
捜査の結果、町の火葬場職員橋本長吉(65歳)が逮捕された。警察は女性の死体の検死を行い、「死体はなんら傷つけられていなかった」と発表したが、橋本は、「資産家の令嬢の心中事件に異常な興奮を覚え、女の遺体を船小屋に運び出し、全裸にして悪戯したことを供述した。なんと大磯署は、「令嬢は清く汚れのない処女であった」と、異例の発表をした。
真相は定かでないが、大磯心中は人々の涙を誘い、『天国に結ぶ恋』というタイトルで映画化されて大ヒットとなる。天国でなくても地上で結ばれればと思うが、「結ばれる」意味が違う?「本当にふたりの恋は清かったのか?」について、疑い、疑われるは世の中の常、人の常。元新聞記者佐藤清彦は、『にっぽん心中考』で、大磯心中に疑問を投げかける。
首なし女性死体なども含む、身元不明者の年齢を推定するために、女性の穴(性器)の擦り減り具合を調べて年齢を推定すると警官の友人から聞いたが、擦り減るものらしい。佐藤は、二人を検死した産婦人科医を取材、「昨夜の最後を惜しんだ痕跡は医者なら分かる」と、医師の談話を書いている。が、それにしても心中死体の女性の穴を調べるのは何のため?
首がないわけではなく、身元も年齢も分かっているのに、一体何を調べるのか?まさか、やったか否かを調べるとも思えない。「純真無垢の処女」との発表は、医師の嘘か、医師からの真実を受けた警察の虚偽発表か。若き二人に対する心からの手向けであろう。美しいものは美しいままで終わらせるという、日本人の情死観が大きく影響しているのは間違いない。
情死というのは切ない。死ねばすべてが「無」であるからだ。恋愛は自己の確立という見方もできる。というより、自己の確立の過程そのものが恋愛である。つまり恋愛の過程において人は、異性の後ろに、異性の彼方なる幻影を見る。パスカルはパンセのなかでこう述べる。「人間の虚しさを思い知るなら、恋愛の原因とその結果とを考察すればよい。
恋愛の原因は何とも知れぬあるものであり、恋愛の結果は恐るべきものである」。「何とも知れぬあるもの」とは和訳で原文は、「un je ne sais quoi」となり、これは、「人と異性を結びつける不思議な衝動」の意。科学が進み性を多角的に捉えられているが性は未知である。「私たちがごく少ししか知っていないもの」というパスカルの嘆きも分かる。
恋愛が性の上に乗っかっているのは間違いない。性という「何ともしれないもの」がなければ、恋愛はあり得ない。という意味で、間違いなく性の上に乗っている。恋愛を通じて我々は、性の神秘で危険な働きはまさに、人間の日常性を否定する情熱である。それ程に強烈である性と恋愛だから、不倫あり、略奪愛あり、心中あり、嫉妬が嵩じて殺人に至る。
恋愛は人をエゴイストにすることも我々は知っている。相手を獲得したいという並々ならぬ衝動は、つまりは自己の獲得でもある。恋によって初めて強い自己が打ち立てられるのは経験的事実。「結婚を前提として付き合ってください」というのが、どういうところから出されるのか分からないが、こんな羞恥な言葉はないし、自由恋愛などできるはずもない。
「あなたを大切にしています」ということだろうが、大切にすることが結婚という餌なのか?「恋愛⇒結婚⇒幸福」という三位一体の信奉者が、今のような自由な時代にいるとは思えない。恋愛から結婚に至るのは自然といえば自然だが、「結婚を前提にした恋愛」って何だ?冴えない男の冴えない求愛に思える。「結婚を前提にした恋愛」なんて欺瞞でしかない。