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愛と性に悩む青春期 ④

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男爵家の子息で慶応義塾大の学生と大資産家令嬢の大磯・坂田山心中、愛親覚羅家の令嬢と大学生による天城山中も親の反対によるものだった。どちらも令嬢であり、令嬢とは斯くも弱き生き物であろうか、親に従順に躾けられた被害者と推察する。元禄16年(1703年)4月7日、醤油屋平野屋の手代徳兵衛と堂島新地の遊女お初が梅田曾根崎天神の森で心中を遂げた。

こちらは身分の低い遊女である。お初とのただならぬ関係を知った徳兵衛の叔父である平野屋の主人は、徳兵衛を見込むあまり姪と結ばせて自身の跡取りを画策、徳兵衛の継母に結納金を握らせて強引に話を進めようとした。恋仲お初をいずれ身請けし、妻に迎えようと考えていた徳兵衛は、この話を頑なに固辞する。ならばと平野屋の主人は金を返せと迫る。

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ばかりか怒りのあまり、「二度と大坂の地は踏ませない」ろ勘当を言い渡す。返済を渋る継母からやっとのことで金を取り返した徳兵衛だが、どうしても金が要るという友人の油屋・九平次に、3日限りの約束で平野屋への返済用の金を貸してしまう。期日を過ぎても九平次から返済は無く、それどころか、九平次は公衆の面前で徳兵衛を詐欺師呼ばわりした。

挙句、五人がかりで袋叩きにするなどし、徳兵衛の面目を失わせてしまう。兄弟と呼べるほどに信じていた男の手酷い裏切りにあった徳兵衛、結納金の横領がないことを死んで身の証を立てるほかに、名誉回復の手段を見いだせなかった。覚悟を決めた徳兵衛は、日も暮れてのち密かにお初のもとを訪れる。徳兵衛の気持ちに心を寄せたお初は一緒に死ぬことを決意する。

時は真夜中。お初と徳兵衛は手を取り合い、曽根崎の露天神の森に向かった。二人は連理木の松に縛り覚悟を確かめ合うが、最期に及んで徳兵衛は愛するお初の命をわが手で奪うのを躊躇う。お初は、「はやく、はやく」と徳兵衛を励ますのだった。それに励まされた徳兵衛は短刀でお初を刺し、返す刃で自らも命を絶った。二人の道行の段は以下の言葉で始まる。

「此の世のなごり。夜もなごり。死に行く身をたとふれば、あだしが原の道の霜」

公演は空前絶後の大成功を収め、近松は当時竹本座の抱えていた借財を、一挙に返済することとなった。日本人の心に宿る、「心中」という美学、別名「情死」は日本特有の習俗といわれているが、生きて結ばれない二人が死を選ぶという情動にロマンチシズムを感じるのは、何も日本人のみの特異感情というわけではない。ただし、西欧に情死文学はない。

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かくして現世で悲恋に満ちた最期をとげた二人の死を、「未来成仏うたがひなき恋の手本となりにけり」と、来世でのかたい契りとして結末と相成った。大坂中で話題となった実話の心中事件に触発された浄瑠璃作家の近松門左衛門は、事件の一か月後に、『曾根崎心中付り観音廻り』として脚色する。人形浄瑠璃の芝居に仕立て、大阪竹本座で上演を行った。

「ロミオとジュリエット」、「トリスタンとイゾルデ」は、一緒には死なないが、後追い心中の形をとっている。「白鳥の湖」の初版は、王子と白鳥が共に死ぬ。自殺は罪とするキリスト教国では、宗教的に自殺に禁忌をしていることで、その数は極度に少ない。むしろ来世を信じる仏教国の方が心中を肯定する感性はあろう。これを仏教用語で、「厭世主義」という。

仏教的な無常感、武士道的な禁欲主義などの影響もあってか、窮屈な社会の中で我々のご先祖様は、困難である男女の恋愛における最高の理想を、「情死」の中に発見、美学としたことで、それらが文学や芝居によって洗練されて行く。自分も日本人、情死の美学は他人であることが条件だ。自分の中には死を超越するものは、これまでも、今後も存在しないだろう。

「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」で始まる『葉隠』の誤解は、武士に簡単に命を捨てよと命じたわけでない。「武士道は死狂ひなり」という教えは、正気程度では大きな仕事はできない、気違いになって、死狂いしなければダメだ。忠も孝も、そうした倫理さえも踏み越えて、無二無三死狂いすれば、この内に忠孝はおのずから入ってくると諭している。

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この一文は『葉隠』の中で最も激超な調子で、武士道の行動性を強調したものだ。「死ぬことなど恐れない」の言葉は誰でも言える。武士でない我々現代人でも簡単に口に出せる。が、そうであるか否は惜しみなく命を捨てることでしか証明されない。それが侍の意地であり魂であった。武士道を愛した三島由紀夫にも意地で武士道精神を見せた部分もあろう。

命が惜しいなど、生ある者なら誰にでも分かること。二度と再生できないものを慈しむのは自然の理であるが、人間という言葉の動物の最大の矛盾は、「言行不一致」にある。三島は、「知行合一」の陽明学に心酔したが、決して命を簡単に捨てたのではない。その事は、「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」の後の言葉から、真の意味を探ることができる。

「二つ二つの場にて、早く死方に片付ばかり也。別に子細なし。胸すわって進む也、図に当らず、犬死などいふ事は、上方風の打ち上りたる武道なるべし。二つ二つの場にて、図に当るやうにする事は及ばざる事なり。我人、生る方がすき也。多分すきの方に理が付べし。毎朝毎夕、改めては死々、常住死身に成て居る時は、武道に自由を得、一生落度なく家職を仕課すべき也。」

重要なのは最後の行。毎朝、毎晩、いつでも死ぬ覚悟ができていたら、一生 職務を全うできると、生きることを前提として話が書かれている。三島の死も大塩平八郎の死も、いろいろな見方ができる。自分も年齢と共に変遷はあった。が、『葉隠』を読む限りにおいて、単なる無駄死にとはならない。大塩も三島も、彼らなりの仕事を果たした上の自決であろう。

イメージ 2「いつでも死ねる」という緊迫した死生観が、人を大事へと駆り立てる。禄を貪り、だらだらと生きるより、凝縮した生へと向かわせる緊張感。そんな三島であったようにも考える。あのS・ジョブズもスタンフォード大学の卒業スピーチで同じようなことを述べた。「今日で死ぬとしたら、今日は本当にすべきことをするか?」と私は毎日鏡に問いかけているのだと…

56年というジョブズの生は決して長くはなかった。それでも僅か28年の伊藤野枝の倍生きたことになる。それを思うと野枝の生は刹那であったが、彼女は数字以上の生を生きた人である。野枝は大杉と結婚という形をとらなかった。彼女はこう述べている。「結婚と恋愛は、共通な何物を持っていない。両者はまるで両極のように離れている」。この言葉に野枝が恋愛を大事にしたかったのがわかろう。

事実婚とはいえ、形の上では松方の終生愛人であった山本万里子は、仁科に略奪婚を詫びている一方で、略奪婚で松方を奪った仁科なら、自分の気持ちは理解してもらえるでしょうと述べている。伊藤野枝は不倫・略奪愛を悪びる事も、遜る事もなかった。「婦人公論」に以下の文を寄せている。「私は私の恋愛に成功した。私は朝夕を愛人と共にする事が出来た。

二人いれば、どのような苦しみにもさほどには感じなかった。私たちは本当に幸福であった。私たちの全部が、愛で完全に保たれた」。大正時代の女性はこの一文をどう受け止めただろうか?不倫を堂々と行い、結婚制度を否定する論文を書き、戸籍上の夫を捨てて妻ある男と、その愛人と、四角関係を演じた伊藤野枝という女性を、どのくらいの人が肯定できたろう。

野枝の考えは当時は斬新であり世間の批判の対象であったからだ。こうした野枝の考えは現代女性へと連なっていく。今では多くの女性が野枝を支持・共感するだろう。「空気のような夫婦」を理想というが、確かに空気は軽い。だから軽い夫婦を言うのか。人生の後半を楽しく過ごすためには、出来得る範囲において、夫婦の依存関係を解消するのがいい。

いい年になると、依存は負担になる。夫婦にあっても「和して同ぜず」でいいのではないか。少し前にも述べたが、夫婦間でも「ひとり」は大切。日本の家屋には書斎というスペースがない。3LDKマンションでは贅沢もいってられない。となると、外にその場所を求めることだ。秘密のアジトに愛人をかくまえなどとはいってない、そんな気力も財力もなかろうし…。

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ウォーキングだって立派なひとり時間、人遊びである。夫婦でする者もいるが自由。「ひとり遊び」を基本にした方が、遊びの幅が広がり、心身も充実する。邪魔というのではなく、ひとりが良いということ。淋しがり屋といいつつ、いつまでもべたべたは疲弊する。フランスの作家ラ・ブリュイエールは言う。「われわれの悩みはすべて、ひとりでいられないことからもたらされる。」

「愛と性に悩む青春期 」という表題ながら、高齢期の事を書いている。青春という過去の記憶より、高齢者という実在感が優先するようだ。何も無理をすることなかれ、頭に浮かぶことを書けばいい。表題に踊らされることも、表題と中身の不一致に叱りを受けることもない。以前、そういう批判はあるにはあった。が、他者ではなく自己を主体に書いているわけだ。


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