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Channel: 死ぬまで生きよう!
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愛と性に悩む青春期 ①

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恋愛、社会問題、時事、思想、生き方、犯罪、死刑制度、自殺…と書いたが、これ以外に何を話し合ったかを思い出す。20歳そこそこだから、結婚や家庭や子育てについての記憶はない。音楽やアーチストの話はしたな。中学の音楽の教科書で教わる、ドイツの三大といえば、バッハ(Bach)、ベートーベン(Beethoven)、ブラームス(Brahms)のことだ。

若気の至りか、「女の三大」を、ブラウス(blouse)、ブルマー(bloomers)、ブラジャー (brassiere)などと、よくもそんなしょーもないことを女に向けて言ったものかと、今に思えば呆れてしまう。さらに付き合うのを避ける女の三大として、ブス、バカ、美容師などが必須アイテムだったが、自分はこの考えに反抗的で、いずれも良い女と見ていた。

美人は3日で飽きるが、ブスのいいところを発掘するのが楽しい。また、主体性などまるでない無害のバカは男にとっていい女だった。賢い女も悪くはないが、当時女の賢さとは勉強できることをいい、知識遊びはできても、知恵遊びはできなかった。ひょんなことから麻布の高級美容室の見習い美容師と付き合った。そこには有名芸能人が来るとの話が楽しかった。

音楽談義だが、自分はポピュラー音楽の五大が好きだった。ボブ・ディラン(Bob Dylan)、ビートルズ(Beatles)、ビージーズ(Bee Gees)、ビーチ・ボーイズ(Beach Boys)に、少し遅れてビリー・ジョエル(Billy Joel)。ビリーの大ヒット曲、「ストレンジャー」は1977年である。同曲をラジオで初めて聴いたときは、エルトン・ジョン(Elton John)と錯覚する程に声が似ていた。

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そうした洋楽アーチストや、日本のフォークソング談義をバカみたいに熱く語りあった。何であんな白熱した言い合いができたのだろう?ビートルズ vsストーンズ、吉田拓郎 vs 井上陽水に分かれて貶し合った。当時は小汚いストーンズが大嫌いだったし、陽水(の声はいいが下手くそなギター)は好きになれなかった。アコギのテクニックにスリーフィンガーがある。

ディランはやらないが、ピーター・ポール&マリーのスリーフィンガーは正確無比で圧倒されたし、拓郎の、「花嫁になる君に」のスリーフィンガーは、「スゲ~」の一言で、これは石川鷹彦などのスタジオミュージシャンのプレイかと思いきや、テレビで拓郎の実演を観て驚いた。martinD-35の乾いた音に憧れ、いつの日かこのギターを手にしたいと夢見ていた。


さて、恋愛について語り合ったことは今でも覚えている。なぜなら、人間の基本的な恋愛観はそうそう変わるものではないだろうし、50年前も今も変わっていない。変わったのはむしろ結婚観だろう。できるなら結婚は男も女も成熟した40歳手前くらいが理想と思うが、なかなかそうもいかない。その意味で現在婚活中の40前女性は、男を見る目がシビアであろう。

シビアとは、「非常に厳しい」、「途方もなく過酷」などの意味で、シビアであり過ぎるゆえに相手を見つけられないのは悲惨である。人間性についてはシビアでいいが、人間性以外の収入や容姿や学歴にまで欲を出すからだ。確かに結婚は、「勢い」の部分がある。やって見なければ分からない謎の部分が多いからで、用心深い人、保守志向の人はそれができない。

「当たって砕けろ」というのは比喩であり、必ずしも当たれば砕け散るわけではないが、臆病な人間は砕けたくないのだろう。臆病な人間をたくさん見てきたが、とてもあんなではやってられない、生きてて何が楽しいのかと思うだけだった。そんなことは臆病な人間にとっては耳に入らないし、彼(彼女)らにとっては、臆病が普通なのだから、勇気は異常となる。

これを勇気が普通で臆病は異常と思うようになれば、自己変革を試みる。勇気の発露はそういうところから出るものかと。こういう性格になるのも親が大きく関与している。三つ子の魂ではないが、幼少時期に多くを禁止にしたりの過保護がこういう人間を作る。「三つ子の魂百まで」という格言は、昔から言われ、良く知られ、母親の心構えとして重宝された。

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根拠がないという意見もあったが、人間形成科学の発達とともに、この、「三つ子の魂百まで」は、精神医学においても正しい事であり、さらには従来考えられていたよりも、さらに人間的な基礎が三歳までに確立されることが分かった。登校拒否、家庭内暴力、すぐにキレる子など、心身の成長発達における歪なども、三歳までに基礎ができることも判明した。

結婚して子育てを体験するうちに、親というのはこれ以上に大事なことはないなと感じるようになったが、独身時代の最大の関心事は、当然ながら異性であり、異性との恋愛である。「恋愛」というのは、「恋うる心」と、「愛情の発露」だが、20歳そこそこの人間にとっての恋愛が、本当に愛なのか?異性を恋する気持ちは真っ当でも、愛の本質は性愛ではないのか?

そういう自問も含めて、突っ込んだ本質を突き詰めるなどをした。哲学がそうであるように、本質を突き詰めるところで出てくるものにこそ、「真理」ではないかと考えていた。今でもそれは変わらない。どうせ何かを書くなら、人が書かないこと、考えないこと、避けて通ろうとすること、そういうものの中に本質があるとし、躊躇うことなく書いている。

つまらぬ利害に蹂躙されていては、事の本質は見えてはこない。自分を偽り、他者を偽るのが当たり前の世の中にあって、本質を見よう、見出そうとする行為こそ死ぬ前に与えられた人間の課題であろう。もはやこの年齢で怖いもの何もない。確かに自分は若い時代から、こう発言すると人にどう思われるがなく、むしろこう発言すると人はどう反応するか?に興味があった。

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だからかテレビ番組でも、「ドッキリカメラ」が最高に面白く、あれ程人間の本質を現わすものはないと感じていた。無防備の時の人間こそが真の人間である。驚かせることだけではないが、自身の利害に拘ることなく、無防備的に思考するなら、それはそれで本質理解に繋がろう。それくらいに世の中は、人間の社会というのは嘘にまみれ、人はその一員であろうとする。

愛は性ではない。愛情は性欲とは違う。そのように思わされた純潔教育世代の我々にとって、「愛と性」の不確実性を肯定するのは勇気がいった。愛は美しく、性は醜いものというイメージを与えられていた。確実性とは、確かで疑いのない事。疑う事すらできない事。の意味だが、不確実性とはその反対で、不確かで疑いの多き事とするが、以下の指摘がある。

不確実性とは、意思決定者のコントロールし得ない事象の生起の仕方にさまざまな可能性があり、しかもいずれの事象が確実に起こるか判明しないとき、その意思決定者の不確かな気持ちを指していう。決定理論では、確実性のもとでの意思決定、リスクのもとでの意思決定、不確実性での意思決定の3つに区分される。分かる人も分からない人もいよう。

分からない人は、「確実でないこと」でいいだろう。 そのことを踏まえ、大人の考えとして一般論をいうなら、過去において、愛と性に確実性が存在した時代があったのか?今後の人間の世において、愛と性に確実性が見いだせる時代がくることがあるのだろうか?過去においてなかったし、これからも来るとは思えない。断言する理由は難しいことではない。

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ようするに、人間の心に関わることに、「確実」や、「絶対」というのはない。これは身も蓋もないようだが、当たり前のこと。「絶対というのは絶対にない」と若い時代に言い合ったが、「人間は絶対に死ぬだろう?それでも絶対はないのか?」という反論は当たり前にあった。自分は、「訂正!死以外に絶対はないとすべきだ」としたが、相手はいろいろ絶対を挙げる。

絶対がないとするなら絶対にないのか?絶対が絶対ないなら、その事実が絶対であり、絶対が絶対ないと言い切れないなら、絶対があると言うことになる。何事を否定されても、「だから何?」、「それで?」、「だったら?」の揚げ足取りでは、議論というより屁理屈の応酬となる。よって、真剣に話し合う相手に相応しくない。絶対のパラドクスというのがある。

「この世に絶対はない」という事が絶対だ。が、これは、「この世に絶対はある」事になる。が、「絶対」という言葉自体が絶対でないとするなら、絶対に、「絶対はない」ということにもなる。まあ、絶対パラドクスは置いておき、数学や物理の世界に絶対は存在するが、人間という生き物に関する、「絶対」は、いずれは誰もが死に至る、という事くらいではないか。

であるからこそ、人間は、「愛や性」に絶対を模索するのではないか。人は絶対に死ぬから死を恐れ、しかるに絶対に確実な愛を獲得する不可能という現実もあって、不安と苦悩に襲われる。人間には不安に対する免疫力や耐性がさまざまあり、不安を解消するもっと手っ取り早い方法は、そのことについて考えないことだ。おそらく、この方法が一番多く用いられているのでは?

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余程の高齢者重病患者、もしくは死刑判決の受刑者くらいしか、毎日死の不安に襲われることはないが、愛と性については健康な若い男女の多くが、「確実でもなければ、絶対ではないのでは?」という疑問を持ち悩むことになる。それを避けるために仕事や趣味に埋没する。としつつも、目の前で幸せそうなカップルを見ると、嫉妬したり、羨んだりするものだ。

「愛」と「性」をひとまとめに言うが、個々に別のものである。二つが密接にかかわるものだから。「男女」などとひとまとめに言う。とはいえ、性のない恋愛関係もあり、愛のない性行為などは巷に氾濫している。一緒にするから「道徳」だの「倫理」などというが、別だと思えばさまざまな愛と性がある。性は分かり易いが、そもそも愛とは何なのか?実態がつかみにくい。


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