と、いっても頭の中での事。さまざまな思い出はあるが、やはり語り合ったことだろう。若者は朝まで語り合うエネルギーがある。口角泡を飛ばし、唾をとばし、時に胸ぐらを掴み合いながら…。穏やかな会話というより、自己主張がメインの対話こそが若さの証明だった。恋愛、社会問題、時事、思想、生き方、犯罪、死刑の是非、自殺についてなど、膝を突き合わせた。
♪ 青春のうしろ姿を人はみな忘れてしまう…、日々の喧騒に我を忘れることはあるが、ほのかに香る青春の日々を忘れることは決してない。♪ 泣きながらちぎった写真…、というのはないが、これはいかにも女性らしいシュチエーション。♪ わけもなく憎らしい…、の情緒に至っては意味すらわからない。憎いわけはありそうに思うが、失恋の痛手は、憎めない憎しみなのか。
よく青春時代を思い出す。いろいろと思い廻らせば、その時見えなかったものが見えてくる。実感というのは、その場、その時に感じるものだが、青春期に感じて行動した基準が、その場の実感というものであったろう。頭で考えた上の行動も含めて実感だが、大人になって眺めると、正しくなかったと思うことがほとんど。バカな自分だったと笑えてしまう。
似た者同士というが、人は気の合う相手といるのが楽であろう。が、自分の場合、まるで異なる性格の友人が多かった。それを今、なぜかと考えてみると、異性に興味が沸くように、異なる性格の人間の方に興味が沸いたようだ。今では思慮深い部分もあるが、若い頃の自分は思考行動型ではなかった。「思い立ったが吉日」、「善は急げ」の行動派であった。
思考も厳密にはエネルギーだが、行動というのは見るからにエネルギーの放出である。若さというのが有り余るエネルギーの放出であるのを、多くの人間は実感しただろう。が、自分の友人でのKはまるで行動しない奴だった。思慮深いといえば聞こえはいいが、してみない事には分からない行動をしないで、分かったような結論ばかりを言うやつだった。
有り余るエネルギーを出し惜しみして何ぞ青春か?それでこそ現実に対する関心が沸き、さらには学ぶ意欲にもつながる。失敗であれ、成功であれ、どちらからも学べるし、「学び」への興味も強くなる。どうも、「学ぶ」というと勉学や知識の習得に誤解されるが、小中学校の授業に、「体験学習」というのがある。工場見学に限らず、遠足も修学旅行も体験学習だ。
青春横臥=学びであり、これらは矛盾するものではない。何か知らんが、今の時代は早くから塾に缶ズメにしておくのが、得だみたいな考えは、塾や予備校の回し者であろう。大切なエネルギーは無駄に使わず蓄えて、今はしっかり勉強すべし、とこういう時代に人間としての未来はない。普通の人間が量産されるだけである。親は保守的だから、普通を望むようだ。
勉強をするのが「今でしょ」なら、それ以外の行動はいつするのだ?塾の回し者でない自分からいわせると、「今でしょ!」である。その時代には、その時代だけの人生があるのだから、18歳だけの人生、40歳だけの人生、60歳だけの人生があるのよ。それを否定する者には自分の言う事は理解できないだろうが、18歳で味わえないことが40歳で味わえるのか?
つまり、青春時代に思い切り体験しておかねばならぬことは、もはや二度と体験できないのだ。40歳では味わえない、50歳でも味わえない、ただ、青春の時にだけしか味わえない感激というものはあるのだ。海舟や龍馬に心酔する友人のKは、「自分は立派なこと、価値のある偉大なことをすべき」と思う奴だった。だからか、我々のような無軌道的行動を批判した。
彼の批判の根拠が面白く、興味もあったからかちょっかいを出したりした。彼は、「よくそんなつまらんことやっていられるな?」と逆に自分にちょっかいを出すのだ。彼の場合はちょっかいというのではなく、真剣に真面目に指導者風にいう。「小さなことや、日常の他愛もないことは、自分には相応しくなく、やる価値も見いだせない」と思っている男なのだ。
彼はどんな大物になるのだろうか?と、その時は思っていた。こういう人間が、とてつもなく偉大な人物になるのだろう、という部分もあった。それほどに彼はいつも遠くばかり眺めていた。そんな彼を自分は肯定的に眺めていたのだ。確か40歳の区切りの年だったが、人間として「不惑」と言われる年代に、ふと彼のことを思い出し、自宅に電話を入れてみた。
彼の実家は静岡県沼津市で、20年を経て声や口調は変わらぬままだった。彼は東京時代も静岡訛りを直さない奴だから、地元に帰って東京言葉を使うわずがない。彼は独身であり、仕事は段ボール工場で働いていた。約1時間くらい話した中で、意外なことを言った。「俺はお前が羨ましくてな、だから虚勢をはって、自分が壊れないようにしていた」。「そうなんか…」
「自分ができないことを、しないと人に思わせていた。だから今だに嫁も見つけられん。女は苦手だから…」。性格も真逆で強気で能弁な彼に反論するのは面白かった。こんなやり取りは記憶にある。「目先の小さきことをやれない人間が、大きなことができるはずがない」、「やる気がない、やりたくないと、エネルギーを使わなければ、衰弱するだけだ」などなど…。
反論しながら内実彼は大物になる予感を抱いていた。彼は、「無駄なエネルギーは使いたくない、いざという時のために温存しておくべし」との持論を所有していた。こちらの価値観を変えられる話術が彼にあった。彼の論理の破綻は今ならよく分かる。エネルギーの使い方などと効率について、そういう打算的なことを言うこと自体が消極さの現れである。
そういいながら動かない、行動しないことがエネルギーを消滅させる。消費し、継ぎ足し、また消費して継ぎ足す。それがエネルギーの本当の使い方で、効率など考えるべきでない。エネルギーを貯めると劣化し腐る。彼は、使いたくなかったのではなく、使う術を知らなかった。近くのものを見ようとせず、遠くばかり見ていた。その方が行動しないで済む。
結局彼は、「できない」を「しない」というネガティブな自尊心をを見せていた。「快眠」、「快食」、「快便」などは、低水準の低い日常必須行為とみられがちだが、それすらできないで、遠く彼方にあることが自分に相応しいことだというのは滑稽なことであるように、活動的、意欲的な人は、決して小さいことをバカにしたり、おろそかにしないものだ。
あのライオンでさえ、ウサギのような小さな獲物を捕らえるときにおいても全力を尽くすものだ。「大きいことしたしたくない」人に、大物になる資質はないということになる。Kが大物になれば、友人たる自分もハナが高くなるとの期待はあったが、今は彼の素朴な生活の繁栄を願う。大物になるだけが人の人生ではないのだから。と、心のエールを贈っておく。
彼の優越意識は劣等感であった。劣等感は人間の弱さの一つであり、扱いにくいものでもある。彼はその鼻っ柱の高さのせいもあって、人から好かれてはなかった。背の低い者が背の高い者を妬んだとするなら、二人は友達にはなれない。成功した人に対して妬みを抱き、陰口をきくようなら、二人は親しい友になれない。いうまでもない劣等感はネガティブなもの。
ならば優越感はポジティブなものなのか?そのように言われるが、優越感は劣等感の裏返しである場合が多い。あるエリート官僚がいた。彼は優越感を持っている。ところが、そんなことを全く問題にしない、気にもとめない人の中にいたら、「俺はエリート官僚なのだ」と威張りだすか、我慢をしてそこにいるか、もしくは居心地が悪いからその場を後にするか。
どちらにせよ、彼は自分の優越意識を他人に認めてもらいたい、もしくはそれが記されているような席次や挨拶の順序などが心地よい。つまり、優越感とはいえどもそれを披露できないなら折角の優越感も無意味となる。持って不幸な優越感というのはいくらでも体験する。将棋仲間のIさんは将棋の段位の免状と、大会入賞の賞状を車の中に入れて持ち歩いている。
それを初対面の人に見せる。「ワシもみた」、「見せられた」という。自分が見たせられた時は「ふ~ん」くらいは言ったか言わなかった覚えがない。何とも思わなかったからだ。Iさんの棋力は知っているから、免状の段位などは何の基準にならない。さらにIさんは、大会ではいつも2級以下のクラスに出場する。お咎めはないが、本人もそれが順当と思っているようだ。
段位の免状などは棋力を表すものではないが、Iさんはそれを見せたいのだ。なぜ見せたい?自慢であろう。なぜに自慢?力が段位に伴っていないからだ。力がなくても有段者と言いたいIさん。免状や賞状を持ち歩くことなど、普通は誰もしない。だから話題にもなる。が、それが彼の性格だ。人がどのように思うかなど考えない。だからできるし、その意味で変わった人。
Iさんは仲間うちで、「自分より弱い相手としかしない人」と言われている。こうしたネガティブなイメージは羞恥であるが、彼の意思行動だから仕方がない。人の下にいるのが嫌なのだろう。人はいろいろで面白い。いつも何かに抑えつけられてるような人、自分の気持ちに素直になれない人、人の言葉にすぐに傷つく人、いつもいらいら欲求不満の人など…
そうした人たちは自分の生活の範囲、周囲の世界にいらいらの原因を求め、だからかいつも自分の周囲ばかり非難して生きている。なぜ自分を変えようとはしないのか?それが先決だが、そういう発想がないのが不思議に思える。確かに自己変革は簡単ではない。しんどいし、骨が折れる。人は自分と、自分は人と同じではないのに、人間の思考基準は常に自分だ。
当たり前の事だが、かといって自分の考えを強引に押し付けないことだ。他人の魅力に気づくことも大事。他人を認める度量も大事。お山の大将を自負したところで、他人は自分を認めない。認めてもらおうと無理をし、躍起になるのはいかにも見苦しい。威張ることもない、羨むこともない。「人は人でいいし、自分は自分でいい」に行き着けば人間的度量も増す。