「常連さん」という言葉をいろいろ耳にし、どちらかというと肯定的に捉えられているようだが、自分などは過去も現在も、「常連さん」という経験は無縁だ。酒好きでさえ、「〇〇に行くのはいいけど、常連ばかりで後ろめたい」という声も耳にするし、常連は飲み屋の勲章というが、自由主義の自分に常連はむしろ拘束と感じられる。最近はネット内の常連を耳にする。
かつては親密な関係の相手は1人、2人いたが、常連と称する集団の経験はなく、自分が訪れる常連の場はなかった。持ち上げたり貶したりの意図はないが、他人のブログのコメントに、自分のブログのように思うところを率直に記すのはよくないと、あることを契機に判断し、見るだけに留めている。たま~になので自分の足跡を残すこともあり、残さないこともある。
一日一句の格言や慣用句を記している、ただそれだけの数行にも満たない記事に100人を超えた人が評価するのをビックラ驚きもするが、これを常連の、「証」というのだろう。また、壮絶な量の日々のコメントに、同じような返信をするブログも楽しみなくしてできないと、感心する。自分の長文ブログも、他者から見ればよくも書けると言われると同じかと…。
自分は、「書く=知る」、あるいは、「知る≒行う」の楽しみだ。好きに書き、それに合わせた画材や動画を貼ったりの自己満足だが、コミュニケーションを楽しむ人もいる。会話も楽しみと同様、異論・反論などの対話も楽しいものだ。というより、「ものだった」が正解で、最近は異なる意見や論を戦わせるのが面倒になってきた。若い頃には発奮したものだが、これも経年の丸さかと。
「お父さんらしくなくなった」、「昔と全然ちがうよ」と子どもは言うが、確かにその通り、子育て期間と終了した今では自身は別人である。人間は同じだが、父親という役目は終わってしまった。「役目」が終われば残るのは、「地」である。親という役目をやっているときの自分は、自分の理想とする父親像を頭に置き、あるいは描いて演じていたに過ぎない。
教師は教師のように、警察官はそのように、宗教の教祖はそのように演じるのが「役目」というものだ。最近は、「役目」の箍が取れたのか、自制心がおっつかないのか、警察が泥棒したり、教育者が子どもを買春したり、弁護士が違法な所業で捕まるなどが多い時代だ。「倫理観の欠如」などと簡単にいうが、「役目」を負ったものが、「役目」に不向きは問題である。
「倫理の欠如」などと簡単に言う事ではない。昔、教師になった友人が、キレる子ども蔓延時代に言い合ったことがある。言い合いこそが自分の信条と粋がってた若き日の想い出だ。彼は毎日学校に行くのが億劫だという。子どもは教師のいうことなど聞かず、強くいえば言い過ぎたと親から電話がある。踏んだり蹴ったりの板挟みで、教師がつくづく嫌になったという。
あげく、自分は奨学金で大学に行った。教師になったのは奨学金を返還しなくていいからで、本当は企業に就職したかった。教育などにはまるで興味も関心もなかった。まあ、友人だからホンネをいうのだろうし、ホンネだから正直で評価する部分はあるが、自分は友人に対して猛烈に腹を立てた。「辞めたいから愚痴るのか、辞めたくないから愚痴るのか、どっちだ?」
彼は、「多分…、後者だろうな」といった。「愚痴るだけで何も可決しないのは知ってるだろうし、男がゴチャゴチャ愚痴るなよ。教師ってそういう人種か?」これには彼も頭にきたのか、「サラリーマンが居酒屋で愚痴を言わないとでもいうのか?みんな現実に対して愚痴の一つ二つこぼすだろ?」というので、さらに自分はその言葉に血が昇っていった。
「言いたい愚痴だろうが俺の前でいうな。俺は愚痴は言うのも聞くのも大嫌いだ。友達だから愚痴っていいなど女の世界よ」。「分かった!お前の前では言わん」というので、「出来るなら誰の前でも言わず孤軍奮闘せーよ。愚痴は自分を甘やかせる」。「お前らしいな」というので、「『お前らしい』は批判でも肯定でもいいが、とにかく愚痴は止めろ」と押す。
「誰でもいう」などと、愚痴を正当化するから言いたくなる。言わないコツは愚痴を批判する事。「人が言っても自分は言わない」それが批判。腹が立ったのは愚痴その事ではなく、彼がどういう理由で教師になった、そんなことはどうでもいい。が、教師になり、現実に教師という役目を負ってる以上、「自分は教師になりたくなかった」は言うべきでない。
そう思いながら教師を続けることに意味はない。では、何のために続けているのか?それを惰性と呼ぶ。サラリーマンが惰性で生きるのと、教師が惰性で生きるのとはまるで違う。そもそも教育というのは、「人が人を教育する」という傲慢さの上に成り立っている。だからその救いというのは、一生懸命にやる事でしかなく、それが傲慢を許されることになる。
人間は生身で気分屋だから、「常連さん」にも、「常連になった」の苦悩はあろう。SNSやブログなどの常連さんも、自らの都合で行動すれば負担を感じないが、顔を出さなければ(相手に)悪い、コメントをしなければ悪いという風に、相手主体になりやすい。何事も義務は負担になりやすいもの、そこに、「行く」、「行かない」は義務より権利とするのが楽に決まっている。
積極的な交流を楽しむ、生きがいにする、「場」の賑わいを誇るのもいいが、人間関係のストレスは、主体が自分でなく相手によって引きおこされることを経験で知る自分は、後の災いとなろう種は最初から撒かないよう心掛ける。「災いは最初に摘み取るべし」の諺もある。常連であることを誇る客もいるが、「うちは常連さんだけ」を誇る店の経営者もいる。
そういう店には、「常連さん以外お断り!」と張り紙がある。これが何を意味するか?常連にならねばならないという、暗黙のステータスとなる。人間の心理は微妙で面白い。社会でステータスな人ほど、特別な環境を求める。それがステータスという自尊心である。「status」は、地位、身分、立場、状況などの意味で、本来は地位が低い場合にも使われる。
が、日本語的にステータスをいう場合、高い意味に使われている。したがって、そんな場であれ、常連を沢山持つのがステータスなのだ。常連の悩みはいろいろ聞く。不景気で会社が火の車でも、男のプライドか、借金してでもバーに通い詰める貧乏社長もいる。落ち目の芸能人が虚飾を捨てられないのは、小室哲哉などの例もあり、どん底に落ちてやっと解放される。
ハリウッドのセレブなどは落ち目ぶりもケタが違う。高級車45台を所有するジョニー・デップがとんでもない浪費癖で破産寸前と報じられている。彼は南フランスの城やバハマ諸島のプライベート・アイランドやハリウッドに複数の豪邸など、14の不動産に7,500万ドル(約86億2,500万円)を費やし、プライベート飛行機に月額20万ドル(約2,300万円)かけていた。
会員制バーの常連というしょぼい自尊心にくらべて、確かにケタが違うし、想像すらも不可能である。しょぼいクラブの常連といえども、見栄で行かねばというストレスを持つ人は、スッキリ止めた方がいい。「常連」となっても、行動原理が自分であればいいが、「常連」の代名詞がついた以降、なぜか普通に戻せないという。これも、「空気感」という束縛だ。
山本七平は、『「あたりまえ」の研究』の中で、日本人の原理として、「見えざる原理」を指摘する。自分にとって、相手にとって、いわゆるあたりまえとして認識された行動が、実は自身の負担の中で発生していたりする。いずれかが我慢をし、負担をすることで、「あたりまえ」を維持しているのだ。「No!」が言えない内向的な日本人の習性というしかない。
自由に生きることは、「負担」を排除することである。今は負担でなく、率先であっても、慣れが率先を負担に変えることはある。その時、自分にも相手にも遠慮なく適宜に行動できるかというと、そうもいかない。情況が変わっても、思考を変えられない。今あることを変えることに勇気が出ない。変えることに恐怖に感じるひとは、他者に認知されて生きてると感じる人間だ。
自由を楽しむ人間は相手に媚びないし、相手をも自分に媚びさせることをしない。利害関係がない、常にフラットな人間関係を好む。(相手に)何かをしてあげてるというのは、時には驕りになり、(相手に)何かをしてもらうのは、最初は依存であれ、いつしか弱みや負担になる。人間は、その場、その時だけの事しか考えないから、後に災いをきたすが、そこを知るべし。
「今でしょ!」なるキャッチが流行った。自分は好きではない言葉だった。「今だけを考えた今ではダメ」で、先をも考えた、「今」であるべき。それをしないで、「今」、「今」、「今」では、考えなかった部分における後悔が現れる。優柔不断で行動できない人間に煽る言葉と捉えていたが、行動力のある人間は、こういうまやかしの言葉に迎合しないだろう。