総務省が昨年10月発表した平成27年国勢調査確定値で日本の総人口は、大正9(1920)年の調査開始以来初の減少に転じた。厚労省がまとめる人口動態統計の年間推計でも、2016年に生まれた子どもの数が、1899(明治32)年の統計開始以来初めて100万人を割り、98万1000人にとどまる見通しである。こうした少子化の最も大きい要因が結婚しない男女の増加であろう。
自分の過去を振り返っても、結婚に憧れがあった。その理由は、社会人として一人前と認知されることが大きかったが、自分の二世はどのような顔をしているのかという素朴な期待もあった。それにしても昨今の若い男女はなぜ結婚しないのか?結婚しない理由には何が考えられるのか。自分たちの時代と比べて今の若者は人生にどういう価値観を持っているのか?
平成28年版少子化対策白書(内閣府)によると、国立社会保障・人口問題研究所が実施した「出生動向基本調査(独身者調査)」では、「いずれ結婚するつもり」と考える未婚者(18~34歳)の割合は、2010年で男性86.3%、女性89.4%であった。1987年時の男性91.8%、女性92.9%よりは下がりはしたが、それでも結婚に対する意欲が高い水準にあるのは数字に表れている。
未婚者(25~34歳)に独身でいる理由を問うと、「適当な相手にめぐり会わない」の選択肢を選ぶ割合が男性46.2%、女性51.3%と最も多く、次いで、「まだ必要性を感じない」男性31.2%、女性30.4%とある。しかし一方で、男性は、「結婚資金が足りない」(30.3%)も、大きな理由になっている。(2010年第14回調査結果より、回答は選択肢から3つまで選択可)
となると、収入の違いが結婚に影響しているのか。25~29歳、30~34歳、35~39歳の各年代で、年収別に配偶者がいる男性の割合の調査結果えおみると、25~29歳で年収100万円未満の男性では、結婚している割合は1割を切っているが、500万円以上の年収がある場合、およそ半数が結婚している結果になっており、あきらかに収入が結婚を阻害しているのが分かる。
昔の大人たちは、「一人は食えなくても、二人は食える」などと言っていたもので、若者はその言葉を、「そういうものか」と受け入れていたものだ。収入がないから結婚できないという現実があったかなかったか、個々の価値観によるものだが、駆け落ち同然に一緒になったという事例は、まさにロマンであり、貧困に耐えて頑張ることは美しいものであった。。
「糟糠の妻は堂より下さず」という言葉をこんにち耳にすることはない。意味さえ知らぬ世代が圧倒する時代である。「糟糠」とは米かす(米ぬか)をいい、転じて粗末な食物を意味する。「糟糠の妻は堂より下さず」とは、粗末な物しか食べられない貧しさを共にした妻は、立身出世をした暁においても、家から追い出すわけにはいかないもの。という意味である。
この言葉を久しぶりにみみにしたのが、ベッキーとの不倫で騒がれた、「ゲスの極み乙女」の川谷絵音の妻である。彼女は、夢と希望を持って上京。そこで知り合った川谷のバンド活動を裏から支え、売れない時代にあって、雑用など積極的に奉仕していた。その甲斐あって川谷と結婚した。ベッキーとの不倫発覚後にあるメディアが、「糟糠の妻」を充てていた。
妻への同情は多く、「川谷絵音の妻が激しく悲惨な21の理由」というサイトもある。どんなに男に尽くそうと、また、男が女に尽くそうとも、人の移り気、気持ちの変わるさまに抗うことはできない。相手に貢いでばかりで幸せになるわけでもない。貢いでくれる相手に情を感じる人もいようが、都合よく利用する人間もいる。貢ぐ側が代償を求めるものでもない。
心血を注いで育てたのに、親の期待を裏切ったと子を責める親。感謝されたいから育てたんか?無償の愛を与えることが愛情だろう。公金を横領してまで女に貢ぐ男もいたが、そういう男は心の底に自己無価値感をこびりつかせている。「貢がねば捨てられる」という冴えない男である。そのようにしか感じられないのは、自分に自信がない、価値がない。
自分は物欲の強い女を避けた。自分は人であって、物ではない。物欲の強い女は、人が物にしか見えないのだろう。あるいは物を得る道具としての人である。冗談じゃないよ、こういうバカ女!なぜ、誕生日、なぜクリスマスに贈り物をせねばならない?期待するのも、されるのも羞恥を感じる。主体的な愛情で、期日に関係なく、贈りたい日にそれをしたい。
世に中の多くが、いや世界の皆がそうするのはいい。「お決まりの日」の期待より、期待のない普段の日でも愛情に変わりない。自分が、「お決まりの日」というのを、なぜに虚礼と感じるようになったか分からないが、ワザとらしいことをする不自然さには耐え難い羞恥を抱く。少なからず、相手の期待が見えるのが嫌なのだ。同時に自分の期待も一掃する。
「事」の善悪・是非というより、嫌なことは1000人中自分ひとりであっても避ける。したくない。物は言い方である。それだけ自分の価値観を大事にしたいのだ。人がするからするではなく、自分がしたいときにした。批判はあろうが、クリスマスや誕生日というのは、自分にとって虚礼に映る。人はそれをひねくれてるというが、ひねくれ者にも一分の利あり。
誕生日を覚えているのに知らないふりをする人は多い。なぜとぼけるのか?を考えると原因は見えてくる。そんなことでいいのか?当たり前のことがいかに不自然で成り立っているか?だが、人がいいならいい。子どもに、父の日・誕生日プレゼントを父親命令で禁じた自分は、無視されて哀しいという世の父を笑っていた。そんなにチョコがもらいたいのか?
当たり前は実は当たり前ではなく、当たり前でないものこそ、本当の当たり前である。人には押し付けないが、極めて少数派であることが楽しい。単にそれだけだ。「恋人の頃や、新婚の頃はもらえたのに…」などとバカなことをいう。あの頃と比べてお前は髪も抜け、腹もでてきたろうに…?「昔はものを思はざりけり」だが、耐えられないなら不倫しろ。
見境なく相手に物を求め、また、見境なく相手に貢ぐのは不幸な人間である。相手の欲望の代償ではない愛情の対象であるべきだ。貢ぎの本質は、「幼児的依存心」だが、、自己無価値感に悩む人はそうした相手を峻別できない。貢ぎの本質が愛情でないように貢がせるのも愛情でない。逢わない友、語り合わない友があるように、物の介在ない人間関係もある。
いつから「収入がないから結婚できない」という時代になったのか?「お金なんかじゃない。貧乏でもいいじゃない」が、美しいのは分かっているが、それを欺瞞とみるのだろうか?皆が貧しかった時代にそうした斜め目線はなかった。確かに白書に記された数字をみれば、若い世代の収入は、20年前とくらべて低所得にシフトしている。正社員率低さも問題だ。
正社員の男性は、25~29歳・31.7%、30~34歳・57.8%が既婚者となっているが、パート・アルバイト雇用の男性は、25~29歳・7.4%、30~34歳・13.6%と有配偶者率が大きく下がり、就労形態によって家庭を持つ割合に大きな違いが生じていることがうかがえる。(出典:2014年・労働政策研究・研修機構「若者の就業状況・キャリア・職業能力開発の現状」)。
数字ばかりでは分からないことも確かにある。自分が今、若者であれば実感的に分かることもあろうが、数字だけでしかとらえないから、現実感に乏しいのは仕方ない。ずいぶん前から取り組みが行われている少子化は、改善の兆しが表れていない。少子化の問題は、世帯の収入が少ないからと思いがちだが、実は豊かになり過ぎたこの国が抱える問題でもある。
つまり地球上のどこの国でも、少子化は豊かになった国でどこでも起きた現象で、詳細は省くが、これには「人口転換」という社会学的要因がある。エッセイストの酒井順子は、2003年に『負け犬の遠吠え』を著わした。酒井は自由に、優雅に暮らしているように見える30代以上、未婚、子なしの女性を、実は人生の敗者ではないかと疑い、考察の末に書いたという。
そんな彼女も50歳。昨年は、『子の無い人生』を出版して話題となる。「女の人生を左右するのは、結婚しているか否かではなく、子どもがいるかいないかだ」という考察に至った。批判もあろうが、彼女が未婚で子無しであることが、批判の緩和になる。すべては自虐の本音ネタともいえる。なぜ結婚しない動機に興味はあるが、独身、子無しの実態に興味はない。
老人が読む本でもない、読みたい本でもない。男が書く本でもない、男が読む本でもない。『負け犬の遠吠え』しかりである。単に読み物の域に収まらず、ホンに「負け犬」とし、「遠吠え」と実感するなら、結婚に前向きになればいい。独身の男も多く、女も多いなら、二人がくっつけば独身解消はできる。それほどに収入を問題にするより、「何とかなる」だろう。
いつだか、誰かが言った。「結婚は勢いよね」。確かに…。あれこれ考えすぎると行動はできない。大恋愛であっても離婚が多い時代、勢いが間違いとは言い切れない。『子の無い人生』というのは、言い換えるなら、"子のできない女"と言う事だろうが、高齢出産の危険性も緩和された時代である。40歳の中頃までに相手を射止めて「子の有る人生」は可能。
収入で結婚できないのは、単なる引っ込み思案であろう。昔は今より、ずっとずっとずっと貧乏だったが、5人、6人、多くて9人、10人の子どもがいた。比べる意味はないというが、比べて強く生きることはできるだろう。貧乏を怖れるの本心は、人並みの生活ができないとの憂慮、人と比べてナンボという奴。いいではないか。人並みより、自分並みの生活で…
総じて現代は自己過保護蔓延の時代。「傷つくのが嫌」との理由で行動しない若者が真に怖れるのは、「傷つく」事の前から、「傷つくのでは?」という仮定を怖れると同様に、「貧困が嫌」の実態の前に、「貧困では子どもが可哀想」という仮定への怖れ。貧困が当たり前の昔、人は貧困など怖れてなかったが、昨今は、「貧困なら独身でいい」ということか?
「お化けが怖い」という女がいた。よく言われる「怖い」の本質を、論理で説得させようとこう言った。「お化けが怖いって、お前はお化けを見たことがあるんか?」、「見えないものは存在しない。いないものを怖れるな」と、納得させたつもりが彼女は、「それでも怖いの…」という。見えない物の怖さに心理学的根拠はあるゆえ、仕方ありませんね~。