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「孤独」を楽しむ ②

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何の前後の脈絡もないのに、「人から好かれたい」と思うこと自体が可笑しく惨めったらしいが、これも人間の欲であろう。ワザと嫌われる必要もないが、自然体でいて嫌われようと好かれようと、相手の都合だから仕方がない。反対に、好かれようと思って無理をするのも、自身の都合というか、欲と定めてほどほどにする。できるなら他人に影響されない自然体でいるのが理想である。

相手に合わせるより、むしろ自分に合わせてもらうのが無理をしないでいれるのだが。自分が携帯を必要としないのも、持ち歩かないのも、自分の自由を相手に認めさせるためで、自宅に電話があることが便利だった時代を思えば、電話を持ち歩く便利がどうして必要か?便利なツールと思いつつも、淋しさやひとりぼっちを癒すために他人の拘束を望んでいる。これを依存という。

人に合わそう、寄りかかろうとするから、自由を束縛され、ストレスも溜まる。こちらに合わせと命令するのではなく、相手に拘束されないようにする。自分の自由な時間や、出先にまで相手の都合で電話を受け、呼応できないと「ごめんなさい」という人間関係の是非を思考すると、こちらも同じことを相手にしていることになる。これを人間関係と呼ぶなら、やはり依存であろう。

人は一人で生きられないし、依存を悪とは思わぬが、依存を避けて気楽に生きたいと思うも、成熟した大人の思考である。人に好かれたいという心情は、自分の尊厳と関係している。つまり、人に認められてこそ自分を誇れるという、そういう気持ちが他人の評価を気にすることになる。したがって、誰とでも友だちになろうとする人は、誰の友でもないということ。

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八方美人ほど、本当の人間づきあいをしてくれる人ではないことを経験で知った。自分に自信の無い人ほど、拍手を欲しがるのは、リアルに限らず、SNSで友達を沢山所有し、評価やコメントの多さに自己満足感を抱く、それもその人の価値観であって、批判するものではないが、そういう依存に頼らずとも、しかと自身を見つめ、自己評価に依存せずとも楽しくやっていられるものだ。

実社会における人間関係で一番負担になるのは、友人(と、とりあえず規定している相手)や、同僚といった、対等な関係にある場合が多い。対等であるのに、いつの間にか指示されたり、上目線で物をいわれたり、従属関係であるのをふと気づいたときから、相手にストレスが発生する。こうなる原因は、人間の性格に強・弱があるからで、常にというわけではないが、弱い性格の人間に不満がでる。

いい例がいじめである。いじめ側の人間が決して強いというのではないが、いじめられる人間の極度の性格の弱さが、いじめ側の性格を助長させる。社会用語にいう「弱肉強食」である。スポーツの弱小チームであれ、将棋の弱い人間であれ、自分たち以下の相手と対戦すると「強い!」となる。上には上もいるが、同様に下には下がいる。人をいじめる人間は、実は心の弱い人間。

だから、自分以下の人間を探す。将棋をやっていて人を観察すると、60歳でも70歳でも、年齢に関係なく度量の小さい人間は、自分より強い相手を避ける。勝たなければ面白くないのは分るが、「負けて強くなる将棋かな」という向上心がない。むしろ小学生、中学生の子どもの方が人を選ばない。彼らは強くなりたい向上心があり、変チクリンな見栄もプライドが存在しない。

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子どもが純真で素敵なのはそこ。負けて嫌がる人とは指したくないし、相手がこちらを避けるを見越してこちらが避ける。そんな大人を見ながら、負けて言い訳をせず、勝って驕らない子どもに心が洗われる。子どもは単に負けて悲しい、勝って嬉しいと表現する純粋な生き物である。子どもから学ぶものは多く、果たして子どもが大人から学ぶものがあるのか?

えげつない、いやらしい大人が多い。将棋を趣味としてやって常に感じることだ。以前は、そうした不甲斐ない大人、醜い大人を嫌っていたが、最近それがない。これも人間の修養か、笑って済ませられる。自分では気づかないが、おそらくこれを人間的成長と言うのだろう。自分が成長してるかどうかをそのように感じる程度にしか、人間は人間の成長を把握できない。

勝った、負けたばかりに拘り、そのプロセスに意味や意義を見出せないのか?自己顕示欲が災いするようだ。負けて言い訳はみっともないとか、相手を称える度量も、相手に非礼という優しさもない。上に記したが、人間関係は突き詰めると互いの利害でつながっている。いつもいいばかりではない。いい時もあれば負担に感じる時もあるが、負担な時にどうするか?

問題はそこにあるから類する悩み相談が多い。そういう(重苦しい、負担に感じる)時にどうするかを自分に言わせると、そういう事を起さないようにするのが最善。それを言っては身も蓋もない、そんなのは綺麗ごとと思うだろうが、実はそうではない。人間関係が互いの利害で成り立つ以上、「害」を防ぐためには、「利」を得ない、考えないようにすればいい。

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分かり易くいうと、「利用はしたいが、利用はされたくない」では単なる我が侭、自分勝手であり、そんなのは通用しない。そこが論理として分かれば大人である。自分も子ども時代、若かれし時代にまるで分からなかった。あるがままに人間関係を横臥し、良いこともあれば、ストレスもあった。が、自分が良いと思う時に、相手に負担を強いていたかも知れない。

相手が負担であろうことを知りつつ、強要したりもあった。ヒドイ自分であったというしかない。そんなことに構いなく突き進む若さ、青春とはなんと残酷であろう。自分の欲望、自分の都合でどれだけ多くの人に負担を強いたことか。「青春をどう生きるか?」という教科書はない。いや、あってもページをめくらない。それが青春であり、青春とはその無軌道さにある。

今となっては、分かったような物言いだが、良識者ぶったつもりはない。それだけ物を知らなかった時代があるということ。顧みて、「バカだったよなぁ」と思うことは良識ということではなく、純粋な人間の成長の証であろう。「過ぎたるは及ばざるが如し」。過ぎたものに手当はできない。その代償として人間は成長しなければならない。バカを止めてこそ教訓だ。

それでも人間は新たなバカをやる。如何に人間がどうしようもない生き物であるか。永遠に悔い、永遠に反省と背中合わせ手生きていく。青春はまた、挫折の時代である。「楽しい事だけで終わりたい」という少女の言葉に、挫折をした者は驚いたろう。なぜなら、生という証は、自分の過去の挫折や苦悩を笑い話として押しやっている。その点においても、「生」は、「死」に勝る。

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「死んで花実は咲くものか」という。生きて花実がつくとも限らないが、それは、「花」と、「実」の考え方でもある。高価な花もある、蓮華のような雑草もある。高級果物もある、一粒のゴマとて実だ。そのように思うなら、人は誰でも生きていれば花実はつけられる。ネガティブな青春時代というが、いいこともあった。個別なことは置いて、何が良かった分かっている。

評価できるのは、「何でもやった」、「思い切って行動した」、「損得抜きでやってみた」などの、アクティブな評価である。悲惨な青春期を過ごしたという女性の会話を例に挙げる。「私の青春期って、本当に悲惨だった」、「どうしたの?何があったの?」、「何があったのじゃなくて、なんにもなかったの…」と、これは笑い話である。が、何もしなかった青春なら、こうであったろう。

同じような言葉は結構聞いた。「間違いを起こしたくない」からと、保守的に生きた人は、性格が起因した。石橋を叩いて渡る人もいる。石橋を叩けど渡らない人もいる。何の石橋を叩いて渡る必要がある?という自分であった。これが自分に贈る唯一の賞状である。つるんで集まること多き青春期に、つるんで集まることは多かった。じっとして入れない若さである。

反面、一人旅に興じる者もいた。彼には彼の、彼女には彼女の、描く青春世界がある。青春をどう過ごす、どう生きるべきの答えはない。あるのは、青春をどう過ごし、どう生きたかという答え。それぞれが、悔いなき青春であったか、悔いいる青春であったか、想い出は一人静かに忍ぶものだ。自分は、「幸」の青春の賞状を自分に贈ることができたし悔いはない。

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「そうはいっても悔いくらいはあるだろう」の、突込みに対し、「プラスからマイナスを引けばゼロ」と答えとする。回想録ではない、青春期の総括である。有り余る青春期についての記述は後日に回し、表題に立ち戻る。のちの負担を見越し、「利」に飛びつかない生き方を経験から得た。若い人はここに達することはなかろう。失恋に臆病だから恋愛をしないとは違う。

傷つくのが怖いから、何かをしないでおくのとは違う。人を沢山勧誘したが、どうにもならなくなって破綻した詐欺まがいの会社がある。要は、自身のキャパを超えた行動が、結果的に人に迷惑をかけるのだ。会社の業績が著しい時に、営業所をポンポン作るのはいいが、人材がそれに追っつかず、伴わないことで信用を無くす。規模拡大を止めて少数精鋭でやればいいが…


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