「孤独って何?」と問えば、孤独も分からんのかお前は?となる。一般的に孤独とは、他の人々との接触・関係・連絡がない状態。突っ込みをいれるなら、そういう状態は一日のなか誰にでもあるだろうから、そういう状態が長期継続ということだ。また孤独感は孤独と違って、大勢の中にいても自分が場の誰にも理解されていないと感じることなどをいう。
これは孤独感というより孤立感もしくは疎外感か?シューマンの『子供の情景』にちなんで、「孤独の情景」という表題にした。孤独感、寂寥感、疎外感とは別の、「孤独」という男らしさについてだが、その前に、「孤独とは何?」であろうか。独りぼっちなる言い方はネガティブなイメージだが、学生時代に女子がつるんで弁当を食べるのが理解できなかった。
「女どもは飯を食べる時でさえ喋っていたいものか?」などの率直な思いから、男女の違いを強く感じたものだ。自分らは子ども時分、食事の時に口を開くと叱られた。テレビを観ながらも、雑誌を見ながらの食事も親はうるさい。叱られたことで悪い事だと思うしかなかったが、当時アメリカのファミリードラマが輸入され、テレビで盛んに放映されていた。
土間にしつらえた質素な台所と違って、明るく広く、御殿を思わせる豪華なキッチン、それにつながるダイニング、テーブルクロスを覆ったテーブルにファッショナブルな洋服を纏った家族が、和気藹々の食事風景は別世界である。畳の上の小さな卓袱台を囲む日本の家族は、それからするとママゴトだった。そんなアメリカに夢を抱き、日本を立つ若者がいたのも分かる。
憧れはしたが、行動するという点に於いて保守的だった。あまりに異なる生活レベルを単に文化と捉えていたふしがある。当時のアメリカでさえ、真っ黒に陽に焼け(黒人のことではない)、汗にまみれ、油にまみれ、つなぎのジーンズ働きづくめの貧困家庭もあったろうが、敗戦国のイエローモンキーに対する戦勝国の違いを見せつける国策ドラマであった。
「コンバット」という戦争ドラマもあれはドイツ兵を極度に悪く描く国策ものであったという。我々子どもにさえ、「ドイツ兵は悪者」のイメージが与えられた。「家族団欒」という言葉はあるにはあったが、規律を重視する日本人社会にあって食事中は口を開かず、黙々と食べるという文化を親から受け継いで行った。喋ると、「行儀が悪い!」が飛んでくる。
子ども時代は常に、「行儀」の言葉に拘束された。学校でも、「食事中は話さない、脇見もしない、立ち歩かない」の三原則は、通夜のようでもあったが、今の時代も受け継がれているのだろうか?最近、テレビで小学校の給食時間を観たが、和気藹々で騒々しくも楽しく、昔のような、スプーンとアルミの食器の音だけの、異様に静寂な時間とは違っていた。
子どもを黙らせること、静寂を強いることが無理な強要であり、幼稚園や保育園の前を通ると、何を言ってるか分からないが、子どもたちの騒がしい声の洪水に圧倒される。「子どもは社会の宝」という考えが地域社会から消えたのはいつ頃からであろう。20年前、決まっていた夏休みのラジオ体操の場所に苦情が出、遠くに追いやられたことがあった。
自分は苦情の主にかけあい、「子どもを地域から追い出してはダメでは?」諭したが、「遅くまで受験勉強をしていて、朝はゆっくり寝かせたい」と引き下がらなかった。子供会では率先して世話をする母親であったが、我が子が小学校を卒業したかというように踵を返す親には呆れるしかなかった。「いい人」は結局、我が子のためというエゴでしかなかった。
保育園開設が近隣住民の反対で待機児童の問題が解決できないでいる。住みたい街のトップの街でも起こっている。2016年9月、東京・吉祥寺で私立の認可保育所が開設を断念した。武蔵野市内の待機児童数の約3分の2にあたる81人を受け入れる予定だったが、開設断念が伝えられるや反対した住民を、「住民エゴ」と非難する書き込みがネット上に相次いだ。
賛成派のある武蔵野市議は新聞社の取材に、「吉祥寺が高慢な街だと見られかねず、残念を通り越して情けない」とコメントした。前回記事にした武蔵野市のコミュニティの先見性を取り上げたばかりだが、「コミュニティの大切さは分かるが、子供施設が嫌いとなると、そのコミュニティって何なんだと思ってしまう今日このごろ」と増設賛成派の市議は言う。
民主主義とは公益と私益の、「妥協」である。欧米人にとって妥協は秀逸な解決法だが、日本人にとっての妥協とは苦慮の結果で、遺恨を残す場合が多い。一人でいる時は一切が気兼ねの無い自分の時間が楽しくないハズはない。携帯を持たない宣言した自分だが、2009年の誕生日に子どもにプレゼントされたのは有難迷惑だった。持ち歩かない癖は今も変わらない。
子どもの都合で持たされたが、「行方不明」になるのが好きな自分は、当初は持ち歩かないので注意を受けたが慣れさせた。強要が嫌なら相手に慣れさせるに限る。然したる緊急性もないのに出先まで追っかけられるのは迷惑千万。時として知人から携帯番号を聞かれるが、固定電話を教える。「携帯は?」と聞かれるが、「持ち歩かないし、大体家にいますので…」と教えない。
自宅にいないなら、「いない」と思えばいいし、自分も相手の固定電話を聞くようにする。同じように自宅にいなければ、「いない」と思うだけのこと。自由主義者は拘束を嫌い、相手も拘束しない。自由人は携帯など所有しないと思うが、携帯の蔓延が不倫の温床になっているらしい。20~30年前に携帯がなくてよかった。己のドンファンぶりが想像できてうんざりだ。
昨今は、女にうつつを抜かす暇があればなまった体を動かしたい。異性・同性、ともに関わることが面倒くさい。常にひとりぼっちを肯定したいわけではないが、他人と無駄なエネルギーを使わない年代である。今にして分かるが、気持ちよく人と付き合うコツは、相手が自分に接するように自分も相手に接すること。自己を基準とした若年時代と比べて、相手主体に考える。
さらには、「終(つい)の棲み家」を所有すること。無用なストレスを生まないためにも、「つきあいを断つ」のも大事である。相手から受けるストレスは避ければいいが、意外と気づかないのは、自分が無意識に相手に与えるストレスである。特に自分は発言に遠慮がないので、考える必要があった。また、自分にはないが、「人を羨むこと」は止めた方がいい。
親が我が子を他人と比べるのは愚かである。子どもの幸せを望むと言いながら、その実、自分たちが子どもに投じた金銭や時間的労力を無駄にしたくないとの理由に気づかないでいる。「お前たちはダメだねえ。僕たちの方ではね、自分を外のものと比べることが一番恥ずかしいことになっているんだ。僕たちはみんな一人一人なんだよ」。有名な詩人の一節だ。
携帯やネットは、他人とつるむツールになっているというが、自分から見るとむしろ携帯やネットは孤独感を深めている。望んだ孤独はいいが、孤独を望まずに孤独になる人には憐れである。誰とでも話せる、知らない人との交流ができる、これが孤独を癒すと思ったら大間違いではないか?人を求めながら、時には相手を排除の心理も芽生えたりするブログ。
他人を巻き込む是非といっても、そもそもブログは独善的なもの。淋しいとの理由で相手を望みながら、相手が負担になったりもある。沢山の相手と交流しておきながら、「止めたくなったから」と突然の休止宣告は、罪深いのか、そうでもないのか、相手が受ける印象だ。簡単に始められるものは、簡単におしまいにできる。飽きるともいい、負担ともいうが、そういう人は多い。
リアルと違ってギクシャクのなさがメリットであり、デメリットでもある。便利なものには「負」の要素もある。メリットにもデメリットにもせず、便利にも、「負」にもしない選択で行いたい。こちらの意見や考えにムカついたとコメントをくれるは自由だが、そもそも他人の考えにムカつくとは何事であろう。この人はこういう考えで生きているんだなと、他人事でいればいいものを…
そこに文句をいう人は、ポジティブな孤独人とは異なる哀しき孤立人。「あなたはなぜそのように思うのだ?」と、発言の主に聞くこと自体がそもそもおかしい。その理由を聞いてどうしたいのか?結局、自分の考えを他人に押し付けたいだけである。自分の意見は自分だけのもの、親しくもない相手との言い合いに何の意味がある?つまらぬ喧騒の元でしかない。
知識の持ち合い量は、人によっても違う。素人を批判する学者がバカであるように、人はつまるところ、自分の知ることを相手が知らなくとも、相手の知らぬことを自分は多く知っている。つまらぬブロガーは、ある一文に対して、「お前はそんな程度か!」という思いあがった態度や発言を取る。人を批判しただけで、「偉くなった」と錯覚するバカにはならぬことだ。