新田次郎に『孤高の人』という作品がある。興味があったが登山家の話であった。いわゆる山岳小説で、本作品は当初、山と溪谷社の雑誌『山と溪谷』に連載され、1969年に新潮社から出版された。タイトルに興味はあったが、山に興味がなく読むのは止めた。「そこに山があるからだ」なる名言もあるが、登山家というのはそれで生計が立つところもスゴイ。
安藤忠雄氏を孤高の建築家、グレン・グールドは孤高のピアニスト、太宰治は孤高の小説家、ノーベル賞を辞退したジャン=ポール・サルトルは、孤高の作家とされる。イチローを孤高の天才とし、『イチロー 試練からの夢実現力』の著者児玉光雄氏は、イチローがヤンキース移籍を選んだ理由を、「彼の理想とする憧れと雰囲気がヤンキースにあった」と書いている。
事実イチローは移籍後ヤンキースについて、「勝っても負けても、気持ちが大きく動かないだろう、ということを想像させる空気なんです。成熟している感じがしますよね」と語っているのを見ても、「試練」と、「孤高」は、相性がいいと言えるだろうし、イチローは試練をエネルギーに変えて飛躍に結びつける選手である。かつて巨人軍の長嶋はこういった。
「プレッシャーを楽しむようになれば、その人は一流です」と言った。まさしくこの言葉は、「プレッシャーを楽しむ、その人はイチローです」と語呂がいい。王貞治はプレッシャーを楽しむタイプではなかったし、彼はスランプ・プレッシャーに苦しんだが、努力と克己心で乗り越えた。イチロー、長嶋の楽観的なB型と、クソ真面目なO型の王との違いかと。
安藤氏を孤高の建築家とする理由は、高卒で大学での専門教育を受けてないのも理由である。丹下健三は東京帝大、黒川紀章は京大から東大大学院に学んでおり、両名共にアカデミー会員である。安藤と同じく孤高の天才建築家と称される白井晟一も、旧制専門学校の京都高等工芸卒であるが、「東大にあらずんば専門家にあらず」 という窮した時代の人である。
工業高校在学時に安藤はボクシングのライセンスを取得、グレート安藤のリングネームでプロボクサーでもあったが、ある時、ファイティング原田の練習風景を見て、その才能に圧倒され、ボクサーとしてやっていくのを諦めたという。彼はまた24歳の時に、木工家具の製作で得た資金を手に4年間アメリカ、ヨーロッパ、アフリカ、アジアへ放浪の旅に出る。
旅の帰路で立ち寄ったガンジス川で牛が泳ぎ、死者が荼毘に付される傍ら多くの人々が沐浴するさまや、強烈な太陽の下で異様な臭気に包まれ果てしなく続く大地、生と死が渾然一体の中で人間の生がむき出しにされた混沌世界に強烈な印象を受け、逃げ出したい気持ちを抑え、ガンジス川岸辺に座り込んで、「生とはどういうことか」を自問し続けたという。
そうした中で、「人の生というものは、所詮どちらに転んでも大した違いはない。ならば闘って、自分の目指すこと、信じることを貫き通せばいい。闘いであるからには、いつか必ず敗れるときが来る。その時は、自然に淘汰されるに任せよう」という考えに帰結、ゲリラとしての生き方を選択する。安藤は、頑強な信念をもった努力家であり、かつ謙虚な人物である。
講演会で安藤は、「知ってしまうこと(知識)の限界」を語っている傍ら、仕事を受ける基準は、「(クライアントの)情熱やな」と、キッパリ言う。彼はまた金銭的な執着がなく、「とにかく、仕事で得た金はほとんど全部、旅の中で使い果たしていた。たとえ預金通帳に一銭も残らなくとも、自分のなかに何かが残ればいいと思っていた」と、いう人である。
孤高のピアニストとして知られるグレン・グールドは、50歳の誕生日の9日後に急死した。死因は脳卒中とされたが、脳卒中というのは広義の概念で、脳出血やくも膜下出血、脳梗塞などを含むが、グールドは脳梗塞だった。彼の死後に医学論文がでたこともあり、それによると少なくともグールドには、「高血圧」や「痛風」の既往があった事が分かっている。
彼の死因はともかく、彼の孤高の様子は伝説になっている。性質はスキゾフレニア型の分裂気質で、安藤氏のように金銭への執着がない。お金を雪の中に丸めて捨てたという話も伝わっっている。京大助手であった当時の浅田彰が、しきりに、「スキゾ」、「パラノ」を広め、流行語にもなったが、グールドは、不安症、心気症などのパラノイア型ともいわれている。
そんなグールドを浅田は自著『ヘルメスの音楽』で、「彼こそは真のマニエリスト」とした。マニエリスムとは、盛期ルネサンスに完成された古典主義芸術のあとを受け、1520年頃から17世紀初頭にかけて、主として絵画を中心にヨーロッパ全体を風靡した芸術様式。極度に技巧的・作為的な傾向をもち、時に不自然なまでの誇張や非現実性に至る特徴を持つ。
太宰を孤高とするは、彼の数奇な生涯からであろう。安吾は太宰を、「不良少年」と言った。「太宰という男は、親兄弟、家庭というものに、炒めつけられた妙チキリンな不良少年である。(中略) 太宰は親とか兄とか、先輩、長者というと、もう頭が上がらんのである。(中略) 彼は四十になっても、まだ不良少年で、不良青年にも、不良老年にもなれない男であった。」
兄を出刃包丁で追いかけ回した安吾ならではの言葉である。「しっかりせーよ!」とナイーブな太宰を歯がゆく思っていたのだろう。太宰はその作品の秀逸さから孤高とされている。それなくして彼は、チンケな孤独男、孤独で孤立した精彩なき男ではなかったろうか。が、彼の作品が孤独を孤高にした。似て非なりか、崇高なる孤独を、孤高というのだろう。
太宰作品初体験は、『走れメロス』で、中学の教科書に載っていた。処刑を覚悟の上で友人との約束を果たさんがと走るメロス感動した。そんな太宰の晩年の作品には、これが、『走れメロス』と同じ作家?というほどに違いを感じた。よくいえばシャイでナイーブ。率直にいうと、暗鬱で憂鬱、それに卑屈である。太宰には笑える作品もあるが、文章は上手い。
太宰を、孤独・孤高としたが、孤独も、孤高も、女性に似合わない。女性は井戸端に集い喋るの生き物。また、女性には淋しがり屋のイメージがあり男にない。近年は男が、「淋しい」などと口に出す。男に孤独は似合うし、孤独は男にキラリと輝くカッコよさだが、どんなところにも場にも顔を出す、いわゆる、「人づき合いのいい男」がいる。
目ざわりで仕方がない。なぜにつるむ、なぜに群れる?「安易に群れを為すなかれ。孤立を怖れぬ強い精神力を養えよ」。この言葉を自分は愛した。安吾は、「孤独は人間のふるさと」といったが、「孤独は人間の太陽」である。横尾忠則が、「健さんカッコイイの図」というイラストで、高倉健ブームを巻き起こしたが、高倉には孤独が似合っていた。
良すぎて真似できるものではなかったが、スクリーンでしか観ない高倉は当時、男子の偶像であった。そんな高倉も死ねばフラグも立つ。彼は死の一年前に膨大な資産について弁護士と協議をし、51歳の女性を養女として籍を入れた。「高倉を絶対に許さない」などの発言が報じられたが、興味のある人はネットで検索を…。自分はこの件について何の興味はない。
男の背中に孤独という哀愁が高倉健には似合っていた。近年の品格ブームにあやかってか、『男の品格』の著者川北義則にはこういう記述がある。「新聞記者だった頃、当時売れっ子の著名な作家の原稿を受け取りに、ホテルのバーに出かけたことがある。その作家は、すでにカウンターの椅子に座って原稿用紙に視線を落としながら、水割りを傾けていた。
その時の作家の風情はまさに孤高というか、ちょっと近寄りがたいものがあった。同時に、うらやましい大人の色気を漂わせていた。一瞬、私は声をかけるのも忘れて見とれてしまった。「いつか、あんな男になりたい」。思わず、そんなことを感じた。その作家は私を認めると、やわらかな笑顔を浮かべながら声をかけてくれた。「やあ。ここは時々一人で来るのですよ」。
その時の品のいい笑顔は、いまでも忘れない。文壇バー華やかなりし頃の個人的なエピソードだが、『孤独の魅力』というものを瞬時に悟ったのかも知れない」。川北は孤独のイメージを膨らませ、「孤独力」となぞらえた。「力」のつく語句は多い。「力一杯」、「力石」、「力仕事」、「力関係」。語尾につけると、「リキ」、「リョク」と読み、「忍耐力」、「努力」、「持続力」。
近年は、語尾につけた「力」を「チカラ」とし、「目力(ぢから)」、「手ぢから」、「乳ぢから」、「女子力」、「老人力」、「親力」、「オタク力」などなど、何でも言葉になる。最初に言い始めたのはMr.マリックで、彼が超魔術と言っていたころ、それがただのマジックと分かった後、彼は、「手ぢから」と言った。簡単に造語が作られ、日本語の形態が大きく変化する時代。「孤独力」も同類。
「孤独」はどことなく寂しく忌避する言葉だが、「孤独力」には寂しげな風景はなく、ポジティブかつ「孤独を讃美する力」である。川北の記者時代の著名な作家とは誰であろうか、想像してみた。五木寛之、村上春樹が即座に浮かんだが、彼は東京スポーツの記者であるからしてこの二人はない。東スポに連載していた作家は藤本義一、高橋三千綱らがいる。
1935年生まれの川北をして、「近寄りがたい雰囲気」なら、高橋(1948年生まれ)は除外。東スポということなら、競馬に4億円を使った直木賞作家の藤本義一(1933年生まれ)が浮かんだ。藤本は1973年、東スポに、「のむ、うつ、ただ」を連載していた。川北は大阪生まれの関西人。これらの諸条件で、自分の推測では藤本義一に落ち着いた。彼と司馬は白髪が美しい。