12日午前10時半ごろ、さいたま市の中学校の校舎の下で、中学2年の女子生徒が倒れているのが見つかったが、発見された時は概に死亡した。女子生徒の遺書には、「いじめや家族間のトラブルではない。楽しいままで終わりたい」などと書いてあったということからして、校舎から飛び降り自殺したとみられている。楽しいままで終わりたい命って何であろう…?
遺書を鵜呑みにしていいものか?いじめにあっていて、誰かに書かされたことも考え得るが、松本清張のサスペンス小説ばりに、「そういう風に書いて死ね!」などと命令することもなかろう。人は基本的に人からの命令では死なないもので、戦時下の特攻ではなく、人の死は自発的なもの。人に何をいわれようと、「死ね」と言われようと、死ぬ行為は自発性であろう。
それが「死」というものの重みではないか。「死ね」と言われて死んだ子は、命令を実行したのではない。仲間外れにされて生きる希望が失せたり、日々が辛く耐えがたく、それが真の要因だ。少女の、「いじめや家族間のトラブルではない。楽しいままで終わりたい」という遺書の言葉に真実は見えてこない。ならば、言葉に含まれる行間を考えないではいられない。
これまで多くの少年・少女の自殺に触れてきたが、原因の多くはいじめであった。いじめで生きる希望を奪われたにしても、いじめた子への恨みつらみを記した遺書は見たことがない。それがいじめの特定を難しくしている。特別の調査委員会などを設けて調べたりの必要もでてくる。いじめが原因で死ぬなら、いじめた奴らを罵倒すればいいと思うが、それがない。
それについて考えたことがあった。人の「死」の最終決定は何をおいても自分である。いじめで追い詰められて行き場のない死というのが、客観的な事実であっても、死は実行者にとってのささやかな報復ではないだろうか。自分が15歳の時に死を考えたことがあった。自分が死ぬか、対象を死に至らしめるか。二つの選択の是非について考えてみた。
出した答えは、どちらも自分にとって得とならない。対象を殺すのは憎悪であるが、自死の理由は報復であった。報復の意味とは、自分が死ぬことで対象者を悔いさせる、反省させる。権力者に抗う方法は、それ以外に見当たらない。自殺の多くは報復の意味をもつのでは?死という損害を犯してまで訴えることのバカバカしさ。なんであんな奴(母)に殺されねばならない?
それで何かが変わっても、新たな世界に生きる自分はもはやいないということ。自死の理由は、苦痛を与える者への報復であった事を覚えている。「自分が死ねば分かるであろう」という感傷があった。多くの自殺者は同じ思いを経験し、歯止めに至る思考のないままに実行してしまうのではないか。死んで後悔はないが、ならば、死ぬ前に「死」を後悔すべきである。
「死」を後悔すれば人は死なない。死ぬ人の多くは死を美化したり、ささやかな報復であったりと感じる。そこには後悔がない。不思議に思うのは、身投げ現場で危うく助けられた人が、その後は死なないで生きて行く。あれはどういうことなのか?一度決めた死が、二度目に無いのはなぜだろう?人は死んで後悔はないが、死ななくて後悔する人をあまり聞かない。
「あの時、死ねばよかった」という後悔はなぜか起きない。「あの時、死ねばよかった」が今も続いているなら、いつでも死ねるわけだから、あの時の、「死」に拘った理由はもはやないのだろう。死はあの日あの時の限定的なものだったようである。そういうものなのか?あの時死ななかった者は、その時の感傷に浸ることなく、そんな言葉を葬って生きて行くべきであろう。
死んで後悔する人間はいても、死ななくて後悔する人間はいないとすべきであろう。同じように、死んで後悔しない人間もいるかも知れないが、死ななければ分からないことを、死んで分かる意味はないと考える。多くの自死者は、一時の病、一時の発作で死に向かうようだ。風邪をひいて死を選ぶようなものだ。風邪は治るが、死は治らない病である。
発作的な病はともかく、死を考える前には思考すべきである。死ぬか生きるかではなく、死んで後悔するかしないかを考える。死ねば「無」だから、後悔はないとするのだろうが、実体としての「死」ではなく、精神の「死」について思考すべきである。そうすれば、もし死んで後悔したときは、取り返しのつかない後悔であるのがわかる。そういう後悔は絶対に避けるべきである。
それが、「死」を忌避する理由である。「後悔など恐れることなかれ」ではなく、「取り返しのつかない後悔」は止めるべきである。以上、述べたことは比喩であるが、死について、「問いと答えの間に在るもの」の説明は、難しい答えが予想されるような明確な方向がない。問いそれ自身の中に示されていないことからくる困難である。「人生とは何?」、「愛とは」、「死とは…」
答えが予想され得るものと、そうでないものとの区別は、我々の生活の中に種々発見される。「死」は哲学されるべくものである。改めて、「哲学は何か?」であるが、すべての人が承認するような、「哲学とは…である」という答えが与えられないのが哲学である。問い自身の中に、答えを求めるべき方向がすでに与えられているものを、哲学の対象とする意味はない。
答えの明確でない困難な問題は、例えば、「死」や、「愛」について、観察したり調査したり、集計したりに時間がかかるとか、「死」のように、被験できない障害があるとの意味において困難ではなく、一体何を観察し、何を調査したらいいのかが明確でない点にある。ブログの表題、「死ぬまで生きよう」は、死が何かを理解し得ない人間の生きる目的である。
「いじめや家族間のトラブルではない。楽しいままで終わりたい」、この文言に頭が廻る。かつてこういう言葉を残して死んだものがいるのか?寡聞にして知ることはないが、これは特異な言葉であろうか?別の意味、別の何かがこういう表記に現わされているように感じる。なぜなら、人は楽しい只中にあっては、死を意識することもなければ、死ぬ理由もない。
となると、「楽しいままで終わりたい」の言葉は、「楽しいことがそうでなくなってきている」との予兆を感じさせる。感受性の鋭いナイーブな少女が、傷つく前に逃避行動を起こすことがしばしばあるが、傷つく自分が耐えられない、自らにそういう耐性が無いのを知る子の逃避行動は迅速である。純粋無垢な少女が、「汚いものを目にしたくない」と訴えることもある。
本件は、そういう事に思えてならなかった。「いじめや家族間のトラブルではない」というのは、いじめや家族間のトラブルの存在を認識しつつも、打ち消す言い方ではないのか。本当にないものをあえて書くこともなかろう。「蚤の心臓」という表現は、いい歳取った大人男性に使うが、「こんなことで?」と言える些細なことにさえ傷つく少女の感性もまた存在する。
いじめというほどではない、家族間のトラブルというほどのものではない、そんな状況であるにしろ、少女のガラスの感受性は、やりきれない気持ちに襲われる。そんなことを想像する。「そんなに?」というほどの沢山の色えんぴつを使い、一心不乱に塗り絵をする少女像が浮かぶ。この世には美しいものしかないと言わんばかりの少女の心に思いを寄せてみる。
少女はまるで、「人身御供」のようである。三人の娘を持つと少女の異次元の感性も理解に及ぶ。父親が娘に弱いのは、「神聖にして犯すべからず」の少女時代のトラウマをしょっているのだろう。少女期の娘から離別できていない。「楽しいままで終わりたい」に類する別の言葉を女性から聞いたことがある。女性は当時20代中頃だったが死んではいない。
「年を取りたくない、出来るなら綺麗なままで死にたい」と彼女は言った。これが女の共通の思いなら、女性にとって老いの苦悩は計り知れない。男でよかった、である。男にとっての老いとは体力・肉体の低下で、苦悩というほどではない。アメリカのエグゼクティブに性的不能が多く、それが理由で離婚も多く、それらがバイアグラの開発につながったという。
性は肉体的・精神的に自然なものだから、性的不能はどう考えても精神的不自然が原因だろう。精神が肉体に不自然をもたらす。人間は社会に生息する以上、どこか不自然にならざるを得ない。中2の少女も社会に生きている。大人に比べて小さな社会であろうが、小さな子どもにとって小さな社会は妥当である。それが死をもたらすのは、やはり不自然な何かがある。
一般に「死」は、社会から世界への移行である。少女の小さな死も、社会から世界へと旅立った。社会における自然人は、死ぬと物になる。この純然たる事実が法理論であるが、宗教には別の考えがあり、それを教えという。事実は強制されてしかりだが、「教え」は取捨選択だ。自分は宗教的な死後の世界を信じないし、認めていない。どこに行こうが行くまいが…
少女の死は、<社会>に対して<強度>を感じることができなかった。世間は早い死を不幸というだろうが、彼女の死を彼女がどう受け取るか、誰にも分からない。悔いるのか、悔いないのか、どこに行くのか、行かないのか、一切は彼女のもの。つまるところ人間の問題は、「生」の問題である。少女は、「私」という自我を捨てたことで、彼女に一切の人間の問題はなくなった。