社会の悲惨な状態の映像から我々は、その中に苦しんでいる人々に同情し、涙し、あるいは憤りを感じるかもしれない。それを人間性というのだろうか?それらは単に人間性への感受性にとどまっており、決して人間性の実現ではなかろう。なぜなら、同情を感じ、憤りを感じながら、普段の日常性の中に埋もれて何の行動もしないとき、我々はそこに一つの非人間性を見る。
言葉だけで人間性を唱えている。また、行動したとしても、その行動が問題解決のための何かでないなら、そこに非人間的なものを発見する。三島由紀夫を時々思い浮かべる。訳の分からない彼の行動は、訳の解る人間に批判されるが、訳の解る人間が自身の頭だけで分かって、思考を廻らすだけなら所詮は学者の端くれであろう。三島は偉大な思想家であったと最近思う。
なぜなら、思想のために自らをも滅ぼすことのできる人間が真に思想家たりうるのである。思想家如き真似事をするブロガーは多い。家にこもって、暖房をつけ、知識の受け売りをすることが自己満足なのである。自分もその仲間であり、どうでもいいことを書いて思考訓練という自己満足に浸る。人類がまだ言語を持たなかった時代に思いを寄せることがある。
そこで人間は、知覚で直接的に知ることのできる環境的世界の映像の中だけで、それらが伝達する情報を処理し (もしくは思考し) そして行動していたろう。そういう我々は野生の動物と同じように、視覚、聴覚 (人間の嗅覚はさもし) 情報をたよりに、巧みに獲物を捕らえていた。言語がなくても、飢餓や生存を脅かす他の動物に対する備えも解決も図れた。
であるように、人間は視聴覚、触覚などの感覚的な映像世界の中で生活をしていた、そのような状態に言語的な構成能力が加わった次の段階を考えてみよう。言語を得ることで我々は、言葉で他人に新しい行為を始めさせたり、古い行為の習慣を禁止したりし、周囲の社会的環境を組織化していった。このようにして人間は言葉の論理から理論を持っていった。
さらには、「数」という数学的計算の技術が進歩すると、変化を測定したり、予測したりもできた。そうして自然現象についての正確な論理を形成していった。ばかりか、自然現象を科学する思考から、多くの自然現象の根拠も発見していった。やはり人間はすごいではないか。また、自然に適応し、自然に快適を廻らす人工的な発明を作り出していくのだった。
それらによって、遠方のもの、微小なものの観察も可能になった。このように、今となっては当たり前のことを、原初的に戻して思考すると、人間は偉大としか言いようがないのだが、人間は偉大になり過ぎたことで、壊すことも便利に実用的に考えるようになったことで、破壊の快楽を味わう事になる。偉大でなかった時代の人間は自然に溶け込んで生きていた。
久々に映画『ゴジラ』を観た。子どもの頃に観た『ゴジラ』は怖かった。四谷怪談のお岩さんも怖いが、ゴジラの真似ゴッコはすれどお岩さんのマネはしないヒーロー性がゴジラにあった。送電線の鉄塔を見てはゴジラを思い出した。段ボールのない時代、果物運搬に使う木箱を広場に持ち寄り、ゴジラ歩きで片っ端から蹴り飛ばすのが「ゴジラごっこ」である。
鳴き声も真似るし、冬だと吐く息が白くてゴジラになれた。したがって、リアルな、「ゴジラごっこ」は冬に限る。ゴジラのヒロイズム的側面は破壊の美学である。形あるものが壊れる快感である。ゴジラ映画のヒットの要因は文明破壊と言われる。物が壊れることがなぜ快感であるのか?壊れるのはミニチュアセットの家屋やビルディングで、大友克洋の『AKIRA』もマンガゆえの快感である。
永井豪の『デビルマン』の半端ない都市崩壊も、一切が瓦礫となる。あれほど滅茶苦茶に壊せば、さぞや作者も快感であろう。ダイナマイトでやるビル爆破映像の美しさというのか、壊すべく対象物の合理的な破壊に目を奪われる。我々はニューヨークのツインタワーの崩壊を目撃した。東北大震災の大津波による街の消滅も目にした。いずれもテレビで生中継された。
壊してはいけない物、壊れてはならない人々の生活が、無残に壊される様や痕跡に快感はない。自然による破壊も人為による破壊すらも、傍観者としてなすすべもなかった。スーパーマンがここに飛来したら、どのように防いでくれるのかなどと考えたりした。壊してならない物は、たとえ台所のガラスコップ一個であれ、床に落として壊れるさまは痛々しい。
ゴジラもウルトラマンの怪獣ブームも、『AKIRA』、『デビルマン』なるマンガも、核戦争の惨劇を描いた映画『ザ・デイ・アフター』も、すべてはフィクションであるがゆえの快感である。文明の恩恵か、CGゴジラによる破壊は一見リアルであっても、物が壊れていないのを脳が見破っている。プラスチックのミニチュアと言えども、破壊は破壊だが、CGに本当の破壊はない。
我々はコンピュータで作製されたリアルな画面より、プラスチック製のビルや家屋の崩壊に、破壊の真性を見るアナログ世代である。最新版『シン・ゴジラ』のゴジラは、初のCG合成によるゴジラであった。背中のチャックを開いてその中に鉢巻姿のおっさんが入っている、「真性」のゴジラではなくなった。CGゴジラの中身には内臓も、流れる血液も想像に浮かばない。
着ぐるみゴジラの鉢巻おじさんこと中島春雄は、スーツアクターとして第1作から12作を演じたミスターゴジラと言われた。1929年生まれの中島は、戦後東宝に入社した後大部屋俳優となったが、『七人の侍』出演直後から、『ゴジラ』に出演を命じられる。ゴジラといえど役者であり、演技は必要だがサンプルはなく、上野動物園に日参して象や熊など大型動物の動きを研究した。
ビルを壊す場面は最初はNGとなり、特撮監督だった円谷英二に叱られ、以下のような指摘を受けたという。「意味なく壊すんじゃないんだ。ちゃんと動きの理由があって壊すからリアルティーがでる。そういう芝居をして欲しい」。やたらめったら壊しているのではなく、ゴジラにはゴジラなりに、ビルや建物を壊す意思も意図もある。単純に見れば邪魔くさい障害物。
しかし、別の意味もある。「ゴジラ」の第一作は1954年 (昭和29年) だが、同年3月1日に太平洋ビキニ環礁において、アメリカの水爆実験の被爆でゴジラは誕生した。時流は日本の高度成長期であるが、未来への期待と戦争再発への不安に引き裂かれた時代、そんな世相から映画『ゴジラ』は誕生した。ビキニ諸島の近海にいた日本漁船「第五福竜丸」がヒントになる。
遠洋漁業が日本の水産業の要であって時代、「第五福竜丸」以外にも危険水域で被爆した船舶は多く、広島・長崎に続く、「第三の被爆」として社会は水爆実験に意を唱え、国をあげた反核運動が起きる。1955年には原水爆禁止日本協議会 (原水協) が組織された。水爆実験によって生まれたゴジラの怒りは、文明への怒りであり、それが都市破壊へとつながっていく。
映画『ゴジラ』はそうしたタイムリーな設定もあって、映画館には多くの大人が足を運んだ。決して子ども向けの怪獣映画ではなかったのだ。しかし、子ども時代のゴジラの記憶は破壊の怖さでしかなかったが、内容的には科学的にも国策的にも難しく、当時の一般的な大人の知識を持っても高いレベルにあった。特にゴジラを退治するための薬品の合成など。
芹沢博士によって生み出された合成物質、「オキシジェン・デストロイヤー」は、酸素を破壊するだけでなく、水中のあらゆる物質を液化、つまり溶かしてしまうという性質を持っている。酸素が破壊された結果、物質が液化されるのではなく、酸素を破壊し、同時に物質を液化してしまう作用を持つ。これによってゴジラは溶けて骨になり、さらには完全に消滅した。
ゴジラは第一作を持って骨となり、その骨も溶けて消滅してしまった。ところが、『ゴジラ』の大ヒットを受けた東宝は、その5か月後の4月、第二作となる『ゴジラの逆襲』を公開する。「柳の下にドジョウ」がいるものだが、柳の下にはゴジラもいた。第一作で完結したゴジラが、今度は東京から場所を大阪に移し、大阪城や通天閣を破壊して暴れまわる。
人類が無謀な核実験を続ける限りゴジラは生まれ、ゴジラは生き続ける。つまりゴジラは一匹ではなかったし、その脅威はアンギラスという同類の出現を伴って、再び人類の前に立ち塞がった。ゴジラ復活と共に話題となったアンギラスは、恐竜アンキロサウルスをもじったもので、後に訪れる怪獣映画に必要不可欠な特撮技術は、ここに息吹を挙げたのである。
親の影響か、長男もゴジラ好きだった。が、彼が6年生の時、新作ゴジラが公開される際、なぜか観に行かないと言い出した。理由を聞くと、「友達に、あんなん人が入ってて何がおもろいんだ?ダっセー」 と言われたという。傷ついた長男はそれでゴジラに決別した。これが時代なのか、着ぐるみがダサいとは…。そんな時代の変化にいささかショックを受けた。