当地ローカル放送局「広島テレビ」に、『ハッケンふくやま』なる番組がある。広島県には西の広島市に対し、東端に位置する福山市は人口46万人を擁する中核都市である。広島と福山は直線距離で84km、車で93kmとなり約1時間半の運転である。地元民の感覚でいうと福山は岡山圏に属し、言語や文化も岡山の影響を受け、福山市民も岡山に親近感を感じるという。
「福山は岡山の植民地」の言い方に怒る福山市民だが、ローカル都市福山には都会的な雰囲気はなく、岡山の帰属意識が強い市民も多いならそれも良かろう、という広島市民の見方である。それほど広島市民に福山は治外法権的なイメージがある。上記の、『ハッケンふくやま』は、福山市民を岡山から広島へと意識を帰属させるために作られた番組に思える。
福山市とアメコミの、「バットマン」の関係について論議が起こっている。福山市の市章はコウモリで、マークデザインがなぜかバットマン。蝙蝠(こうもり)をシンボルとした理由は、福山城の立つ城山が、「蝙蝠山」と呼ばれていたことに由来するのだという。また、蝙蝠の「蝠」の字が福に通じ、福山という地名の由来にもなっているってぇこともあるらしい。
現在福山市は、「バラの町」としても売り出しているため、バラをモチーフにしたシンボルマークに統一してしまおうとの意見もある。イメージ的にはバラが好まれており、将来的に変わるような気もするが、「蝠山」が、「福山」の由来になったという歴史的な重みもあろうし、そこんところは、議論を尽くしてやることだ。広島市民には、「カンケーないね~」。
まあ、広島市民曰く、「福山って何かあるんか?なんにもないだろ?」にたいして、「何もないとは言わせない」が、『ハッケンふくやま』の番組コンセプトで始まった。どんなにさびれた田舎町でも歴史はあるもので、当地福山においても、「福山知っとる検定」など行って、歴史や文化を市民に掘り起こしている。第5回の検定問題に以下の問いがあった。
「福山市沼隈町出身で青年教育に尽力し、『青年の父』と呼ばれた人物は誰か?」正解は山本瀧之助。小学校長の傍ら、居村を中心に地域の若連中の改善に取り組み1890年、「好友会」という青年会を結成し青年団運動を始める。また多くの青年団体機関誌を発行。彼の代表的著作『田舎青年』は、地方にも近代社会に目覚めた青年がいることを主張して注目された。
『田舎青年」は山本が24歳の時に自費出版したもので、その熱意のほどが伝わってくる。当時青年と言えば、立身出世を目指す都会青年を意味したが、実際の人数としては格段に多い田舎青年は、自己の夢や希望すらも満たされず、世間から何の注目も浴びない忘れられた存在であった。山本はこの著作の中で、「都会青年も田舎青年も平等である」と主張した。
「田舎に住める、学校の肩書なき、卒業証書なき青年」に目を向けるよう呼びかけ、田舎青年の教育の重要性を山本は指摘した。また、「青年会を設くべし」と全国を巡講し、その実際の指導に当たり、全国各地の、「青年団」の結成及び、その全国的な組織化に尽力した。山本のこうした活動は後の、「日本青年館」の建設、「大日本連合青年団」結成を促した。
山本の長年の功労に報いるため、財団法人日本青年館に設けられた「顕頌会」によって死後まもなく、『山本瀧之助全集』が刊行されている。明治維新により近代国家の建設と共に、自給自足的な村落が解体する中で、伝統的な若者制度も消えていった。が、自由民権運動の影響の中で山本瀧之助が広島で、「青年会」を起こしたことで全国に青年組織の結成が広まって行く。
これらの組織は大正時代に、「青年団」および、「処女会」(女子青年団)と称されるようになった。「青年団」の誕生や沿革について述べたが、発祥の地広島に於いては熱心で充実した青年団活動が行われていたのは知っている。子どもの頃、「青年団」といわれる人たちの活躍を見ながら、当時20代の青年は、子どもの目から見てはるかに大人に見えた。
青年団が主催する観劇やパーティーなどは、男女の交流の場としての意義もあり、青年団で出会った同士の婚姻も多かった。自分は高校2年の時に一度だけ、高校卒業した先輩女性に誘われて、クリスマス・ダンスパーティーに行ったことがある。ジルバやタンゴのリズムに合わせて踊るのだが、初体験の自分は手を取られて立ったり回ったりするしかない。
当時の若者の娯楽の主流が、ダンスパーティーだった。市民館に備え付けの拡声器などで音の悪い音楽を流して踊っていたのだが、そこにエレキバンドを招いて催すということで、青年団と市民館の対立があった。自分もエレキバンドを組んでいたが、高1の時にで強制的に解散させられた。あの時は自宅に担任や補導教諭がわざわざ自宅に来て、親と話していた。
そんなバカバカしくもつまらぬ時代であったが、「青年は常に革新的であれ!」というのは、青年団のスローガンでもあった。「エレキは不良」の代名詞と勝手につける体制側や大人に対し、エレキのどこが不良かを問いただすも、「音が大きい、うるさい」では納得できるハズもない。青年団側は当時の市長に談判し、市民館でのエレキパーティーを勝ち取った。
エレキバンドには解同(部落解放同盟)の青年が多く、それを解同が組織ぐるみでバックアップし、市長室や市長宅に詰めたことが功を奏した。自分のバンド仲間には解同の友人が多かったので、彼らの凄まじい行動力と、バックで詰める組織力には怖いものなしという状況だった。当時は同和教育の真っ盛りで、解放団体は勢いを増していた時代でもあった。
若者が革新的であるためには、権威に反抗する勇気や度胸も必要だ。学校の肩書なきもない、卒業証書もない青年に光を当てた瀧次郎だが、精神科医清水將之が1983年著した、『青い鳥症候群 偏差値エリートの末路』による、「青い鳥」の概念は、「今よりもっといい人」、「今よりもっといい仕事」など、現実を直視せず根拠の無い探し続ける人たちのを指した。
幼少時から喧嘩をさせない、危ないところに近寄らせないなど、大人が責任を取らないことで、過保護の青年たちが量産された。他人との向き合い方においても、ぶつかり合いを避け、踏み込むこともせず、当事者とならず遠巻きに眺めるだけの傍観者に成り下がる。雑草如く強さを持った青年団員に、そういった新しい青年の出現が影をおとし、噛み合わなくなっていく。
東京都の連合青年団組織は昭和30年代に解散し、以後も多くの青年団組織が活動低迷を理由に正式に上部団体である日本青年団協議会を脱退した。また、正式な表明はないものの実質活動休止状態の県連合組織も少なくない。かろうじて田舎の青年団が、嫁不足の旗を挙げて呼びかける光景は深刻であり、困っているとはいえ、女性が呼応しない理由も分からなくもない。
青年団の本来の主旨はともかく、青年男女の出会いの場であったのは否めない。それが、女性の大学進学率があがり、田舎を後にする女性が増え、田舎に帰って子を産み、大家族のなかで働き手の一員として泥をかぶるなどは耐えられないだろう。かくして、時代の変遷とともに青年団の在り方も変貌し形骸化した。過酷な農業と監視し合う田舎は苦痛だろう。
長らく日本青年館結婚相談所長として活躍し、2012年からNPO法人「全国地域結婚支援センター」代表となった板本洋子さんは、1948年生まれの69歳。茨城県日立市に生まれ、日本女子短大卒後、日本青年団協議会に入り全国の地域青年団活動に関わる。その後、財団法人日本青年館へ移り、80年、結婚相談所設立と同時に専任となり、84年から所長となった。
そんな彼女はこのように言う。「結婚って本人の問題でしょう?他人がとやかく言うものではないのに、なぜ私たちが結婚相談をやらなければならないのか。相談所の開設当時、率直に言って、そういう疑問がありました。当時は、『結婚相談所』と聞くと、何となく、"いかがわしさ"を感じる人がいたり、相談所で仕事をしているというだけで軽く見られたものです。
結婚式は、『お目出たいことだ』と言われるのに、結婚する人を紹介することは、"うさんくさい"という社会的イメージがあって軽視される。でも、『結婚相手を求めている』本人や両親は必死です。この、"必死"の部分と、社会的に、"必死でない"部分とのギャップが大きかったですね」。聞けば、「なるほど」である。始めた当時の苦労や苦悩が忍ばれる言葉だ。
農村には意外と知れられてない矛盾がある。それは農家でありながら、「うちの娘は絶対に農家にやりたくないが、後継ぎ息子には嫁がほしい」、「なぜ不真面目な男には嫁がくるのに、真面目な男に嫁がこないのか?」などだが、前者は身勝手、後者は無知である。先祖の土地を受け継ぐだけの農業に魅力はない。だから、そういう農家に娘をやりたくないとなる。
昔と違って農業はやり方で資産家になれる時代である。板本さんは30年以上結婚相談に携わって実感したことは、「男性の脆弱化です。農村、都市を問わず、異性とうまくコミュニケーションがとれない悩みを沢山聞きました。セールスマンは商売の話はうまいけど、お見合いになると口べたになり、あげくの果てに、『女性のことが分からない』と悩みます」。
これは当然と言えば当然で、普段は無口であっても、話そうとすれば専門分野の話は尽きないように、女性に関して専門分野でないということだ。女性の心を理解するためには何をおいても場数を踏む。昔のようにお見合いが廃れ、自由恋愛が好まれる時代に、真面目な男がモテるはずがない。女性が惚れる相手について、板本さんは以下のような例を挙げた。
「長野県川上村のレタス農家の後継青年が見事、パートナーを射止めたんです。六月の交流イベントで彼女と会い、お互いにラブラブとなって、デートしようと思った時にレタスの最盛期とぶつかってしまった。農作業のピークが終わるのは十月、それまで待っていたら恋愛は発展しない。デートをとるか、レタスをとるか。彼は、「レタスで二百万、三百万損してもデートする」と決意。
その後に親の支援もあって交際を続けて結婚しました。女性が、『そうしろ』と言ったのではありません。男性が、そんな気持ちを持っているかどうか知りたいわけです。二人の気持ちを大切にしてくれる、ファイトある男性に女性は惚れるもんですよ(笑い)」。というメデタイお話だ。なるほど…。男の魅力を売るだけでなく、相手に対して強い気持ちがあるかどうかを見る女もいる。