吉田拓郎の、「今日までそして明日から」という曲のインパクトはあった。なんて当たり前で自然なタイトルであり、歌詞であろうか。当たり前のことを当たり前に重ねていくことも人生であろうと…。おそらくディランの『風に吹かれて』の影響であろう。拓郎はディランに強く影響を受けている。自分も『ボブディラン全曲詩集』というのを買った。見当たらないので、年末に実家に帰って探してみる。
風に吹かれて(Blowin’ In The Wind)
How many roads must a man walk down 人はどれ位の道を歩めば
Before you call him a man? 人として認められるのか
How many seas must a white dove sail 白い鳩はどれ位海を乗り越えれば
Before she sleeps in the sand? 砂浜で休むことができるのか
How many times must the cannon bolls fly どれ位の砲弾が飛び交えば
Betore they’re forever banned? 永久に禁止されるのか
The answer, my friend, is blowin’ in the wind 友よ答えは風に吹かれて
The answer is blowin’ in the wind 風に吹かれている
今日までそして明日から
私は今日まで生きてみました
時には誰かの力を借りて
時には誰かにしがみついて
私は今日まで生きてみました
そして今私は思っています
明日からもこうして生きてゆくだろうと
私には私の生き方がある
それはおそらく自分というものを
知るところから始まるものでしょう
どちらの詞が優れているかなどはどうでもいい。それぞれの詞から何を感じるかであろう。ディランも人生の答えを書いていない。拓郎も、人生は自分を知るところからと…。「答えは風に聞け」、「答えは自分に問え」と…。神も超人も出てこないところがいかにも人間性の尊重である。言葉を変えればヒューマニズム的である。近年、ヒューマニズムを欺瞞とする声を聴く。
さまざまに存在するもの(存在者)の個別の性質を問うのではなく、存在者を存在させる存在なるものの意味や根本規定について取り組む「存在論」は、存在には本質がないと否定された。例えば、人間性などというものは存在するかもしれないが、その存在は初めには何をも意味するものではない。つまり、存在、本質の価値および意味は当初にはなく、後に作られたのだと…。
「実存は本質に先立つ」。これは無神論的な概念である。サルトルは、「実存主義はヒューマニズムであるか?」の有名な講演において、実存主義概念は息吹を上げた。構造主義が台頭してくると、実存主義が批判され、構造主義は静的な構造のみによって対象を説明することに対する批判から、構造の生成過程や変動の可能性に注目する視点が導入された。
これはこんにち、ポスト構造主義として知られる立場の成立につながったが1994年のソーカル事件で、あっけなく終息することとなる。「ヒューマニズム」という欺瞞、「知」という欺瞞、人間は欺瞞に目を向けることで、自らの小さな「箱」から脱しようとする。欺瞞の上に築いた生活で人間は幸せになどなれない。自らの欺瞞に目を向けよ。アドラーの自説である。
これが最終的な人間の最大の課題であろう。「晦日までそして来年から」と、自然に促せて今年もオワる。来年もまた一年間何かを書けることを願って、そしてさらなる自己欺瞞に挑みたい…。