心中といえば、「曽根崎心中」、「天城山心中」、「大磯心中」、「太宰治心中」が浮かぶ。男女の情死をなぜ、「心中」というのかは案外知られていない。「それを心中というなら心中だろう」くらいだったが、あることをきっかけに調べたことがある。あることとは、「何で心中っていうの?」と女性に問われて答えられなかった自分に癪にさわったことだ。
40年も前のことだが、今でもその女の顔をハッキリと覚えている。家に帰って辞書を引いたが、「相思相愛の男女が双方の意思で一緒に自殺すること」などの意味しかない。「そんなこと知っとる!なんで心中というようになったか聞いとるんじゃ!」である。当時は語源を調べるのも難しく、父が大学の文学部教授である友人に頼んで調べてもらった。
後日、長々と書かれたメモを渡されたが、難しい言葉の羅列だった。先に聞かれた女には、「知らんよ」で終わっていて、今さら言うのもと止めた。以後誰から聞かれることもなかった。近年はネットで、「語源」は簡単に調べられる。それによると、「心中」の正しい意味は、相思相愛の男女同士の自殺をいい、一家心中、母子心中などは本来の意味でない。
「心中」はまた、「しんちゅう」と読んだ。「まことの心意、まごころ」を意味する言葉が転じて、「他人に対して義理立てをする」の意味から、「心中立(しんじゅうだて)」とされた。それが男女が愛情を守り通すことや、男女の相愛をいうようになった。相愛の男女が愛の変わらぬ証として、髪を切る、切指や爪を抜いたり、誓紙を交わす等の行為もあった。
相愛男女の究極形としての相対死(あいたいじに)を指したのが現代に至り、家族や友人の範囲にまで広がった。男女の永久相愛における自殺は、日本独自の来世思想(男女の情死は来世で結ばれる)によるものである。当時、心中は文学作品や、情死美化の来世思想の影響から、遊廓逃亡の遊女らが好みの客と、「情死する=心中」の意味に移行したとの説がある。
なかなか意味深き言葉で、日本人が如何に、「真心」を大切にしてきたかが分かろう。同じ言葉を語ったにしても、「真心」の有る無しで尊さが変わり、また尊い命であるからこそ、真心を持ち合って死ぬのは美しき事この上ないのである。死ねば花も実もないが、死ぬことこそが美しき花であった。およそ日本人なら理解できる情緒であり、死生観でもある。
かつて吉原遊郭の遊女たちは、行為のさなかに客を喜ばすため、「死にんす、死にんす」などと言ったと、川柳にもある。演技も含めて快楽の絶頂に、「死ぬ~」などの関連言葉は、古今において、東西において、共通する人間の自然な言葉の連想作用である。「死」と「エロス」の心理学的関係は我々の意識の奥深いところにおいて、秘かに互いが手を握っている。
これがフロイトの、「死の衝動」説である。人間には強い自己保存欲求や、「生」への渇望があり、さらに深いところで死の衝動が働いている。危険な冬山登山やカースタントなど、身の危険をさらして楽しむのも、死と背中合わせの生の楽しみ方であろう。そうした中、「情死(心中)」が日本人特有の習俗と言われているのは、先の来世思想によるものだ。
果たして欧米には情死を描いた文学があるのか?『ロメオとジュリエット』、『トリスタンとイゾルデ』、『若きウェルテルの悩み』、オペラの名作『トスカ』など、物語の最後に恋人同士の一人、もしくは二人が死ぬことになるが、情死的な意味合いにはほど遠い。なぜに日本人は、男女が申し合わせて相果てるという、まことに奇妙なる二重自殺が好まれるのか?
渡辺淳一の『失楽園』の最後、わざわざ結合したままで死ぬなどは水をぶっかけても離れない犬の交尾もどきである。野犬が街から途絶えた昨今にあって、路上で犬の交尾に出くわすことはないが、その光景を見るや大人たちはバケツに水を汲んで来、お楽しみ中のワンちゃんにぶっかける。放って置けばいいものを、なぜか水をぶっかけて離すは定番の大人の悪戯。
子ども心に不思議な光景だった。なぜ犬の交尾がそれほどによくないことか?近所のおじちゃんに、「あそこで犬がサカっとる」と、わざに教えに行ったりした。おじちゃんは颯爽と水を入れたバケツを用意し、「どこじゃ~」、と案内させる。風流というのか、不思議な光景というしかないが、何のためにそこまでしたのか?確かに水をかけなければ絶対に抜けない犬の交尾。
街中で性行為をする野良犬どもの不謹慎さ、不道徳さに鉄槌を加えたかったのか?ハナたれ小僧の自分たちに行為の意味するところは分からぬが、おじちゃんが水をかけなければ何十分もあの恰好である。たしかに思春期盛りのお姉さんは恥ずかしそうに顔を赤らめ、直視できない光景だ。教育上よくないからと、おじちゃんは地域社会の道徳番人を気取っている?
水かけおじさんは謎である。「にゃろメ、まっ昼間からいいことしやがって…」と、犬に嫉妬していたわけでもあるまい。何にしても今は見られぬ風物詩である。牧場見学で、馬などが致す光景はしばしば見られるという。やはり、女性はあれを恥ずかしがるという。「サカリ」の話はさて、心中には必ず心中する理由がある。つまり、死ぬほどの理由である。
身勝手な無理心中の典型は、子ども道連れの母子心中である。父子心中に比べて圧倒的に母子心中が多い理由を推測するに、やはり母と子の一体感の強さであろう。男に子どもと生まれながらの一体感はなく、成長の過程で連帯感として備わるも、母親のような自らの分身という程には至らない。子種を飛ばしたが、ある日突然父親と言われても実感はない。
母親が子どもをまき沿いにするのはそういう事であろうと理解しつつ、納得しかねる愚挙である。「この子の未来を考えると、偲びない…」などは傲慢の極致であって、「母がいなくとも子どもは育つし、ちゃんと生きて行く!」という腹立ちである。欧米に子どもの道連れ心中がないのは、「子は神からの授かりもの」という宗教的考えによると言われる。
「自分が作った、私が産んだ」という親の傲慢を排す意味で、優る教えである。子は間違いなく親なくとも育つばかりか、生まれ落ちた時点で別人格の子どもを、いつまで支配する親である。子ども道連れの無理心中は数日前にもあった。埼玉県草加市の住宅で乳幼児2人と40歳くらいの母親が死亡しているのが発見された。50歳くらいの男も腹に傷を負っている。
経緯はというと、19日夜11時過ぎ、草加市西町の住宅から男の声で、「早く早く子どもが死んじゃう」と110番通報があり、警察官が駆けつけたところ住宅の玄関付近で40歳くらいの女性が、1階の居間で0歳から1歳くらいの子ども2人が、それぞれ血を流して死亡しているのを見つけた。また、50歳くらいの男も腹を負傷していた。男女は外国籍とみられている。
死亡した3人と男には刃物で刺されたような傷があり、住宅からは血の付いた包丁も見つかっている。第三者が侵入した形跡がないことなどから警察は、無理心中とみて負傷した男性の回復を待ち事情を聴く方針という。報道はあった事実を伝えるだけだから所詮は他人事であり、「気の毒」の三文字で収められる。それを、「怒り」にすれば問題意識も沸く。
死ぬほどの理由があるから、「心中」なわけだが、他人の理由は他人(部外者)には分からない。子ども道連れの無理心中のどこに子どもへの愛があろう。まさに愛とエゴは紙一重、無理を強要されるから無理心中である。腹立たしいのは、先に子どもを殺しておきながら、自分は死にきれなかったという奴だ。このケースは母子以外に、恋人や夫婦間でしばしば見る。
まことにふざけた話である。人の命は尊いが、「契った約束なら守れよ!」である。人間が自己中心で、他人の責任を負わない卑劣な動物であるのはその通りだが、これが最大の「無責任」である。こういう場合に彼らは決まって、「死のうと思ったが、死にきれなかった」などと、厚顔無恥も甚だしき弁解をする。相手は先に死んでいるにも関わらずだ。
ヒドイ話しよ。人間の極めつけの無責任さだ。乳幼児の命運は親の一存でどうにでもなるがゆえに、こういうバカな親の元に生まれた子どものなんという不幸であろうか。親は子どもを幸せにしなければならない義務を負うこともないが、不幸にする権利もない。無理心中の前に子どもに問えよ。「母さんは死ぬけれど、あんたはどうした?」と聞いたらどうだ?
と書いたが速攻訂正。いや、それもダメだ。子育て辞典にそんな項目はない。自分が作ったものは取るのも自由、勝手であるなどの論理はなく、命は得た瞬間から子どものものである。乳幼児を抱えてどうしても死にたいなら死ねばいいが、児童相談所などに電話をし、「後はよろしく」と、そういう明晰さが母親に欲しい。それが親の責任というものではないか。
親子の無理心中は斯くあるべし。もとい、親子の無理心中などは此の世にあらずべし。彼女との性的な画像をネットでばらまき、リベンジポルノで話題となった、三鷹女子高生ストーカー殺人事件の池永チャールストーマス被告は、彼女の家のクローゼット内に忍び込むほどに執着したが、この男も殺害後に、「死のうと思ったができなかった」と言っていた。
死んでいない奴が、「死のうと思った」などは思っても言うなである。「たら」、「れば」を恥じとも思わず人はいうが、その自尊心が人を殺す言い訳にされてしまう。人を殺す、殺したという最大の愚行に人は一言の言い訳を発するべきではない。「死のうと思った」を言いたい性向の人間は、先に自分を殺して相手を刺せばいい。可能ならばだが…。
それが不可能である以上、人を殺めて悔やむなである。相手殺害後に死ねなかった人間の悔やみや謝罪というのは、無価値にも劣る戯言だ。三島のように世間を騒乱させた人間は、安易な謝罪よりも腹を切ることで自らを貫くことである。三島は一切の言い訳を排した、「武士道」に殉じた男であった。失敗の際の、「言い訳」の周到なき武士の死生観である。
被害者参加制度で法廷に出廷した三鷹事件被害者の父親は、「(獄中で取材等を受ける加害者の言葉を聞く限りにおいては)自己顕示欲が強くて達成感すら感じている。反省の気持ちも感じられない」。「結婚13年目にできた娘で私たちの希望であり光だった。(娘の死で)希望が消え、私たち夫婦の将来も消し飛ばされた」と嘆いていた。この世は何と無慈悲なるかな。