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事件から学ぶ  「偽装殺人」

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何にも束縛されず言いたいことを書く醍醐味。「書く」は「言う」、「言う」は「思う」の具現化なら、「書く」は「思う」であるべき。どれだけ心を文字にできるか。自分の基本は文語体、気づけば口語体のときは心に素直になっている。こんなこと書いていいかと躊躇うときは、「自由精神」というスタンスが押し切る。それを、「強さ」と自ら評価する。強くなりたいなら自らに素直になることだ。

羞恥や見栄や自尊感情などを取っ払わねば書けないことは多い。自由になることはバカになりきることでもある。「なりきる」といったが、抵抗がないなら真性のバカであろう。「自由日記」という表題のブログは結構ある。何を自由といっているかいろいろだが、人に見せる日記に自由はない。職業物書きともなれば「表現」は苦痛を伴う作業だ。「芸術」の実態は、生みの苦しみをともなっている。

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やすやすと「芸術」は生まれない、だから、「しんどい」などといい、その、「しんどさ」に期待をつないでいる。人間は苦痛を求めて邁進する反面、「苦痛を避けたい」、「苦痛に耐えよう」という矛盾を持つ。それが一種のカタルシスの役割を果たしている。凄まじいまでの集中の果てに味わう、「浄化」作用となる。芸術ならずとも何かを書くのは、一つの「枠づけ」をすることでもある。

前園容疑者は、菅原みわさん(25)を福井市内の路上に止めた菅原さんの軽乗用車内で首を絞めて殺害した後、妻宛に、「菅原さんが交通事故を起こしたので病院へ搬送している」と電話をし、妻はその旨を110番通報で伝えている。その後、県警が乗用車を調べたところ、死亡事故に至るような大きな損傷などは車体になく、菅原さんの遺体にも目立った外傷がなかった。

疑念を抱いた警察が前園容疑者から事情を聴いたところ、「菅原さんが事故を起こしているのを見つけたので病院に搬送した」と説明したが、司法解剖の結果、絞殺された疑いが強まり、前園容疑者を問い詰めた結果、菅原さん殺害を認めた。何とも稚拙な偽装工作であろうか?計画的殺人でない咄嗟の嘘とはいえ、社会的無知まる出しの東大出エリートらしい所業であろう。

東大卒を皮肉っているわけではなく、いかに秀才エリートといえども、希薄な社会体験(生活体験)もあってか、偽装工作というにはあまりに稚拙であり、まるで子どもの言い訳である。別の言い方をすれば人間性に悪気がなく、だからかこの程度の底の浅い嘘(偽装)が通用すると考える。交通事故の件は、彼なりに頭をひねって考えただろうが、警察を見くびった社会性の甘さである。

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教え子を手にかけた前園は、結果的に嘱託殺人となったが、仮にもし、失うものなどない階層の人間であったなら状況は違ったろう。「私を殺してください」と懇願したのが本当に真実なら、死人に言葉はなくとも偽装などせず、菅原さんに誠実に向き合う証言をするハズだ。偽装工作で己の罪を逃れようとする卑屈な人間が、罪を覚悟で彼女の願いを叶えてやろうなどあり得ない。

エリートはプライドが高く、追い詰められない限り真実を言わないものだ。まあ、自分なりの偏見もないではないが、無学・無教養の人間の方が、人間性という点でははるかに勝る。エリートという肩書が自己充溢と相まった保守志向に陥りやすく、そのことが人間性を失わせる。また、社会的エリートなる自負が生み出す清潔主義は、無学歴を不浄集団と見下す驕りも自然と根付く。

人間という非人間的なるものは、学問をすることで増長されていく。「学ぶ」こと=バカになる部分はあろう。学ぶこと、即ち知識をつけることで生来的な知恵が失われて行く。学ぶことで得るものがあるように、学びから失うものもある。「得ることで失うもの」、「捨てることで得るもの」という二律背反から人間が逃れられないなら、「学んで失わぬもの」を大事にすべきかと。

「実るほどに頭を垂れるべし」なる慣用句も、そのことを言っている。山崎豊子の『華麗なる一族』の中に、「人間性を失った企業は必ず滅びる」というセリフがある。人間性を失った冷酷な大企業より、人間関係を基調とする中小企業の温かさこそが人間的ではないか。「人間性とは何か?」の答えはそれこそ人によって様々だが、自分のなかでは、「敬愛心」という言葉が閃く。

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愚かな人間を批判するも向上心だが、学者だけが偉いと自惚れていたカントが、ルソーを読むことで自惚れを根本からへし折られた事例もある。以前、ここに来たフランス在住の自称言語学者が、「は」や「を」の使い方がなってないなどと自身のブログで批判をしたが、他人のブログをアレコレ腐す人間にケツの穴があるのか?他人のブログ批判はすべきでない。浅見定雄という学者がいる。

彼は山本七平の『日本人とユダヤ人』の批判書『にせ日本人とユダヤ人』を著わした。批判は大いに結構だが、著述家にとっての本望は、「思想の大河に自己の水滴一粒でも加えること」と誰かの言葉にある。小室直樹はこのように述べている。「専門家と称する学者が、浅学非才の典型である山本七平を、『聖書の読み方が間違っている』などと批判すべきものであるか」と苦言を呈した。

学者というは自前の領域や専門性を研鑽し、高めればいいのであって、一般人を批判するために存在するのではなかろう。まあ、そのような学者は、学者の端くれにも及ぶまい。プロ棋士がアマチュアに向かって、「将棋弱いですね」と言ってるようなもので、まずはそういうプロ棋士にお目にかかったことがない。錦織圭がテニス愛好家を、「下手くそ」呼ばわりすることもない。

学者が人間的に無知蒙昧であるのはいいとして、東大卒、京大大学院農学研究科COE研究員という肩書を持つ前園泰徳の嘱託殺人は、どうにも許せない判決だ。そもそも安易な嘱託殺人なる刑罰がなぜ存在するのか?嘱託殺人として理解に及ぶのは、老老介護の果ての殺人幇助という実例である。2014年11月、体の痛みを訴え、自宅で寝たきりだった妻=当時(83)への嘱託殺人があった。

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93歳の夫は妻に頼まれ、ネクタイで首を絞めて死亡させたのだが、自力歩行が困難な上、痛みで夜も眠れず、さらには痛み止めも効かなくなり、「死にたい」と言うばかりの妻を楽にさせてやるのが、愛情外の何であろう。裁判官は、「愛情故の犯行を疑う余地はない」としながらも、「短絡的な犯行…」との言葉を添えた。法の番人ゆえの言葉であろうが、実体としての言葉に意味はない。

このように嘱託殺人は止む無き場合もあるが、偽装を行うような人間の嘱託殺人などに信憑性は感じられない。92歳(犯行当時)の夫は、懲役3年、執行猶予5年(求刑懲役5年)であった。前園被告は前途ある若き女性を教師である立場を利用、不倫の果ての殺害で3年6月(求刑懲役15年)である。「裁判に真実はない」は巷いわれることだが、問題は『裁判官がなぜ間違えるか』にある。

上記秋山氏の著書には、「抱える事件に対する絶対数が足りない」、「3年程度で転勤が行われる上に、官舎に暮らす為、一般社会との接点が殆どない」など、「常識」を身につけることの難しさなどが書かれている。それでも有罪・無罪を裁判官に委ねるしかない現実がある。さて、本題の「偽装殺人」だが、母親と祖母を殺害した北海道空知郡南幌町の事件にも偽装があった。

事件発覚直後の家の内部は、箪笥などが荒らされるなど強盗の犯行を装っていた。犯人の次女は警察の事情聴取に、「寝ていて事件に気づかなかった」と話していた。前園同様あまりに稚拙だが、強盗の仕業にみせようなどは姉の指示であろう。犯罪隠ぺいや偽装工作などは、人間が自己保存のためにつく嘘であって、当たり前で自然にして責めることはできない。

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刑事訴訟には「自己負罪拒否特権」というのが許されている。これは、「何人も、自己に不利益な供述を強要されない」とする原則で、嘘をついてもいいことになる。犯罪や事件や事故を起こし、嘘をつくなという方が間違っている。親の財布からお金を拝借した子どもは見逃すべきである。目の前に座らせ、鬼の形相で、「正直に言いなさい。言わなきゃ許しません」などは拷問である。

大人が要領を得た嘘をつくともいえぬが、子どもの嘘はさらに要領がわるい。子どもはその場を上手くとりつくろおうとしたわけだが、知恵が浅かったゆえに上手く行かなかった。それを大人が責めるのは間違っている。嘘をつくのは悪い子、教育が失敗などは短絡的である。嘘の背景にあるもの、嘘の目的に親は意識を向けることが、子どもの嘘とにいいつき合いとなる。

大人(親)が絶対に嘘をつかないなどはないが、仮にそうであっても子どもの嘘は成長の息吹である。南幌町事件の偽装工作などは取るに足らないことで、自分はこの事件の問題は姉のズル差にあると感じている。妹は高2、姉は23歳である。もちろん殺人を止める立場だが、行為前提の結果でいえば姉がすべきことだった。上と下の秩序(長幼の序)とはそういうものだ。

妹に犯罪を押し付けていいものか?仮に妹の決意を聞いたとするなら、姉自らが引き受けることはできたハズ。成人と未成年の量刑考慮はあっても、そういう問題ではない。長姉として、人間として、いかがなものか。妹の尻馬に乗った姉は姑息でズルイ人間である。自分がやれないなら、何としても止めるべきである。無慈悲な姉を持ったが故の悲劇であった。

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殺人事件における偽装を犯罪者の自然な行為とするなら、犯罪の陰に偽装の大小は存在する。人間は犯罪を隠匿し、罪を逃れようとするが、自分が知る限りにおいて、自己の犯罪隠避の最高傑作は小説にある。松本清張の『点と線』は、別々の男女を別々に殺し、それをありがちな心中事件に見せかけるという、巧妙な偽装工作を主とした殺人事件を描いた秀作である。


日本一の東京駅のホームには、次々と列車の乗り入れがある。その東京駅の13番ホームから15番ホームが見渡せる時間が、一日の中でたったの4分ある。それをアリバイ工作に利用するなど、あまりに緻密で手の込んだアイデアに感嘆させられた。中1の時に、秀才Yから勧められたこの一冊で、自分は清張フリークになったが、自分にとって記念すべき一冊である。

何が火付け役であったかは判然不能だが、あの時期少年雑誌などでは日本中が探偵ブームであった。江戸川乱歩の明智小五郎や怪人二十面相などが発端であろうか、自分もしきりに友人と、「完全犯罪」などをいくつも考え、互いに披露し合った。今の時代に比すれば知的な遊びであった。既成のゲーム機などはなく、当時の少年たちの頭にのみゲーム機が存在していた。



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