世の中に「やってはいけないこと」は沢山ある。あるけれども、「やってはいけないこと」を沢山やってきた。もちろん、「やってはいけないこと」だと知りつつやってきた。その中で一番悪いことはなんだったろう。法律違反は交通違反くらいで前科はないが、一番悪い事が何?といって判別不能。行為一切は、悪いと思ってやるのだから大したことはない。
つまり、「やってはいけないこと」をやるくらいだから、「やってはいけないこと」は大したことではないのだろう。ならばなぜに、「やってはいけないこと」というのか?おそらく、自分はやるけれども多くの人はやらないだろうから、多数派としての、「やってはいけないこと」を無視してやってしまったことになる。泥棒や万引き経験はないが、浮気や不倫は普通にあった。
泥棒や万引きは刑事犯だが、浮気や不倫には刑事罰がないからか?仮に刑事罰がなくても泥棒や万引きはやらない。それはなぜか?何を盗むのかというより、盗むくらいなら買う。自分のお金で買えないものは、おそらく欲しいものではない。数千万の高級車に興味はない。とてつもない豪邸も維持費が大変なのでいらん。まあ、これらは盗めるものではない。
万引きをやる理由もよく分からん。買いたいものは普通に金を払って買い物かごにいれるよ。万引きする者はお金がないとか、払いたくないとかよりも、もはやクセなのだろう。自分は欲しいものは普通に金を払って買いたい。数百円、数千円のものを、金を払わず得した感などない。ならば浮気や不倫に刑事罰が科されていたら、やっただろうか?過程のことに答えは出せない。
それをしたいと思った時に、はてどの程度の刑事罰があるのかも考慮して、判断するだろうし、今ここで「たら」を言っても正確な答えは出ない。自分は酒を飲まないが、飲酒運転摘発数を探したが見当たらず、下図は飲酒運転による死亡事故発生件数(全国)である。事故を起こさない検挙数はどれくらいだろう?また、酒気帯び運転検挙数はすごい数と予想する。
刑事罰があってもこの数字なら、「酒飲みはしょーがないね~」としか言いようがない。ま、人の下半身もたいそうなものではないから、刑事罰があってもやる者はやるだろうが、自分がどうかは実感がわかないので答えられない。「殺人」もである。「人を殺すのはいけない?」という答えは個々の心にあればいい。理由があっても人を殺す以上、理由はないも同然。
何事においても、「いけない」理由が抑止になるとは限らない。ならば、「いけない」は言葉だけの問題か?「なぜ人を殺してはいけない?」に対し、観念論で答えるのもつまらないだろうし、ならば、「自分はなぜ人を殺さないか!」の思考が現実的だ。では、「なぜ自分は人を殺さない?」を問えば、答えは簡単。「殺す理由がない」。では殺す理由があったら殺すのか?
殺す理由があっても、殺人を実行しなければ、「殺す理由」ではないだろう。「殺そうと思った理由」というべきである。前者は、「確定」、後者は、「仮定」である。「母を殺す理由」を書いたのでなく、「母を殺そうと思った理由」が正しい。殺してないわけだから、「殺す理由」とは違い、「殺そうと思った理由」である。つまり、殺す理由が殺そうと思った理由に変更されたことになる。
「何かをした」という確定事実だけが行為である。世の中には人に物を頼む人間がいる以上、頼まれる人間が存在することになる。自分は人に頼みごとをするのは好きではない。理由は「横着」を戒めており、頼み事は、「横着」の範疇とする。そうではない、「自分にできないから頼むのだ」というなら、「自分にできないことを人に頼むのもすきではない」という自分。
なぜ?の理由は頼みごとをすることで、「貸し」を作るからと、頼み事は、「甘え」と感じる部分もある。先の、「横着」と合わせて、これだけあれば必然的に頼みごとをしなくなる。かつては妻にビデオ録画を頼んだものだが、彼女はキッチリとそれをしていた。ところがある女性(彼女といっておく)に急遽録画を頼んだら、実行されていなかった。そのことに自分は驚いた。
と、同時に腹を立てた。「ちゃんと頼んでるのに、なぜやらないんだ?」言葉通りに、まるで理解できなかった。「ごめんなさい。忘れてました」と、女は言う。頼んだことを忘れるものなのか?責任感の強い自分には考えられないことだったし、妻はキチンとやっていたことで、人間差を感じるしかない。「いい加減な女だな」と、彼女への気持ちが薄らぐ要因となる。
人に物を頼み、適えられなかったといって怒るのは間違いともいえるし、頼んだ自分が悪かった(相手が悪かった)という判断もできる。適宜にどちらかを使い分けるしかない。頼むのは好きではないが、頼まれることは嫌いではなかった。いろいろなことを頼まれたが、一度だけ、「私を殺して」と言われたことがある。その女は、「死ぬ」と言って、台所から包丁を持ってきた。
別れを言い出した時だが、その光景を何も言わず見ていた。そういう時は、「まさか半分」である。女はコタツの上に包丁を置いて、しばし眺めて言った。「怖いからあなたが殺ってよ」というので、女の猿芝居と思って、「本当にいいのか?」というと、「いいから殺って!」という。殺る気のない自分は、「犯罪人になりたくない。得はないし、黙って去るよ」といった。
女はどっと声をあげて泣き喚いた。可哀想と思ったが仕方のないこと。そんな女に同情し、思い直して離れないなら自分が負担になる。愛情ならともかく、同情というのはそうしたもの。その場の感傷に浸るより、心を鬼にして去るのが男の優しであろう。「死ぬなんて絶対損だ。いい男に巡り合える」と言ったが、死なれると困る。そういう配慮が言わせた言葉。
別れの時は相手の気を引くような言葉は言わず、憎まれてやるのが相手の今後を生かすと考えるが、「死ぬ」では状況が違う。男と女の世界だから、人の数ほど別れはあろう。「赤トンボ事件」というのがあった。ここでも話題にした赤トンボ研究者前園泰徳福井大学特命准教授による教え子殺人事件で、検察の「殺人罪」懲役13年に対する判決が10月14日に確定した。
裁判員裁判であったが、聞いて驚く懲役3年6月の実刑判決であった。執行猶予はつかなかったが、こんなバカな。いったい何故だ?弁護士のいう嘱託殺人が全面的に認められたからである。福井地検は控訴を行わず、前園被告も当初から判決を受け入れる意向を示し、控訴期限は同日であることから翌日に確定した。裁判所は検察の主張を確信的に避けれたのか?
被害者菅原さんの自殺をほのめかす行為を、「被告の関心を引く行為」とした検察側の主張は、メールなどの物証から、「セクハラ被害などにより、自殺の意思が強かったとする弁護側主張を否定するほどのものではない」という考えに置き、菅原さん本来の心情を表したものではないとした。自分も当時、自殺を口にする彼女に、関心を引く行為と判断していた。
さらに検察側は、同被告が(菅原さんから)家族へ危害が加えられることや、不倫関係が公になることへの回避を考えた状況もあったとしたが、「(同被告が)積極的に嘱託を受け入れる可能性もある」といった理由で、嘱託殺人を否定するには至らなかった。菅原さんから、「もう無理です」、「もう殺してください」などと言われたと同被告の供述している。
そうした菅原さん殺害に至る核心部分について、自殺の意思があったという前提を基に、「関係証拠と矛盾しない」と判断した。菅原さんとのやりとりや首を絞めた際の状況説明に、「具体的で、不合理な点は見当たらない」と信頼性を認めた。結果的に裁判員の、「疑わしきは被告人の利益に」という刑事裁判の原則が、判決理由の随所に表れる形となった。
人に頼まれごとを厭わない自分であるが、人から、「殺してください」と言われて、それが彼女であれ友人であれ、聞き入れることは10000%あり得ない。「そんなことを人に頼むな」、死ぬならどこかで勝手に死んで来いと、口には出さねど腹で思う。人を犯罪者にするような頼みごとをすべきでないし、聞き入れてはならない。これが常識人の考えである。
当初、弁護士が嘱託殺人を持ち出したとき、「死人に口なし」をいいことに、罪の軽減を狙った不届き千万な被告と腹が立った。いかに東大出にバカが多いからとはいえ、「私を殺して!」、「了解!わかりました」など、そんなバカなである。地元の福井新聞には菅原さんの遺族のコメントが載ったが、判決への失望感と怒りそれが以下の記事にも現れている。
「(3年6月という刑期は)あまりにも短すぎ、死人に口なしの結果としか言いようがない。ショックを受けている。被告の口から語られる内容は、どれも不合理なことばかりで、まるで信用できない。本当のみわが歪められていってしまったことが悔しくてならない。検察官には控訴していただき、高裁ではもっと事実を精査してほしい。」
不倫の代償は高くつく。芸能界ではほとぼり冷めれば、それも話題性として勲章になる場合もあるが、本件などは取り返しのつかない結果である。こんな短い刑期で出所とあらば、怒り収まらぬ被害者の親族あたりが、腹据えかねて被告の居住先身辺を探し出すことも考えられよう。危ない話だが、教師が教え子に不倫のあげく嘱託殺人など、あってはならぬ非道である。
「死にたがっていた」はともかく、「薬を飲んで苦しがっていたから助けた」など、司法解剖すれば嘘と分かるでまかせなど、何でこうもバカなのか?苦しがっていたなら病院に連れて行くなどが普通は浮かぶし、助ける=殺すなどあり得ない。当事者が死んでハッキリした証拠がないから、「疑わしきは罰せず」だが、教え子に罪をなするような男に嘱託殺人はないな。