子どもの愚痴を戒めるために(それだけが理由ではないが)、正月にお金をかけて「七並べ」をやった。「七並べ」は配られたカードに、「なに~、これ。ヒッド~、すぐにバテそう」などといちゃもんつけたくなるが、そういう愚痴は聞くのもうんざり、子どもであっても許せない。くだらない愚痴は絶対に言わせないツールとして、「七並べ」は最適である。
子どもの日記には、「家族がお金をかけて七並べをするんですか?」と呆れた教師の返事に傷つき、以降は担任教師に心を開かなくなった。家族のファミリームード、慣れ合いモードを否定はしないが、勝負においては親子も大人と子どもも、男女の差などない。真剣勝負のゆるぎのない時間を体験できる。一年のうちに親子が対等な3日間くらいあってもいい。
もたらすものはイロイロある。大人に将棋を勝つことで自信を深めて行くなどは好機である。負けた大人のだらしない言い訳は、滑稽というより耐えられない。どうして子どもを褒めてやれないのか?子どもは大人に負けるのは普通と思うが、勝てば嬉しい。子どもに負けて腹を立てる大人をたくさん見たが、こんな幼稚な大人は子どもにとって範とならない。
子どもに勝って喜ぶ大人も情けないが、子どもに負けて怒る大人は人として恥ずかしう。「七並べ」というゲームは将棋と違って、実力3分で、配られたカードの良し悪し、中途の展開が勝敗に左右する。人が喜ぶカードを出しては勝てない。相手を困らせる喜びこそ成長の一端である。ゲームを通じての真剣勝負は、一見平和に見える疑似親子にない率直な関係だ。
1980年11月に神奈川で起こった金属バット事件は、世間を震撼させた。2000年には岡山の17歳の高校生が、金属バットで母親を殺害する事件が起こった。前者は未明の寝込みを襲ったが、岡山の事件は、居間でテレビを見ていた母親(当時42歳)をバットで叩きのめして逃亡してる。母親はほぼ即死状態だった。いわゆる子の親殺し、これら尊属殺人が何を物語る…
2014年7月に発生した、「佐世保女子高生殺害事件」の加害少女は、事件発生前の3月、自宅で就寝中だった父親の頭部などをバットで数回殴打。父親は頭蓋骨陥没骨折の重体で緊急入院。医師による所見は、躊躇無く殺すつもりでバットを後頭部にフルスイングしなければ陥没骨折しない。女性の力の弱さが幸いしたという事件で、死んでもおかしくはなかった。
殴打の6日後、面談した高校の教職員に、「人を殺してみたかったので、父親でなくてもよかった。あなたでもいい」などと打ち明けていたという。この世で発生する凶悪犯罪者は圧倒的に、「男」である。全受刑者の数でも、「女」は5%前後、殺人ともなると女性比は0.5%まで下がっている。この数字はおそらく男の野獣性や、力の強さなど関係がないとはいえまい。
ほんの少し前までは、といって1995年であるが、尊属殺人は一般殺人に比べて重い量刑が科せられていた。尊属とは、「父母と同列以上にある親族」をいい、父母、祖父母、伯叔父母などを指す。刑法200条の、「自己または配偶者の直系尊属を殺したる者は死刑または無期懲役に処す」と、199条の、「人を殺した者は、死刑または無期もしくは3年以上の懲役に処す」。
比べて分かるのは、尊属殺人には、「死刑」、「無期懲役」の二つしか裁判官は選択しえず、これは不条理ということになり、200条は削除されることになる。それが1995年であった。同時に205条2項の「尊属傷害致死罪」も削除された。刑法200条も205条も明治時代に作られ、綻びを生じているのは明らかであり、封建制の名残ともいえる、「家制度」が根底にあった。
尊属規定は、日本人が敬愛心を自然なものとして保持していく象徴として残すべきとの論もあったが、それに比して、刑法200条の存在があることで、尊属殺人が不条理な重罰にさらされてきたという論もある。一般的な殺人と比べて、親・兄弟を殺めるのは、余程のっぴきならぬ事由があるという解釈だが、佐世保事件のような情状酌量の余地なき事件もある。
佐世保の加害少女は、衝動的ではなく、計画性を持って無防備な状態の父親の後頭部を鈍器で何度も殴る、という明らかに、「殺意が認定される殺人未遂」の重大犯罪を犯している。それでも、実の父親と娘という関係性から、刑事事件にはならずに表沙汰にはならなかった。父親は弁護士だが、身内の犯罪には弁護士も糞もない。これが他人なら即刻告訴するであろう。
尊属殺人、尊属傷害事件の判断は難しい。尊属を存続させるか否か…。そればかりではない。日本の刑法はなぜ殺人者に優しい国であろう。年間700人程度が心神喪失・耗弱で不起訴になっている。「キチガイに刃物は罪と為さず」という事のようだが、だったらキチガイに刃物を取らせないよう隔離すべきである。持たさずべき刃物を持たせて殺されてはたまらん。
佐世保の加害少女は他にも親に包丁を振りかざすなど、家庭内暴力とするにはあまりにもかけ離れた酷い、「殺人未遂」事件をたびたび起こしており、見かねた父親は娘を祖父母の家へ預けいれた。が、最終的には一人でマンション暮らしを始め、そこに級友を呼んで殺害・解剖などの猟奇事件を行ったのだ。刑事罰に該当しないとの精神鑑定は出たものの、被害者の親は納得できない。
事件後加害少女の父親は、「娘の行為は決して許されるべきものではありません。お詫びの言葉さえ見つかりません」という、苦慮のにじむ謝罪文を発表していたが、保護者としての責務を問われ、自らにもそれを問い自殺を図る。過去、娘は大量の犬や猫を殺していたが、終ぞ殺人を予測できなかったことに対し、娘の処置が適切でなかったという責任をとるしかなかったようだ。
下重暁子の『家族という病』(2015年幻冬社)なる本が50万部超のバカ売れ。「家族はすばらしいは欺瞞である」などの帯のコピーを気になって、手にした人も多かろう。が、自分はこうした他人の主観の前に、自身が問題意識を探り、提起するタイプである。日を遡って言うなら、映画にもなった本間洋平の『家族ゲーム』(1982年集英社)の方が衝撃的だった。
自分は松田優作主演の映画しか観ていないが、数度テレビドラマ化されている。鹿賀丈史版(1982年、11月8日放送の2時間ドラマ。続編の『家族ゲームII』は1984年3月12日放送 )、長渕剛版(1983年8月26日 - 9月30日の全6回 )、櫻井翔版(2013年4月17日 - 6月19日の全10回 ) がある。映画は主演の優作より、伊丹十三と由紀さおりの夫婦役がリアルでダメ親すぎてオモシロイ。
それぞれの評だが、鹿賀丈史版が原作にもっとも近く、長渕剛版は極力原作に則りながらも、コメディー色を取り込んで当時の家庭崩壊を描いているとし、いずれも原作にある下町の泥臭い風情や、狭い公営団地の背景、開発途上の湾岸地域としての工業地帯などは櫻井版にはなく、現代風に設定を変更されている。櫻井を主演に視聴ターゲットを絞れば、設定は変更すべきかと。
小説が秀逸であるがゆえに度々ドラマ化、映画化もされるわけだが、受験戦争の悲哀を予感させる原作が、時代の予兆を捉えていたことになる。深刻な家族崩壊が、今となっては笑い話になるそんな時代に成り下がっている。バカな親とバカな子どもたちによる合作劇ともいう「家族ゲーム」は、性懲りなく今後も続いて行く。いかに風雲児の家庭教師であれ、結局何も変わらなかった。
家族のことは家族が主体的に変えるしかないというアンチテーゼが本作の主題。同様人間の自己変革は自らで変えるしかない。数年間、外国に住んだ三女が自己変革を期待して行ったようだが、出た言葉は、「何も変わらなかった」である。自己変革は、一つの王国を転覆させるくらいに難しいと三女に言った。彼女はその言葉を彼女は気に入ったようだ。
自分が変えられないのは、自分を捨てないからで、捨てられない自分という拘りが自己変革を阻む。得度して出家するくらいの根性あっての自己変革である。一朝一夕に変えられるものではない。金美齢は著書『家族というクスリ』で下重暁子や上野千鶴子らの、"歪んだ家族論"を批判している。それもよかろう、文筆家は言論が商売だから、で批判すればいい。
自分は歪んだ家族の中で育ち、その中心にいた母を大いに批判をし、強烈な問題意識を持つで、自分なりの理想とする家族を作った。美齢氏のようにいい家庭というよき環境に育つことで、いい家族を作ることもできよう。が、悲惨な家庭に育っても、親を反面教師にすればいい家庭を作れる。自分には本間洋平や下重暁子の考えも理解できるし、金美齢の考えも理解をする。
いい環境であってもプラスにならないこともあれば、極貧から資産家になった人が多いように、マイナス部分やハンディをプラスにしていくのがポジティブシンキング。大酒のみで酒乱の父から酒は飲まないとなった友人もいた。言語障害を克服して有能なセールスマンになったのもいた。田中角栄はドモリであったが、演説の達人となった。環境がすべてではない。